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短編小説『Hurtful』 第13話 「病院のお風呂場マナー」

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私は、杏ちゃんが看護師とともに風呂場まで行く姿を、これまで一度も見かけていなかった。
私が見逃しているだけなのか、それとも今は風呂にも入れない状態にあるのか。
今日も、やっぱりここには来られないのかな。

脱衣所で誰かがヒソヒソやっていた。
「お風呂に入ることも、本人が拒否してるらしいよ」

だから、そういう情報どこから手に入れてくるんだよ。特殊な脳波の共鳴でもあるのだろうか?患者同士には。

私は脱衣所で裸になり、タオル一枚を軽く体にかぶせて、順番待ちの椅子に腰掛けていた。誰かが一人風呂場から出てくると、脱衣所の椅子の先頭に腰掛けている人が風呂場に入っていくという、ローテーションの仕組みになっている。

私の前には、誰なのか名前までは知らないオバチャンと、丹野さんが私のすぐ横に座っていた。目の前には、何人もの女性が服を脱いだり着たりしている光景が広がっている。

風呂に入るまでのこの暇な時間、順番待ちをしている人達というのは、一応のマナーというかデリカシーがあって、誰がどんな身体つきをしているのか興味はあるけれども、服を脱いだり着たりしている人達をまじまじと眺める、というようなことはしないようにしよう、と、暗黙のうちに心掛けているのであった。

しかしその日、私の隣に座って順番を待っている丹野さんは、横に居るオバチャンとなにやら嬉しそうに話をしていた。二十三歳大野さんのスタイルの良さに感心しながら、
「いやぁ~。ほほ。綺麗だわぁ。まだ子ども生んでないから。そうよねぇ。羨ましいわぁ。胸なんか、まぁ、あんなに!ほほほほほほ。すごいわぁ」
と、もろ大野さんの裸を凝視。
美しく締まった身体つき、Eカップ、ぷりっとしたお尻なんかをまじまじと見まくりながら、丹野さんはエスカレート。声は次第に大きくなり、若い女の裸を見ながら、丹野さんは興奮していった。

 なんだかまったりしてて良いなぁ。

黒田さんが退院するのは、私より一足先で、もうすぐである。なんとか耐えよう。
そんな感じで、風呂も上がったところで少しは気が晴れて、喫煙所で幾分のんびりと煙草を吸っていると、登郷さんが入ってきた。

登郷さんは隔離室から出てきてしばらくの間は、めっきりと大人しくなって、なりを潜めていたのだが、それも数日で終了し、今やまた絶滅危惧種の動物のようなレアな野生感を帯びていた。
「あのねぇ、あなたねぇ」
「はい」
「ちょっと聞きたいんだけどねぇ」
「はい」
「官能小説なんかは読みますか?」
「官能小説。あまり、読んだことはないですね」

私は正直に答えた。
登郷さんは自分が書いた原稿用紙数枚を強制的にこちらへ寄こしてきた。
なんだか可笑しそうに、大々的に笑っている。
原稿をぱっと見ると、文字は流れに流れ、揺れに揺れ、流石、いつも物書きをしているだけあって作家然とした凄まじい原稿である。その場でちょっと読んでみた。

なんと、その原稿の内容たるや恐ろしいことに、登郷さんと丹野さんが愛し合い、乱交している最中の描写であった。

「キミ子ちゃん、俺、もう我慢できないよ」
「ノブちゃん、早く、私のここへ、早く、来て「」

これ以上の具体的な描写は省くが、私はこれを一通り読みながら、果たしてこれは登郷さんが作家として魂込めて書き上げた一作品なのか、それとも全然本気で書いたわけではなく、暇つぶし程度に書いた習作のようなもの、お笑い種までに、なんてな言葉の通り、ちょっと笑ってみたりするほうがいいのだろうか、ということを考えていた。
私は一応最後まで読み終えてから、
「はははぁ。面白いです」
曖昧なことを言って原稿を返した。

登郷さんはまた何事もなかったかのように、急に出ていった。

夕方になると、黒田さんが外出から戻って来た。
恋しかったよぉぉと言わんばかりの顔で喫煙所に入って来ると、早速、今日の一連の出来事の話を始めた。

今日は息子の幼稚園関係の用事があったそうで、久しぶりに奥さんと一緒に過ごさなければならなかった、とのことだった。私はいつものように、へぇー。とか、うんうんうん。とか相槌を打っていた。

「そんなに長い時間、話さなかったけどね。でもその後、嫁の母親とも顔会わせなきゃならなくなって、もうしんどかった」
「うんうんうん」

私はへぇー。と、うんうんうんうん。と、なんとも曖昧な笑いを組み合わせながら、黒田さんとの会話を乗り切り、ここまで来た。しかもこういう相槌は、喉の声を出す部分がちょっとでもズレると全然違う意味になってしまうから、私は黒田さんと喋る時には非常に緊張しなければならなかった。
緊張と疲労が比例していく感じである。けれども私はもう疲れすぎてしまっていて、へぇーもうんうんも全然上手くやれていないのは自分でも分かっていた。へぇー。というかもう、私の出している偽物感を、どうかそちらから見破ってほしかった。

「俺、別居しても嫁のサポートは全力でするつもりなんだよ」
黒田さんは闊達に喋る。私は疲れて頭が熱い。
「うんうんうん」
「金銭的なことも勿論そうだし。あといまから考えてるのは、乾燥機付きの洗濯機買ってあげようとおもってて。いつも洗濯大変そうだからさ」
「へぇー」
「できることがあったら何でも力になるし」
「うん」
「できるだけサポートしていきたいんだよね」
「あの、黒田さん」
「うん?」
「本当はサポートなんてしたくないんじゃないですか?」
「え?」
「え、だって、黒田さんはもう、奥さんのこと正直嫌いで、離婚したいんですよね。普通だったらそんな相手に離婚後もサポートとか、正直したくないじゃないですか」

たいして考えずに口を衝いて出た言葉だった。

「奥さんがストレッサーだって言ってたじゃないですか」

黒田さんは小さく、うん、と言ったきり硬い顔になった。私は新しい煙草を出して火を付けた。しばらく黙っていた。

「そうだよね」
私は黒田さんの困惑する顔を見たかっただけかもしれない。私の言葉は乱暴にも、黒田さんの心の奥の繊細な部分に触れたらしかった。

ややあって顔をあげた黒田さん。らんらんした瞳。

「俺、サポートなんかしたくない」
「本当は一切何もしたくない。会いたくもない」

そうしてこれは、黒田さんの入院最後の夜だった。

「もう消灯だから。出てくださーい」
男の看護師が、喫煙所の扉を少し開けながら言ってきた。いつの間にかデイルームの照明が落とされていた。

「あ、すいません。この一本だけ。すぐに出ますから」

黒田さんが、火の付いた煙草を軽く持ち上げて見せた。
他の喫煙者達は今日最後の煙草を名残惜しそうに揉み消すと、お互いに「じゃ、おやすみー」と言い合って暗い廊下に出ていった。
私も自分の煙草を吸い終わり、黒田さんに「おやすみなさい」と言い、自室に行こうとした。
「さとみ」

私は強制的にデールームの椅子に座らされた。誰も居なかった。
「さとみのこと、とても好きだよ」
「うんうんうん」
ナースステーションの白い光が、私達二人を照らしていた。

「俺、明日退院して、遅かれ早かれ嫁とは離婚することになるとおもうけど。でも、さとみと彼のことは、上手くいってほしいと願ってる。もし。もしだよ?さとみと彼が上手くいかなくなったとしたら。その時は俺、さとみのこと、大切にする」
もはや「うんうんうん」をかます余裕はなかった。
私は黒田さんに何と言って、どうやって自分の部屋に辿り着いたのだろう。
翌朝になっても覚えていなかった。



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