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エゼキエル16章44節ー63節

「回復の物語」
自分のきょうだいとの関係は時に複雑です。エルサレムを一貫して女性にたとえてきた16章の長い物語ですが、終盤にきていきなりエルサレムの姉と妹が登場します。それにしても姉が、背教の町サマリヤ、妹が悪徳の異教の町ゴモラと紹介されたらショックです。しかも素行の悪い三姉妹の次女であるエルサレムがこの中で一番ひどいと糾弾されたとあっては。悪名高い姉のサマリヤや妹のゴモラがまだましだったと主に言われたわけですから。

私たちも自分を評価する目はかなり甘い時があります。相当深刻な状況に陥っても、それでもあの人よりはましだ、あの人ほどではないと比べて、たかをくくって安心しているのです。自分の内面を掘り下げるよりも目の前の刺激や享楽にのめり込みがちなのです。しかし、それは一種の現実逃避であってなんの解決にもつながりません。神様は虚像に隠された私たちの真実をえぐりながら、立ち止まってもう一度よく考えるように促しておられるのです。

不思議なことですが、回復がサマリヤやゴモラから始まるのもそのためです。あんな恥知らずな町は消えてなくなればいいのにと思っていた悪徳の町。なるほど、一度は神の審判を受けました。しかし、エルサレムの荒廃を横目に、神の恵みによって滅びたはずの町が新生サマリヤとして立ち直り、新生ゴモラとして復興していくというのです。ひとり置いてけぼりを食らったかのような形のエルサレムの焦りと狼狽ぶりが伝わってくるかのようです。

間違った選民意識は誤ったプライドを生みます。誤解してはいけない。神はどこからでも神の民を起こすことができるのです。本気で立ち直りたいなら、神の審判を受け入れ、徹底的に砕かれ、粉々にされる必要がありました。主に用いられる器はいつの時代も、挫折を味わい、みじめさを通り、一度神の手で粉々に砕かれ、聖められてから用いられるではありませんか。そもそも自分はみじめだと認めようとしない者に信仰など必要ないではないですか。

そうやって審判を受け入れて回復されていくエルサレムには変化があります。主の恵みとあわれみの大きさに心ふるえるのです。一体、どこの世界に浮気を繰り返す妻をゆるしてやり直そうという寛容な夫がいるでしょうか。しかし神は自ら傷つき、痛みながらそれでもエルサレムを愛し抜こうとなさる。この真実の愛を知った時、妙な誇りもプライドも溶かされて、惨めな自分をありのまま愛して下さる主とともに回復は始まっていくのです。

それだけではない。回復は他者との関係も変えます。信仰熱心な者が陥りやすい他者への非寛容。自分なりの標準で相手を裁き、正義感を振りかざして人を追いつめることもないわけではありません。しかし神の寛容さに心打たれた者はもはや非寛容には生きられない。むしろ自分のような者も救われた事実を知って、相手の救いや霊的成長のために寛容に接していくように変えられていきます。私たちもまた回復の物語の道を歩いているのですから。

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