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使徒言行録8章14節ー25節

「神の賜物」
エルサレムにいた二人の使徒ペトロとヨハネがサマリヤのリバイバルを聞いて訪れるのです。彼らが人々のために手を置いて祈ると聖霊が下ったというのです。それはこの目で見ることができるほど顕著なものですから、異言や預言といった目に見える超自然的賜物が伴ったのでしょう。聖霊の働きを単に心の問題だけに限ってはいけません。それはからだの体感を伴うこともありますし、五感に働きかける場合もあるからです。

なぜフィリポが手を置いて祈らなかったかはわかりません。あるいは使徒たちにサマリヤ人の信仰を見せることで、ユダヤ人でない者も聖霊に預かることが出来るのだと彼らに確認させるためかもしれません。聖霊は異なる立場の者の一致のために働かれます。残念ながら信仰をもっても偏見に縛られるのが人間です。しかし聖霊自らが働いて下さって、私たちの思い込みや先入観を取り去って下さるのです。

シモンの間違いは、聖霊の賜物が金で買えると思い込んでいることにありました。自分が誰かに手を置いて祈れば聖霊が下るような資格を金で得ようと言うのです。今まで魔術師のトップの立場でいたように、教会の世界でもトップに立ちたいのでしょう。問題は金を積み上げることで楽をして一気に達成しようとする安易さにありました。しかし聖霊が人の思い通りに働くはずがありません。聖霊は決して人のコントロール下に入りません。

もちろん、教会には指導者もリーダーも必要なのは間違いありません。しかしそれは野心や功名心に駆られて自己推薦するものではありません。長い時間をかけてこつこつと人に仕え、人を愛し、時には痛みさえも背負って生きる姿が尊敬を集め、周りからあの人こそリーダーにふさわしいと認められたうえで導かれる者なのです。その人がリーダにふさわしいかどうかは懐具合や、短かすぎる時間だけで見極められるはずがないではありませんか。

ペトロの指導は彼が思い違いを悟り、悔い改めの祈りをすることです。実際、彼は賜物だけが欲しいのであって、聖霊が必要などとは思ってもいません。信仰は持っていたでしょうが、祈ったとは一言も書かれていないのです。たとえ信仰をいただいても価値観が変わっていないままのこともある。別の方向を向いていることもある。間違った理解のままのこともある。これら未整理のことを放っておくことはできないのです。

ここでペトロが彼のためになによりも必要だと思っているのは彼自身の祈りである点が大切です。祈り抜きに信仰が軌道修正されるはずがない。もちろんひとりで祈れとはいいません。使徒たちもいっしょになってとりなしの祈りを捧げて下さることでありましょう。私たちもそれぞれ賜物が与えられています。それは金では買うことのできないほど価値あるものであることを感謝し、賜物を宣教と教会形成のために用いていただこうではありませんか。

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