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エゼキエル16章15節ー43節

「罠を避けて」
人生には思わぬ落とし穴が潜んでいます。世界の奇跡と呼ばれるほど栄え、国際都市になった当時のエルサレム。実はその美しさにも影がありました。世界中から人が集まるがゆえに様々な信仰も流入してきます。しかもそれは不道徳で残酷で、人として道を踏み外すような危険なものでさえありました。たとえばモレク信仰。なんと小さい子どもを生きたままいけにえにして、火あぶりにする残酷な儀式さえまかり通るようになっているほどでした。

苦労が多いと多いで落とし穴もある。しかし繁栄していればしていたで誘惑もあるものです。あまりもの退屈さに暇を持て余し、無気力になり、一時的な快楽や刺激や興奮で気を紛らわせようとすることは私たちにも体験がありそうな話ではないですか。そのうちに誰かを残酷に傷つけても、なにも感じないような無神経や精神麻痺に陥ってしまうのです。悲しいことに、それでも人は苦労を重ねた過去のことは忘れてしまう生き物のようです。

このようなエルサレムは浮気を繰り返す妻にたとえられます。エジプトの魔術にのめり込み、アッシリアのまじないに懲り、バビロンのオカルトに染まっていくのですから。それは主人の稼いだ生活費であちこちへ夜遊びに向かう遊び人のようなものです。しかも、自分でお金を貢いでまで相手をしてくれとせがむわけですから、ある面では遊女以上にたちが悪いわけです。しかし不思議にもエルサレムからは生きる喜びはなにひとつ感じられません。

神の恵みで救われた私たち。しかし救いに伴う崇高な使命感や意欲や情熱を失うなら、たちまち堕落します。恵みを無駄に消費し、その場限りの刹那的な享楽に身を任せてしまうこともないとは言えない。救いや洗礼はゴールではない。救われたらあとは天国が待っているだけ、となんの目的意識も持たずに生きるなら、無気力に陥り、堕落へは一直線です。救いの恵みと賜物を主と隣人のためにどうやって情熱をもって生かすかが信仰生活だと言うのに。

これが本当の夫婦の話ならお互いに悪いところはあるでしょう。しかしこと主とエルサレムの関係について言えば、主には落ち度が全くありません。妻が一方的に裏切ったのです。主はなんとか目を覚まさせようと乱費気味の妻から財布を取り上げます。お金がなくなれば、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに男たちも妻から去っていくことでしょう。すってんてんになり丸裸にされた現実に気づくなら、もしかしたら夢から醒めるかもしれません。

私たちも主に対して誠実かというと決してそんなことは言えない。なんど主を裏切り、主を悲しませたかわからない。そんな者がそれでもなお信仰に生きているとするなら、自分の力であるはずがない。ひとえに主の我慢と忍耐。一言で言うと主の誠実さだけにかかっているのです。離婚を言い渡されても仕方のない不貞。それでも尚、主の誠実さがあるなら、人は堕ちるところまで堕ちてもそれで人生が終わるわけではありません。必ず回復できます。

悲しいことに人は痛い目にあわないと真実に気づかない場合が多い。死にたくなるほど追いつめられることもあります。生きる意味がわからなくなるほどの無気力に陥ることもあります。ましてや一度の失敗さえもゆるされず社会的生命も奪われかねない現代社会です。しかし、たとえそうであろうと、そこにも主の愛が届くなら回復は必ず可能です。もし、あなたがもう一度真剣に人生をやり直したいと主に祈るなら。今、この瞬間からでも。

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