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短編小説『Hurtful』 第12話 「外泊許可、第二の手紙、いくつかの緊迫」

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車で病院に戻ってきたのが五時ぎりぎりだった。
私は夕食までのわずかな時間を、自室にこもって過ごした。黒田さんと数時間ミッチリ過ごしたことで、極限まで疲弊していた。
少しだけで良いから一人の時間が必要だった。

「お食事でーーーーす」
看護師の無配慮ながなり声が廊下中に響き渡るのを聞いて、デイルームへ向かうと、由美子さんと目が合った。

「雪ちゃんがね、まだ戻って来ないのよ」
雪ちゃんは、首を吊る未遂をしてからしばらく大変だった。
少しずつ落ち着くようになったので外泊許可も下りて、昨日から一泊二日で、家に外泊していた。
「まだ戻ってなかったんですか?」

外泊は、外出と同様、五時までに戻って来なければならない。
昨日のお昼頃に、迎えに来てくれた優しそうな彼氏と一緒に病棟を出ていくところを私も見送った。
私が手を振ると、雪ちゃんは照れ笑いで顔を真っ赤にしたが、嬉しそうな笑顔だったので、私は更にニヤニヤして手を振ったのだ。
何か事情が発生した場合、例えば電車の遅延、急に体調が悪くなって動けない、なんて場合は、病棟に電話して自分が無事である旨と、何時に戻れるかを必ず連絡することとなっている。

「なんか心配ですね」
「うん。でも、もう病棟に連絡が来てるはずだから、看護師さんも把握してるとおもうの。たぶん大丈夫だとおもう」
両親のいない雪ちゃんは、高校卒業と同時に親戚の家を飛び出した。それからは生活保護を受けて暮らしている。
「そうですね。彼氏もついてるし」
私達は食事のテーブルに着いた。

「こりゃ何かあったな」
マサ兄が、通りすがりにぼそりと言った。

午後七時。救急車のサイレンが遠くで聞こえた。
音は次第に大きくなり、赤いランプが窓を照らし、この病院で止まった。
誰もが、雪ちゃんだ。とおもった。

ハピネス・ウィルは病院だが、救命救急搬送は行っていない。だから、救急車がここに止まること自体が不自然なことなのだ。
しばらく経っても、雪ちゃんが五階の病棟に上がってくることはなかった。誰かが小さな声で噂をし始めた。

「薬、飲んじゃったんだって」
「二階の病棟に入れられたって」
「外泊先で、大量服薬しちゃったんだって。一緒に居た人も、すぐには気付かなかったんだって」

一体誰が、どのような方法でこういう情報を手に入れるのか。
だって、看護師がこのような話をうっかり漏らす訳がないのである。
私は信憑性に欠ける噂をしている人達を横目に流しながら喫煙所に入り、煙草に火をつけた。
しばらく一人で吸っているうちに、色々なことを思い出しそうになった。  
雪ちゃんはそうしたんだ。と、なぜか私も分かった。

「自殺未遂だなんて…」
喫煙所で黒田さんは、先程から打ちひしがれていた。
今しがたの雪ちゃんの悲劇を耳に入れ、受け止めきれない様子で居た。
みんながひそひそ噂している内容を、信じられない。あってはならない。
みたいな顔で聞いていた。
私は内心、これが現実なんだよ、もっと受け止めろ。こういう人間の切実さを知れ。嫁とのいざこざで困り果てて私に現を抜かしてないで自分の薄汚い泥沼に一回どっぷり浸れ、などと毒づいている最中であった。でもすぐに、あ、こういう汚いこと考えちゃいけなかったんだとおもい直して中断した。

どうか無事だといい、と、黒田さんが言った。
私も、心からそうおもう。

それに、雪ちゃんの彼氏は、今日眠れないだろうともおもった。



翌朝、目が覚めると身体中が痛かった。
昨日黒田さんに変なデートに連れて行かれたことをおもいだし、朝から暗鬱な気分になった。
朝食前のデイルーム。みんな各々のテーブルの席につこうとしているところだった。既に着席している黒田さんの姿を目にし、けれど見ない振りしてその後ろを素通りし、私も自分の席に着こうとした。
でも、今日もダメだった。

黒田さんは肘をテーブルにつき、両手で頭を抱え、「ツラいですアピール」をしていた。
これも毎朝のことである。そうしていればさとみがやって来て、肩をぽん、と叩き、
「今日ツラいんですか?大丈夫ですか?」
と言って心配してもらえることを身体で知っているのである。野生のでっかい熊が、座り込んで熊のぬいぐるみの真似をしているかのようなふざけた風体である。

なんと甘ったれたことを。私は舌打ちしながらも、
「大丈夫ですか?」
と、結局は優しげに声をかけてしまって、そんな具合にいつも朝から自己嫌悪に陥るのであった。

朝食を食べながら、隣の、誰も座っていない椅子を見た。
杏ちゃんはまだ、隔離室から出てきていなかった。あれから随分時間が流れていた。
みんなの考えも「これだけ長いのだから、もう一日か二日で出てくるだろう」という読みから、「これだけ長い間出て来れないのだから、まだ出て来れないだろう」という考え方に変わっていった。

デイルームの空気感も、由美子さんでさえも、杏ちゃんが居ないことに慣れていった。
私は日々、黒田さんと関わりながら悶々と苦渋して過ごしているうちに、杏ちゃんが居ない、という事実自体を忘れていった。

杏ちゃんと喋りたいなぁ、と急におもう時があった。
私は黒田さんにも杏ちゃんという子の存在を知ってほしかったし、いま、杏ちゃんに黒田さんの愚痴を言いたい気分だった。

「あの人さぁ、まじで、ないよね」
「ないない。あり得ないわ。さとみも嫌な顔しちゃいなよ」
「どんなふうに?」
「こんなふうに」
「杏ちゃんガン飛ばすの上手いよね」
「それでも分かんない奴だったら私が看護師にチクってあげるよ」
「じゃぁ私も練習するわ」
「とりあえずジュース買いにいこうよ」

私は頭の中で杏ちゃんとやる会話を作ってみた。
にやつきたい顔面を抑える。私は誰とも目を合わせずに、ぼそぼそのパンを飲み込んだ。


窓の外の晴天をなんとなく眺めつつ、なんて清々しいんだ!と思ってる割には、私はゲッソリしていた。
静寂に身を任せながら煙草を吸っていると、由美子さんが入って来て、腑抜けになった私のそばに座った。
その日の午後、黒田さんは大事な用事できたとのことで外出していて、私は久しぶりに黒田さんの居ない空気を味わっていた。

由美子さんは、もはや私じゃない私、屍となった私を見て、「うんうん」みたいな感じで無言で頷いた。なんだか大変な目にあってたね、という意味を含んだ頷きである。
由美子さんと喫煙所で二人きりになるのは久しぶりな気がした。

「さとみちゃんって、誰かに依存されやすい性質なんじゃないかなぁ?」
性・質。由美子さんは身も蓋もないことを言う。

「あ~、そうかもしれないですね」

「実はね」
由美子さんはサンダルをもじもじさせていた。
「先生が、八月中には退院できるかもって。仮の日程が決まったの」
由美子さんがはにかみながら言った。
「退院したら、グループホームに戻るの」

由美子さんはこれまでにも、何度もここに入院をしている。
そのだいたいが長期的な入院だと言っていた。
私の場合は由美子さんと違って、短期の任意入院だ。二週間とか三週間とか一か月が多い。
黒田さんのように十日間だけ、とか短い人も居るが、自分の現実面の都合に合わせて、その期間を担当医と相談してから入院生活が始まる。だから入院が始まった日には、退院予定日が決まっているようなものだった。

けれど。由美子さんは、そんなんじゃない。
長期入院をしている人達は、入院時に退院の見通しがつかなかった人達だ。

「でね、グループホームも、そんなに悪いところじゃないんだよ。アパートみたいなところでね、皆で助け合いながら生活していくの」
「あ、そういうかんじなんですね」
由美子さんは、グループホームがどんなところであるかを色々と教えてくれた。
以前、由美子さんが新しいグループホームに引っ越したばかりの頃、焼きそばを沢山作って、ご近所さん達におすそ分けに行ったらしかった。
すると、今までそういう心だてのある人は少なかったらしく、とても喜ばれたということだった。
それから、同じグループホーム内でしばらく交際していた年上男性とのことも話してくれた。

私は勝手に、グループホームをもっと冷酷な場所だと想像していた。
由美子さんの話すエピソードはどれも面白かった。でも正直、ここの病棟とたいして何も変わらないじゃないかとおもった。グループホームについて語る由美子さんの口調は熱っぽかった。頬まで染めている。

私はなぜか、なんと言っていいか分からなくなった。
「早く退院できるといいですね」

由美子さんの居場所が間違ってるとはおもわなかった。
けれど、心のどこかでは由美子さんにグループホームの話をこんなにも生き生きと語ってほしくないとおもう自分がいた。
由美子さんに怒っているわけではないはずだった。でも、由美子さんや杏ちゃんは、お金がないからグループホームに行くのだろうか?それとも「病気」だからグループホームに行くのだろうか?単純だがひねくれた考えが浮かぶ。

「それでね、それがみんなのきっかけになってね」
由美子さんは嬉しそうに回想している。
以前、由美子さんから、昔働いていた時の仕事の資格証を見せてもらったことがあった。
十年ほど前のそれを、由美子さんはまだお財布の中に大事に入れていた。
そこには、難しい肩書とともに、スーツ姿のしっかりした女性が映っていた。
とても綺麗だった。なにより、その時の由美子さんの目は、焦点が真っすぐ合っていた。

そんな資格証がなくとも、由美子さんが頭が良くて魅力のある人だということは、私でも十分分かった。そこに居るだけで溢れ出てしまうのだ。そんな人がどうして、目を輝かせてグループホームをあたかも理想郷かのように言ってるのか。

それは由美子さんの意志なんですか?とおもわず言いそうになって、呑み込む。
自分で好きなところを選んで、好きなように暮らししてみたいという欲を言っても、いいんじゃないですか?

自分がひどく傲慢な考え方をしているとはおもったが、私は一旦考えが偏ると、なかなか戻せない。
均衡を保てない。どこまでも滑っていく。



分類されパッケージされた私達は、本当にその枠組みの中でしか、上手く生きることができないのだろうか。

もしかしたらこの病院というビルの枠組みは、患者を治すためのものではなくて、その外側に居る大勢の人間を、異常や危険から守るためのものなのだろうか。

ベッドの上で胡坐。前略、岩倉先生。と書く。
額に指をあてるが、脂汗で滑る。二回目の手紙である。
書くことを考える。何を書こうか。この間の手紙の返事は、勿論ない。
だが絶対に読まれているはずである。

 「お元気ですか」、と書いて呼吸をする。自分の呼吸の音が聞こえる。
私は」を、塗りつぶす。黒田さんの愚痴を書こうと思うが、どう書けばいいか分からない。
ので、どう書けばいいか分からない。と書く。
病院は大変です。色々な人がいるのですが、特に疲れ、と書いて塗りつぶす。私は疲れるという漢字をよく間違える。喉のあたりが詰まる。
「そこからでてくることをそのまま出せばいいよ」、
喉が苦しくなります
「どういうときになるの?」、
どういうときになるか。
集中しようとする。万年筆のにじみが、絵の具におもえてきて手が冷たくなる。このまま戻ってもうまく自分の、上から所々書き直す。絵が描けない

私は本当に大丈夫になるでしょうか

 動揺する。

便箋は二枚にもならなかった。岩倉先生に読んでもらうものにしては短い。
でもきっと、書き損じや、インクの溜まりも見てくれる。
 書かれなかった言葉もあの人は見ている。

そろそろ女性はお風呂の準備してねー。
看護師の声が、遠くのほうから聞こえてくる。



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