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ヨハネの手紙第一3章19節ー20節

「心が責められるとき」
自分がどこに属しているかを確かめておくことは大切です。社会的には様々な所属があったとしてもクリスチャンのアイデンティティは真理に属しているということなのです。言い方を変えると、神の子の立ち場に置かれていると言うことです。こんなに至らない者が神に愛されて、真理に属している神の子とされた恵みに圧倒されるということなのでしょう。不十分な愛しか持っていない者だろうと、それでも神の子だと認めて頂けるのです。

そこがわかると心が安らかにされると言うのです。不安が消えるのです。神の子とされた以上、父である神と交わるのは当然のことでしょう。礼拝に出る時に心が満たされるのもそのためです。ここであなたは神の子なのだと認めて下さるのは主なる神です。もっと言うと、人からの評価が悪評であろうと、神からの確信さえ得られているなら、それだけで平安に包まれると言うことでしょう。

興味深いことに、ここでヨハネは自分で自分の心を責めるようなことがあったとしてもそこに気をとられてはいけないというのです。自分で自分を評価したり、断罪したりして自分はダメだと追い詰めなくてもいいのです。良心の声に過剰に反応しすぎて押しつぶされることにも問題があるのです。そもそも私たちは信仰的に工事中なのです。うまくいかなくて当然です。未完成である自分を否定する思いから抜け出す必要があるでしょう。

そもそも信仰とは自分を見つめることではないはずなのです。どこまでも見つめるべきは神です。見つめるならわかってきます。この方が自分の心以上に大きい方だということが。神は決して私たちが自分を責めるようには私たちを見てはおられないのです。主は私たちの弱さも至らなさも何もかもご存じの上で、受け入れて下さっているのですから、必要以上に落ち込むことはやめないといけないのです。

むしろ神は私たちを建て上げます。造り変えます。成長させます。どうやってでしょうか。礼拝においてです。礼拝の中に主のあわれみが注がれるのです。み言葉で養って下さいます。み言葉で強めても下さいます。それは礼拝が終わった後にも続きます。たとえ不完全であろうと、生活の中であわれみの心をもって、相手に向かうとき、その一歩を通して、神は相手を助けているだけではない。私たちをも建て上げようとしておられるのです。

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