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短編小説『Hurtful』 第14話 「面会者、良心の呵責、退院を前に」

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退院を一時間後に控え、黒田さんは現実界に戻っていくことが不安そうであった。
戻っても、そこには嫁と、嫁の母親が居る。そしてそこに私は居ない。黒田さんは喫煙所にこもり、最後の最後まで私と一緒に喋っていたいようだった。不安、嫁への不満、未来のプラン。

私はむげにも喫煙所を去ることができずに居た。本当に今更だが、こういう話を聞くのは私の役割じゃないとおもいながら何本もの煙草を吸っていた。
あ、とおもいついて、
「ちょっと待っててください」
黒田さんの話をぶった切ると自室に戻り、あるものを持ってきた。


それは、「あざみ野心理オフィス」のパンフレットであった。
入院中、カウンセラーの岩倉先生に手紙を書くだろうとおもったので、オフィスの住所が書いてあるこれを荷物の中に入れてきたのだ。

「ここ、私がカウンセリング通っている場所なんです。私から直接紹介は出来ないんですけど。これ、良かったら」

「へぇー。あ。でも、結構料金するんだね」
「保険適応外ですからね。別に一人で行かなくても、夫婦カウンセリングとかでもいいとおもいますよ」
「あー。うちの嫁、絶対嫌だとか言いそう」
「けど、ここに居る先生方は皆プロフェッショナルですよ。それは保証します」
「分かった。ありがとう。行かないかもしれないけど、一応、手元に持っておくね」
「はい」

私は黒田さんを人の手に委ねた。

けれどこんなことしてみたところでなんにもなりゃぁしない。黒田さんとの時間は続いている。空間は続いている。それぞれがそれぞれで続いていればいいものを、そこに何かが在ると関係してしまう。
まだだいぶ時間がある。私はだいぶきている。黒田さんは自分のダイエットのプランの続きを話している。
私はまた黒田さんの話をぶった切った。
もはやこれ以上聞く気はなかった。というよりできなかった。
そしてこれは、私が黒田さんにしてあげられる最後のことだとおもった。


「黒田さん。このあたりに手を置いてください」

黒田さんは喫煙所の床に手を置いて、ん?というような顔をした。
他に誰もいない喫煙所。
私はその手の上に自分の手をバチン、と重ね、やや下を向き、目を閉じた。
そして念じた。

『黒田さん。大丈夫ですよ、きっと。ちゃんと、良くなります。
あなたみたいな現実的な人なら、ちょっと時間はかかっても、いつか良い未来がきます。
奥さんとも、たぶんまぁ、上手く戻りますよ。まだ小さい子どももいるしね。上手く行きそうな気がしますよ。
あなたがここで愛したものは、一時的な幻影です。私もまぁ、楽しかったりもしました。
けれど、あなたは単に、夢の中に居ただけです。
あなたが結ばれるべき人は、私ではありません。
たぶん、それに気が付く日が近々来るでしょう。そのことにびっくりしてはなりません。
あなたは私のことを、慈愛と優しさの権化みたいに思ってるんでしょうけれども、私はそんないいもんじゃありません。
全くありません。
それでは、お元気で。御免。』

私は以上のような念をだいたい十秒くらいの静寂の内にまとめ、手を離した。
この一念は、現実界に旅立っていく黒田さんへの「御守り」であり、同時に、
もうこれっきりです。さようなら。
という意であった。

「凄い……。さとみに手を触れられただけで…。ちょっと見てみ」
そう言った黒田さんの、指を差した部分へと目をやった。
勃っていた。


かくして、黒田さんは名残惜しそうに退院していった。
けれどものんびりしている暇はなかった。非常に気になる点があったので、その対処に取り掛からねばならなかった。

例のコメダ珈琲の時、断り切れずLINEのIDを交換してしまったのである。これは、固く禁じられていることだ。
このままでは退院後も黒田さんとやり取りするはめになるかもしれない。
というか黒田さんはそうするに決まっている。おそろしいことだ。
気が狂いそうになる。というかほぼ狂って翌日。

看護師に預けている携帯を出してもらい、院内で唯一、携帯電話を操作しても良い場所である、一階のロビーへと向かった。
やはり、黒田さんから何通もLINEが来ていた。

「濡らすのは枕だけにしろよ」

「次会った時、話したい内容」

「黒いストッキングについて」

謎である。どちらにしても碌な話にならないことははっきりしていた。
しかし、その中にあった一通を、私はよくよく読んだ。

「八月一日、外来に行きます。さとみにあげたい本があるので、そういう理由を建て前にして、五階の西病棟に面会に行くね。ハートマーク」

これには焦った。黒田さんとまた会う?尚も?
一刻も捨て置けない事態になった。

八月一日当日。午前。
私は看護師を呼んで、全てを話した。ついにこういうことになってしまった。
「依存」のこと、好意のこと、セクハラ発言のこと、喋りすぎなこと、なんか知らないけど私だけ被害にあっていたこと。
コメダ珈琲とスポーツカーの件は黙っていた。私が不利になる。

看護師は、質問も挟まずに最後まで聞いてくれた。

「そっか。大変だったんだね。分かった。黒田さんが面会に上がって来た時に、こちらでブロックすることは出来るよ」
「でも、そんなことどうやってやるんですか?」
「相原さんは治療に専念しなければならないので面会は出来ませんって言うよ」
 おおお。神対応。私のせいにならない。
「でも、LINE交換しちゃったのは自分の責任だよね?それは、こっちでは何もできない。相原さんが自分の責任でこれから対応していかなくちゃいけないよ」
「はい」
分かりました。怒られるのは分かっていましたし、分かっています。はぁー良かった。
このようにして、なんとか、おそろしい事態を食い止めることが出来た。


問題は、良心の呵責、心の痛みであった。
黒田さんからはその後も、意味の分からない謎かけのようなメッセージとともに、
「面会、看護師さんに拒否されちゃったよぉぉ」
という、甘えた調子のLINEが届いていたが、私は何も返信出来ずに居た。
晴れて黒田さんは退院していったというのに、私は以前にも増してゲッソリし、乾いたミイラみたいな有様に成り果てていた。

「相原ちゃーん、聞いたよ、大変な目にあってたねー」
デイルームのテーブルを拭いていたヘルパーのハラさんが、みすぼらしい形相の私に話しかけた。

「はい。なんだか、随分疲れたようです」
「もういい歳した大人がさぁ、しょうがないねぇ。奥さんと子どももいるんでしょ?しょうがない人だねぇ」
「はい。実はLINEが、よく来るんです」
ハラさんは、あそう、と言っただけで、LINEを交換したこと自体には何も言わなかった。
「もう、ブロックしちゃいなよ、ブロック」
「ブロック?」
「そう」
「そんなこと」
「大丈夫だよ」
「いやぁ、でも、だって」
「一瞬で終わるから。それで、はい終了」


ブロック。つまり、無言のうちに黒田さんを拒否する。
私は一階のロビーで携帯をいじりながら、ハラさんと話した内容について考えていた。
痛みを感じていた。しかし、これ以上心を痛めるスペースが、あまり残されていないことにも気が付いた。

もし、ブロックを決行するのなら。

黒田さんはきっと傷つくだろうとか、自分はなんて薄情な人間なのかとか、その類のことをこれ以上考えてはならなかった。心を麻痺させなければならなかった。己の感情を凍らせ、血を凍らすのだ。

こうやっていつも、心を失っていくんだよな。

欲望を叶えてもらう代わりに、何か一つ、自分の大切なものを差し出さなければならない仕組みみたいにおもえた。

私は人差し指で、黒田さんを拒否した。


第15話〈最終話〉へ続く


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