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エゼキエル17章1節ー24節

「二羽の鷲と杉の木と」
二羽の鷲と杉の木と言われてもなんの謎かけかと不思議に思います。実は一種の風刺です。解説しますと、一羽目の鷲はバビロンです。二羽目の鷲はエジプトで、杉の木はイスラエルの王です。イスラエルの王ゼデキヤ王が、当時、世界地図を塗り替え、国境線を変えていくほど勢いのあった軍事大国バビロンの臣下に下るのを潔しとせず、翻意し、エジプトに助けを求めようとした政策の愚かさをエゼキエルはたとえ話を使って批判しているのです。

幾ら勢いがあっても成り上がりのバビロンに頭を下げるより、歴史も伝統もある文明国エジプトに頼る方がましだとの計算が働いたのでしょうか。しかし思わぬところから風が吹き、時代は変わろうとしています。変化を見逃すべきではありません。伝統や歴史やメンツにあぐらをかいているうちに、軟かい対応ができなくなることもないわけではない。今も聖霊が意外なところから意外な形で働かれる時、素直に従っていくことはできるでしょうか。

どちらの国につこうと、ただの国際政治のかじ取りの話ではないか、で済ませてはいけません。バビロンを動かしているのは実は神様なのです。ということは、バビロンとの契約を破ってイスラエルがエジプトに寝返るということは、神との契約を破ったにも等しいことになるのです。神の審判を受け入れようともせず、エジプトにすがる応急処置で、なんとかずるずるとこのまま国として生き延びられないかと道を探るところが往生際の悪さなのです。

これは私たちの姿でもあります。神の手の中に陥ることを潔しとしない私たち。そんな目に遭うのは嫌だと逃げ回り、霊的な延命を無駄に続けようとします。しかし、いったん神の手で砕かれ、焼き尽くされ、息の根を止めていただかないことには、霊的に生まれ変わることはできません。未練たらたらと古い生き方にこだわり続けてはいけません。煮るなり焼くなり好きにして下さいと神に預け切るところから、生まれてくるものがあるのですから。

信仰生活とはある面では不断に捨てつづける生活とも言えます。自分の手の中に握りしめているものをひとつずつ手放して、明け渡して、空っぽになった手に、神はよきものを満たして下さいます。容器が空であればあるほど、そこに神の恵みは豊かにあふれるほど注がれます。プライドを捨て、様々なこだわりからも自由になり、砕かれた魂を、神は取り扱って下さいます。

神がそこまでしてイスラエルがバビロンの臣下に下ることを命じるのは意味がありました。イスラエルはバビロンに砕かれることで、そこから芽を吹き出し、枝を張り広げ、やがて大きな樹となり、実をつけ、多くの動物や鳥も宿るほどに成長していく希望が語られているからです。何も痛めつけるためではない。殺すためでもない。むしろあなたが生かされるために、生まれ変わるために今は身を低めてバビロンの支配を素直に受け入れなさい。

私たちの信仰生活にもバビロンがあります。職場にも家庭にもできれば避けたい嫌なことがあるものです。しかしその厳しいとも言える訓練を通らずして、私たちは砕かれません。そこを通過せずして私たちは生かされもしないし、成長もない。なんとか逃れられないかとやりくりしなくてもいい。神の手の中に落ちればいい。神に信頼しますと言うなら飛び込んでみせましょう。そこを通ってこそあなたは砕かれ、大きく用いられることになりますから。

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