見出し画像

エゼキエル書18章1節ー32節

「新しい心、新しい霊」
親の因果が子に報い、は日本のことわざです。当時のイスラエルにも似たような発想があったようです。先祖が犯した罪のせいで、自分たちが神に裁かれるのは不公平で理不尽ではないかと言わんばかりです。これはどうもモーセの十戒を間違って読んだことから来る誤った信仰理解であったようです。主は誤解を正されます。子は親の犯した罪に責任を負う必要はないのです。神は世代間の悪循環を断ち切り、自由にして下さるお方なのです。

それどころか、どんな人間にも人生のやり直しは約束されています。悪人の死を喜ばない、むしろ悪人が生きることを喜ぶと宣言される神の下では、どんな悪人であろうと、どんな過去や過ちや事情がある人間であろうと再生することができる。これこそ福音なのです。確かに人生には罪の泥にまみれることはあります。取り返しのつかない失敗をおかした自分など生きるに値しないと嘆き、再起不能だと絶望する人こそ、福音を聞いて頂きたいのです。

こう考えると神は不公平だという非難は全く的を得ていないことになりはしないでしょうか。人は自己憐憫にひたるのが得意です。親のせいでこうなった。環境のせいでこうなった。あの人のせいでこういう人生になったと神を責めて、うずくまっている間は新しい人生の一歩を踏み出す必要がないからです。むしろその言い訳の背後に横たわるのは自分で責任を引き受けて生きることを回避しようとする甘えや怠慢、おそれ、だとも言えるのです。

けれども主は人がその言い訳にいつまでもうずくまったままでいることをおゆるしにはなりません。自分を被害者に仕立て、自分を犠牲者の位置に置いたままでは解決がつかないからです。いいえ、神は自分の責任で神と向かい合い、自分の足で一歩ずつ前に踏み出すことを願っておられるのです。生まれてきた環境がどうであれ、育ってきた境遇がどうであれ、神を仰ぐ者には新しい心と新しい霊が与えられ、新しい生き方が始まるのですから。

実際、居直りと被害者意識に甘んじている以上は、信仰的に生きることは困難です。むしろこういう発想は信仰にとって敵だと言ってもいいほどです。誰かのせいでこういう人生になったと思い込み、ある種のあきらめと運命論に逃げ込んでいるうちに霊的な感覚はますます麻痺していきます。その最後に行きつくのは霊的な死でなくてなんでしょうか。死んではいけない。神を仰いで生きよというあたたかい促しを聞くわけにはいきませんか。

自己憐憫と被害者意識にひたりがちな者の目を覚まし、新しい心と生き方を生み出して下さる神の約束への揺るがない信頼。将来を切り開く祝福の鍵はここにしかない。あなたの人生を歩むのは、誰でもない、あなたでしかないのですから。冷めていてはいけません。あきらめて主への期待を喪失してもいけない。自分の不誠実に気付いたなら素直に認めて、わたしを作り変えるのは主よ、あなただけですと告白し、立ち上がってみせましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?