Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。…

Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。礼拝説教の要約、今まで作成してきた教会のデボーションガイドやエッセイなどを掲載していきます。写真の転載はお断りします。

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    岡山県とキリスト教についてのエッセイ

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記事一覧

使徒言行録9章32節ー43節

「主が起こして下さる」 教会は聖霊に励まされて前進していくものです。その一環としてペトロの活動が証言されています。ペトロがリダにある教会を巡回するのも、聖霊によ…

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ヨハネの手紙第一3章19節ー20節

「心が責められるとき」 自分がどこに属しているかを確かめておくことは大切です。社会的には様々な所属があったとしてもクリスチャンのアイデンティティは真理に属してい…

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エゼキエル書19章1節ー14節

「悲しみのライオン」 礼拝では讃美が歌われます。ヒムもワーシップも多くは喜びに満ちた明るいものですが、中には物悲しい歌詞やメロディの賛美もなくはありません。聖書…

Koizumi Satoshi
13日前

テモテの手紙第一5章23節ー25節

「自由人として」 テモテはかなり厳格でストイックな生活を貫いていたようです。水ばかり飲んでいたとありますから。これは当時のエペソの町が享楽的で退廃的だった背景が…

Koizumi Satoshi
13日前

使徒言行録9章19節bー31節

「召された者の集まり」 回心後のサウロの歩みが見つめられています。彼は主イエスを宣べ伝えます。力を得てイエスがメシヤであることを論証します。周囲の者が驚きうろた…

Koizumi Satoshi
2週間前
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ヨハネの手紙第一3章17節ー18節

「行いと真実」 兄弟愛について見つめるヨハネは、具体的に困っている兄弟のことを念頭に置くのです。私たちの身近なところにいるあの人が私たちの助けを必要としていると…

Koizumi Satoshi
2週間前

使徒言行録9章1節ー19節

「選びの器」 神はどうやって人を救うのでしょうか。こういう人は救われないとの思い込みを砕くのがサウロの回心の物語です。彼の教会嫌いは徹底しています。迫害の手は怯…

Koizumi Satoshi
4週間前

ヨハネの手紙第一3章15節ー16節

「キリストのいのち」 ヨハネは手紙の送り先の小さい信仰共同体に目を向けています。兄弟と呼ばれ合う者たちの心のうちにまで光を当てるのです。憎しみは心の中で起こるこ…

Koizumi Satoshi
4週間前

エゼキエル書18章1節ー32節

「新しい心、新しい霊」 親の因果が子に報い、は日本のことわざです。当時のイスラエルにも似たような発想があったようです。先祖が犯した罪のせいで、自分たちが神に裁か…

Koizumi Satoshi
1か月前

ルカによる福音書10章17節ー22節

「賜物を生かすには」 やっていて苦にならないこと。それがあなたの賜物ですという理解は間違っていません。同時に出来ないと怯んでいたことができるようになる。それが賜…

Koizumi Satoshi
1か月前

ヨハネの手紙第一3章13節ー14節

「死からいのちへ」 驚くなとヨハネは言うのです。つまりそれはさもありなんと思うくらい当然のこととして受け止めないといけないのでしょう。何をでしょうか。世があなた…

Koizumi Satoshi
1か月前

エゼキエル17章1節ー24節

「二羽の鷲と杉の木と」 二羽の鷲と杉の木と言われてもなんの謎かけかと不思議に思います。実は一種の風刺です。解説しますと、一羽目の鷲はバビロンです。二羽目の鷲はエ…

Koizumi Satoshi
1か月前

テモテの手紙第一5章19節ー22節

「成熟を目指して」 パウロは長老が教会で訴えられることを想定して、その際の注意を促します。ふたりか三人の証人がいないなら、受理してはいけないとあるのです。複数の…

Koizumi Satoshi
1か月前

ヨハネの手紙第一3章11節ー12節

「カインとアベル」 神の子とはどのような者でしょうか。それは互いに愛し合うことを求めて生きる者と言っていいでしょう。それは初めから聞いてきた戒めです。時代が変わ…

Koizumi Satoshi
1か月前
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使徒言行録8章26節ー40節

「荒野にて」 突然の人事異動。この時フィリポはサマリヤにいます。聖霊が降り、リバイバルが起こってまさにこれからというタイミングです。主の使いが突然告げるのです。…

Koizumi Satoshi
1か月前
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ヨハネの手紙第一3章9節ー10節

「神の種」 ヨハネは信仰者のことを神から生まれた者と呼びます。母の胎から生まれただけでは神の子にはなれません。神に生み直して頂く必要があるのです。しかし、クリス…

Koizumi Satoshi
1か月前
使徒言行録9章32節ー43節

使徒言行録9章32節ー43節

「主が起こして下さる」
教会は聖霊に励まされて前進していくものです。その一環としてペトロの活動が証言されています。ペトロがリダにある教会を巡回するのも、聖霊による励ましをもたらすためです。教会とは絶えず聖霊からの励ましが必要とされているのです。ここで直面するのは病の問題です。中風で床についている寝たきり状態のアイネヤ。いつからそうなのか。8年間とも訳せますし、8歳からとも読めるのです。ある種の限界

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ヨハネの手紙第一3章19節ー20節

ヨハネの手紙第一3章19節ー20節

「心が責められるとき」
自分がどこに属しているかを確かめておくことは大切です。社会的には様々な所属があったとしてもクリスチャンのアイデンティティは真理に属しているということなのです。言い方を変えると、神の子の立ち場に置かれていると言うことです。こんなに至らない者が神に愛されて、真理に属している神の子とされた恵みに圧倒されるということなのでしょう。不十分な愛しか持っていない者だろうと、それでも神の子

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エゼキエル書19章1節ー14節

エゼキエル書19章1節ー14節

「悲しみのライオン」

礼拝では讃美が歌われます。ヒムもワーシップも多くは喜びに満ちた明るいものですが、中には物悲しい歌詞やメロディの賛美もなくはありません。聖書の時代、イスラエルの伝統にも悲しみの歌がありました。キーナーと言います。19章は全体が預言者エゼキエルによるキーナーなのです。人間は喜びを通して学びますが、悲しみを通しても学べることはたくさんあるのです。では、ここで述べられている悲しみは

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テモテの手紙第一5章23節ー25節

テモテの手紙第一5章23節ー25節

「自由人として」
テモテはかなり厳格でストイックな生活を貫いていたようです。水ばかり飲んでいたとありますから。これは当時のエペソの町が享楽的で退廃的だった背景があります。そういう文化の中から教会に導かれた者は、主イエスを信じてもライフスタイルが従来と変わらないことが起こります。そういう人に福音に基づく生活を提示するには、厳しめで禁欲的な生き方くらいで丁度いい場合もあるのです。教会を形成する戦いと言

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使徒言行録9章19節bー31節

使徒言行録9章19節bー31節

「召された者の集まり」
回心後のサウロの歩みが見つめられています。彼は主イエスを宣べ伝えます。力を得てイエスがメシヤであることを論証します。周囲の者が驚きうろたえるほどの変りぶりですし、熱の入れ方なのです。この熱意はどこから来るのかというと神が彼を召した事実に基づくものです。神が選んだのです。その召しにお答えして生きていくことが信仰です。いい加減なことなど出来るはずはありませんし、人の評価など構っ

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ヨハネの手紙第一3章17節ー18節

ヨハネの手紙第一3章17節ー18節

「行いと真実」
兄弟愛について見つめるヨハネは、具体的に困っている兄弟のことを念頭に置くのです。私たちの身近なところにいるあの人が私たちの助けを必要としているというのです。助けの手を伸ばそうとするならば、持っている財さえも惜しまずに使うこともあり得るわけです。財がないなら生活は保てない以上、これはいのちの一部を分かち合うことだと言っていいでしょう。財に限りませんが、自分にあるものを分かち合えと言う

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使徒言行録9章1節ー19節

使徒言行録9章1節ー19節

「選びの器」
神はどうやって人を救うのでしょうか。こういう人は救われないとの思い込みを砕くのがサウロの回心の物語です。彼の教会嫌いは徹底しています。迫害の手は怯むことはありませんし、男女問わず縛りあげる無分別さも語られます。その上に距離をものともしないでダマスコの諸会堂にまで執念深く追い詰めますし、クリスチャン処分の公式の許可まで求めているのです。こんな男が果たして救われるというのでしょうか。

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ヨハネの手紙第一3章15節ー16節

ヨハネの手紙第一3章15節ー16節

「キリストのいのち」
ヨハネは手紙の送り先の小さい信仰共同体に目を向けています。兄弟と呼ばれ合う者たちの心のうちにまで光を当てるのです。憎しみは心の中で起こることだからです。見た目には憎しみを隠すことなら可能でしょう。それでも憎しみは人殺し同然だと指摘するのです。憎しみと殺人では次元が違うと思うでしょうか。いいえ、相手への憎しみが募って機会さえあるならばいつ殺意が起こるか、危ういとは言えるのです。

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エゼキエル書18章1節ー32節

エゼキエル書18章1節ー32節

「新しい心、新しい霊」
親の因果が子に報い、は日本のことわざです。当時のイスラエルにも似たような発想があったようです。先祖が犯した罪のせいで、自分たちが神に裁かれるのは不公平で理不尽ではないかと言わんばかりです。これはどうもモーセの十戒を間違って読んだことから来る誤った信仰理解であったようです。主は誤解を正されます。子は親の犯した罪に責任を負う必要はないのです。神は世代間の悪循環を断ち切り、自由に

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ルカによる福音書10章17節ー22節

ルカによる福音書10章17節ー22節

「賜物を生かすには」
やっていて苦にならないこと。それがあなたの賜物ですという理解は間違っていません。同時に出来ないと怯んでいたことができるようになる。それが賜物になる場合もあります。主から伝道に派遣された70人がそうです。悪霊を追い出せたのです。やってみたらできたのです。悪霊追い出しはユダヤ教のエルサレム神殿の権威筋にしか認められていません。それなのに無名の何者でもない素人がイエスの名で祈ると悪

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ヨハネの手紙第一3章13節ー14節

ヨハネの手紙第一3章13節ー14節

「死からいのちへ」
驚くなとヨハネは言うのです。つまりそれはさもありなんと思うくらい当然のこととして受け止めないといけないのでしょう。何をでしょうか。世があなたがたを憎むことがです。信仰に生き、正しいことをしているのだから尊敬されるはずだと言う認識は甘いのです。そういう生き方をされると困る人がいるのです。罰が悪いのです。自分の罪が明るみに出されてしまったような気がして居心地が悪いのです。だから目を

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エゼキエル17章1節ー24節

エゼキエル17章1節ー24節

「二羽の鷲と杉の木と」
二羽の鷲と杉の木と言われてもなんの謎かけかと不思議に思います。実は一種の風刺です。解説しますと、一羽目の鷲はバビロンです。二羽目の鷲はエジプトで、杉の木はイスラエルの王です。イスラエルの王ゼデキヤ王が、当時、世界地図を塗り替え、国境線を変えていくほど勢いのあった軍事大国バビロンの臣下に下るのを潔しとせず、翻意し、エジプトに助けを求めようとした政策の愚かさをエゼキエルはたとえ

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テモテの手紙第一5章19節ー22節

テモテの手紙第一5章19節ー22節

「成熟を目指して」
パウロは長老が教会で訴えられることを想定して、その際の注意を促します。ふたりか三人の証人がいないなら、受理してはいけないとあるのです。複数の証人の規定は旧約聖書の戒めを踏まえています。長老への訴えは真実かどうかは慎重に見極めないといけないことなのです。中には身に覚えのないことで批判されたり、み言葉に基づいて指導したことで逆恨みをかうこともありえる話です。エペソ教会を巡る諸問題は

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ヨハネの手紙第一3章11節ー12節

ヨハネの手紙第一3章11節ー12節

「カインとアベル」
神の子とはどのような者でしょうか。それは互いに愛し合うことを求めて生きる者と言っていいでしょう。それは初めから聞いてきた戒めです。時代が変わったからと言って取り下げてもいいという類の戒めではないのです。これからもずっと互いに愛し合う戒めは生き続けるのです。いいや人生には力も必要だろう。成功も必要だろうと、他の何かに目をひかれて、愛し合うことをないがしろにしてはいけないのです。

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使徒言行録8章26節ー40節

使徒言行録8章26節ー40節

「荒野にて」
突然の人事異動。この時フィリポはサマリヤにいます。聖霊が降り、リバイバルが起こってまさにこれからというタイミングです。主の使いが突然告げるのです。ガザに下る道に赴け。彼はためらいなく即座に出かけます。即断です。何故でしょう。人通りのさみしい地域なのに。日差し照りつける砂漠の荒れ野です。殷賑の賑わいとは程遠い鄙びた土地なのに。マイナスの要素ばかりではありませんか。

伝道が徹頭徹尾主の

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ヨハネの手紙第一3章9節ー10節

ヨハネの手紙第一3章9節ー10節

「神の種」
ヨハネは信仰者のことを神から生まれた者と呼びます。母の胎から生まれただけでは神の子にはなれません。神に生み直して頂く必要があるのです。しかし、クリスチャンは罪を犯さないとか、罪を犯すことができないと言われると、たちまち不安に陥るのです。では日々罪を犯す自分は偽クリスチャンなのだろうか。悪魔から出たものなのだろうかと。しかし、ヨハネはあなたは悪魔から出たものかもしれないと怖がらせているわ

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