Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。…

Koizumi Satoshi

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、岡山神召キリスト教会、福山キリスト教会の牧師。礼拝説教の要約、今まで作成してきた教会のデボーションガイドやエッセイなどを掲載していきます。写真の転載はお断りします。

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  • 説教要約集

    過去の説教要約を掲載しています。

  • 福山説教要約集

    福山キリスト教会での礼拝説教の要約です。

  • バイブルトレーニング

    クリスチャン向けの脳トレ。子どもから高齢者まで楽しく、聖書に親しみながら、ゲーム感覚で脳を活性化していきましょう。初級編、中級編各レベルが違います。

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    岡山県とキリスト教についてのエッセイ

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    福山とキリスト教についてのエッセイです。

最近の記事

エゼキエル書18章1節ー32節

「新しい心、新しい霊」 親の因果が子に報い、は日本のことわざです。当時のイスラエルにも似たような発想があったようです。先祖が犯した罪のせいで、自分たちが神に裁かれるのは不公平で理不尽ではないかと言わんばかりです。これはどうもモーセの十戒を間違って読んだことから来る誤った信仰理解であったようです。主は誤解を正されます。子は親の犯した罪に責任を負う必要はないのです。神は世代間の悪循環を断ち切り、自由にして下さるお方なのです。 それどころか、どんな人間にも人生のやり直しは約束され

    • ルカによる福音書10章17節ー22節

      「賜物を生かすには」 やっていて苦にならないこと。それがあなたの賜物ですという理解は間違っていません。同時に出来ないと怯んでいたことができるようになる。それが賜物になる場合もあります。主から伝道に派遣された70人がそうです。悪霊を追い出せたのです。やってみたらできたのです。悪霊追い出しはユダヤ教のエルサレム神殿の権威筋にしか認められていません。それなのに無名の何者でもない素人がイエスの名で祈ると悪霊でさえ従うと言うのです。 成功体験です。いい意味での自信が生まれます。でき

      • ヨハネの手紙第一3章13節ー14節

        「死からいのちへ」 驚くなとヨハネは言うのです。つまりそれはさもありなんと思うくらい当然のこととして受け止めないといけないのでしょう。何をでしょうか。世があなたがたを憎むことがです。信仰に生き、正しいことをしているのだから尊敬されるはずだと言う認識は甘いのです。そういう生き方をされると困る人がいるのです。罰が悪いのです。自分の罪が明るみに出されてしまったような気がして居心地が悪いのです。だから目を背けたくなるのです。 だからそういう生き方はやめろと攻撃するのです。なんだかん

        • エゼキエル17章1節ー24節

          「二羽の鷲と杉の木と」 二羽の鷲と杉の木と言われてもなんの謎かけかと不思議に思います。実は一種の風刺です。解説しますと、一羽目の鷲はバビロンです。二羽目の鷲はエジプトで、杉の木はイスラエルの王です。イスラエルの王ゼデキヤ王が、当時、世界地図を塗り替え、国境線を変えていくほど勢いのあった軍事大国バビロンの臣下に下るのを潔しとせず、翻意し、エジプトに助けを求めようとした政策の愚かさをエゼキエルはたとえ話を使って批判しているのです。 幾ら勢いがあっても成り上がりのバビロンに頭を下

        エゼキエル書18章1節ー32節

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        記事

          テモテの手紙第一5章19節ー22節

          「成熟を目指して」 パウロは長老が教会で訴えられることを想定して、その際の注意を促します。ふたりか三人の証人がいないなら、受理してはいけないとあるのです。複数の証人の規定は旧約聖書の戒めを踏まえています。長老への訴えは真実かどうかは慎重に見極めないといけないことなのです。中には身に覚えのないことで批判されたり、み言葉に基づいて指導したことで逆恨みをかうこともありえる話です。エペソ教会を巡る諸問題は複雑なのですから尚更です。 考えてみると主イエスを筆頭に、聖書に出てくる奉仕者

          テモテの手紙第一5章19節ー22節

          ヨハネの手紙第一3章11節ー12節

          「カインとアベル」 神の子とはどのような者でしょうか。それは互いに愛し合うことを求めて生きる者と言っていいでしょう。それは初めから聞いてきた戒めです。時代が変わったからと言って取り下げてもいいという類の戒めではないのです。これからもずっと互いに愛し合う戒めは生き続けるのです。いいや人生には力も必要だろう。成功も必要だろうと、他の何かに目をひかれて、愛し合うことをないがしろにしてはいけないのです。 ここでヨハネは神の子どもとは真逆の価値観に生きる人物に目を向けるのです。創世記

          ヨハネの手紙第一3章11節ー12節

          使徒言行録8章26節ー40節

          「荒野にて」 突然の人事異動。この時フィリポはサマリヤにいます。聖霊が降り、リバイバルが起こってまさにこれからというタイミングです。主の使いが突然告げるのです。ガザに下る道に赴け。彼はためらいなく即座に出かけます。即断です。何故でしょう。人通りのさみしい地域なのに。日差し照りつける砂漠の荒れ野です。殷賑の賑わいとは程遠い鄙びた土地なのに。マイナスの要素ばかりではありませんか。 伝道が徹頭徹尾主のわざだからです。誰がどこでいかなる対象者にどうやって福音を語るのか。主導権を握る

          使徒言行録8章26節ー40節

          ヨハネの手紙第一3章9節ー10節

          「神の種」 ヨハネは信仰者のことを神から生まれた者と呼びます。母の胎から生まれただけでは神の子にはなれません。神に生み直して頂く必要があるのです。しかし、クリスチャンは罪を犯さないとか、罪を犯すことができないと言われると、たちまち不安に陥るのです。では日々罪を犯す自分は偽クリスチャンなのだろうか。悪魔から出たものなのだろうかと。しかし、ヨハネはあなたは悪魔から出たものかもしれないと怖がらせているわけではないのです。 むしろ私たちには神の種が宿っています。み言葉と言ってもいい

          ヨハネの手紙第一3章9節ー10節

          エゼキエル16章44節ー63節

          「回復の物語」 自分のきょうだいとの関係は時に複雑です。エルサレムを一貫して女性にたとえてきた16章の長い物語ですが、終盤にきていきなりエルサレムの姉と妹が登場します。それにしても姉が、背教の町サマリヤ、妹が悪徳の異教の町ゴモラと紹介されたらショックです。しかも素行の悪い三姉妹の次女であるエルサレムがこの中で一番ひどいと糾弾されたとあっては。悪名高い姉のサマリヤや妹のゴモラがまだましだったと主に言われたわけですから。 私たちも自分を評価する目はかなり甘い時があります。相当深

          エゼキエル16章44節ー63節

          ヨハネの手紙第一3章7節ー8節

          「惑わされないで」 惑わされないようにとヨハネは告げているのです。なぜなら私たちの周りには、信仰のつまづきとなるものや惑わしとなるものが満ち溢れているからです。あるいは惑わすものは当時以上に格段と増えていると言ってもいいのかもしれません。実際、教会を正しくない方向に導こうとする人々の存在があったことが伺えます。間違った教えの風はいつの時代も吹いてくるものなのです。 特にここでヨハネが問題にしていることは、正しい福音理解から逸れていくときに、正しい生き方からも逸れていってしま

          ヨハネの手紙第一3章7節ー8節

          テモテへの第一の手紙5章17節ー18節

          「神の言葉のために」 パウロは長老に目を注いでいます。長老とは教会において指導の任に当たる人だとあります。指導と言っても、自分の思うところを好き勝手に命じるというのではないのです。何故なら、そこにはみことばと教えのために骨おることだと言われているからです。これは現代で言うと牧師の働きと重なるところがあると言っていいでしょう。礼拝において聖書から説教を語ることが重んじられるのは、み言葉によって生活も人生も決定するからなのです。 そういう長老は二重の尊敬を受けるにふさわしいのだ

          テモテへの第一の手紙5章17節ー18節

          ヨハネの手紙第一3章5節ー6節

          「本来の自分」 ヨハネは罪の問題について語るのです。前回の学んだ通り、罪が深刻な状況をもたらすのですから、私たちも真剣に罪と向かい合わないといけないということになります。なんとかしてこの問題を解決しないといけないのです。ここに朗報があります。神の御子イエス様は罪を取り除くためにこの世においで下さったという事実です。これは洗礼者ヨハネも告白したことです。神の子イエス様には罪がないのです。罪を犯すこともなさらないのです。 私たちが神の子の立場をいただき、キリストに似た者へと変え

          ヨハネの手紙第一3章5節ー6節

          テモテへの手紙第一5章9節ー16節

          「知恵を尽くして」 パウロは身寄りのない女性に対する社会的奉仕に目を向けています。ここにあるのは具体的な助言です。登録制にしなさいとあるのです。しかも60歳以下の女性は一律登録すべきではないと言うのです。古代と比べて平均寿命の伸びた現代では60歳にプラスアルファして読んだほうがいいのでしょう。さらに条件が加えられています。ひとりの伴侶だけをもった貞淑な女性。そのうえで教会員として評判のいい女性が登録の対象になるのです。 この件に関して教会は様々な困難や問題を通って、多くの事

          テモテへの手紙第一5章9節ー16節

          エゼキエル16章15節ー43節

          「罠を避けて」 人生には思わぬ落とし穴が潜んでいます。世界の奇跡と呼ばれるほど栄え、国際都市になった当時のエルサレム。実はその美しさにも影がありました。世界中から人が集まるがゆえに様々な信仰も流入してきます。しかもそれは不道徳で残酷で、人として道を踏み外すような危険なものでさえありました。たとえばモレク信仰。なんと小さい子どもを生きたままいけにえにして、火あぶりにする残酷な儀式さえまかり通るようになっているほどでした。 苦労が多いと多いで落とし穴もある。しかし繁栄していれば

          エゼキエル16章15節ー43節

          使徒言行録8章14節ー25節

          「神の賜物」 エルサレムにいた二人の使徒ペトロとヨハネがサマリヤのリバイバルを聞いて訪れるのです。彼らが人々のために手を置いて祈ると聖霊が下ったというのです。それはこの目で見ることができるほど顕著なものですから、異言や預言といった目に見える超自然的賜物が伴ったのでしょう。聖霊の働きを単に心の問題だけに限ってはいけません。それはからだの体感を伴うこともありますし、五感に働きかける場合もあるからです。 なぜフィリポが手を置いて祈らなかったかはわかりません。あるいは使徒たちにサマ

          使徒言行録8章14節ー25節

          エゼキエル16章1節ー14節

          「生きよ」 多くの人は自分が洗礼を受けた記念日を記録にとどめて証しとします。今日の話もまた思い出のアルバムのようなものです。エルサレムの出自。それは望まれずに生まれてきた女児の捨て子だったという悲しい過去。父がアモリ、母がヘテとは不道徳で好戦的な嫌われ者の子として祝福されずに生まれてきたことを意味するたとえです。誰からも愛されず野原に遺棄されたのです。 身につまされます。今も多くの人が生きにくさを抱えているからです。家族からの愛情を感じられずに育つ人。世の中からつまはじきに

          エゼキエル16章1節ー14節