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使徒言行録9章19節bー31節

「召された者の集まり」
回心後のサウロの歩みが見つめられています。彼は主イエスを宣べ伝えます。力を得てイエスがメシヤであることを論証します。周囲の者が驚きうろたえるほどの変りぶりですし、熱の入れ方なのです。この熱意はどこから来るのかというと神が彼を召した事実に基づくものです。神が選んだのです。その召しにお答えして生きていくことが信仰です。いい加減なことなど出来るはずはありませんし、人の評価など構っておられないのです。

ところが案の定、圧力がかかります。ユダヤ人がサウロを殺そうとする陰謀を企むのです。相手の立場からはこの裏切者といったところなのでしょう。この企てはサウロの知るところとなり、籠で城壁伝いに吊り降ろされることで逃げ切ることができました。苦しい体験であったに違いありません。召されるとは苦しみが伴うことなのです。主イエスの名のために彼がどれほど苦しめられるかは前もって予告されていたことではありませんか。

さらにいうならサウロが救われたと言っても教会もなかなか信じられません。仲間として受け入れられず恐れるのです。偏見があるのです。幸い、バルナバの仲介で、受け入れられますが注目したいのは証です。超自然的な働きによって思いもよらない人物が救われる証を受け入れるだけの信仰が教会にはあったということです。神を信じるとは、自分たちが信じられないようなことでさえ信じる柔軟さに生きることです。硬直化してはいけません。

教会とサウロを繋いだのはバルナバです。彼が名前の通り、慰めをもたらしたのです。神が慰めの器としてバルナバを用意されたのです。神の慰めが起こるところでは仲違いではなく和解が起こります。無理解ではなく理解が起こります。不信ではなく信頼が起こります。正反対の生き方をしていた者どうしが自由に行き来できるほどの空気が与えられるのです。これは人間にできることではありません。神だけが与えることのできる変化なのです。

その結果、何が起こったのでしょうか。教会には全地域において平和が与えられました。即ち、一致の思いがあったということです。不和が見られないのは地域性の違いや主義主張の違いなどどうでもよくなるほど見えない主へのおそれが満ちていたからです。身震いするほどの感覚です。無理もありません。日々、聖霊のカリスマ的なわざが見られるなら当然です。どんな厳しいことがあっても聖霊の働きに励まされ、確信が強められていくのですから。

そうやって教会が建て上げられていったことは基礎が固まってという言葉で表現されています。もっとも基礎だけで終わる建物工事はないでしょう。この基礎の上に進んでいくのは信者の数が増えていくと言う量的成長です。諸教会が宣教のわざへと駆り立てられていったのです。量的成長だけに注目しないようにしましょう。そこに至るための主の願われる入念なプロセスを教会は踏んでいたということでしょう。

今も同じです。教会とは召された者の集まりです。誰もがそれぞれの立場で神に召されたのです。それなら召しに必要な聖霊の賜物を共同体が受け入れるのは当然ではありませんか。証を聞いて感動し、違いをこえてひとつとなる方向性しか持ちえない。その道には苦しみがあるのはもっともだくらいの割り切り方で、召しにますます熱心になっていくときに、神は私たちを通してどこからでも救われる者を起こして下さることでしょう。

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