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エゼキエル書19章1節ー14節

「悲しみのライオン」

礼拝では讃美が歌われます。ヒムもワーシップも多くは喜びに満ちた明るいものですが、中には物悲しい歌詞やメロディの賛美もなくはありません。聖書の時代、イスラエルの伝統にも悲しみの歌がありました。キーナーと言います。19章は全体が預言者エゼキエルによるキーナーなのです。人間は喜びを通して学びますが、悲しみを通しても学べることはたくさんあるのです。では、ここで述べられている悲しみはどういう悲しみなのでしょうか。

この歌には二匹のライオンが登場します。ライオンはイスラエルにも棲息する身近な獣でした。百獣の王とも呼ばれていることで分かるように、当時の文化では王権をあらわします。解説しますと、最初に登場するライオンはヨシヤ王の王子であったエホアハズ王です。父の宗教改革の後継者として期待を浴びて即位したこの王がエジプトで捕虜とされ、拘禁され、悲劇的な最後を迎えることになるいきさつを悲しんでいるのです。

二匹目のライオンは諸説ありますが、一説にはヨシヤ王の息子のひとりゼデキヤ王のことを指すのではないかとも考えられています。指導力にかけるリーダーで取り巻きの言いなりになって圧政で民を苦しめた王です。この王もダビデ王朝の復興を願う家臣に唆され、バビロンに反旗を翻し、エジプトに頼り、その政策が裏目に出て、その失敗から非業の死を遂げることになりました。エホアハズもゼデキヤも、ともにイスラエル最末期の王です。

ひとつの一家が終わったではすまない話なのです。何よりも脈々と神と交わされてきたダビデ契約に支えられてきたダビデ王家の終焉なのですから。それはとりもなおさずイスラエルと言う国家の終わり、もっと言えば信仰共同体の終わりを予兆する悲しみだと言えば、その衝撃が多少は伝わるでしょうか。信仰によって生まれた共同体なのですから、信仰によって生きる以外の道はない。信仰を失ったなら、消えてしまうのも時間の問題でした。

しかし、神の言葉を告げる預言者はなんの感情も持たない鉄面皮ではありません。共同体の一員として、当事者のひとりとして、人の悲しみを見つめ、自分も嘆かざるを得ない。人間の罪深さに対する悲しみ。罪がわかっていても抜け出せず、神に立ち返らず、あわれな結末に向かわざるを得ない者への悲しみです。そこに流れるのは悔い改めて、向きを変え、神に立ち返りなんとか生き抜いてほしいという神のあふれるばかりの思いでもあるのです。

しかし、こうも言えないでしょうか。深い悲しみを知る者こそ、実は逆説的には真の喜びを知ることもできる者なのだと。確かに私たちに絡みつく罪の誘惑は巧妙で一筋縄にはいかない。だからこそ自分の罪のおそろしさを知り、わが罪にふるえあがって嘆き悲しみ、悔い改めて神のゆるしにすがろうとする者には未来を勝ちとる救いの道が開かれるのだということを知ってほしいのです。罪の問題の解決は神にしかないのだと知る者こそ幸いです。

坂道を転げるように滅びに向かうイスラエル。そうなる前にイスラエルはどうすれば滅びを免れることが出来たのか。イスラエルの失敗を反面教師としながら、個人であれ、共同体であれ、国家であれ、あてはめて考え直すことこそ歴史から学べる教訓です。神はわたしにどう生きよと望んでおられるのか。そこに気づく時に悲しみの歌は喜びの歌に変わるでしょう。自分の罪に嘆き、共同体の罪を悲しみ、もがく全ての者よ。希望の源である神を仰げ。

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