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短編小説『Hurtful』 最終話 「さようなら、ハートフル」

その日、何人かは嬉しそうに売店でアイスなんか買って来るなどして、こっそりとパピコを分け合い、もはや猛暑。

この病棟に居ると汗をかかない。
私などは気が向けば外に出られるけれども、外出が禁じられていて外は疎か、この病棟の扉の外側にさえ出られない人も多い。皆、窓越しに外界を眺める。

ここの窓という窓は全て、厳重に鍵が掛かっている。危険な事態を引き起こさないためだ。だから、窓からのそよ風、すらない。人工的な空調によってのみ、体温が管理される。汗もかかなければ風もない。
そうすると人はどうなるのかと言うと、自律神経失調症になる。しかし、そもそもここに居る患者達はこれ以上自律神経を失調し得るのだろうか。

外は見るからに暑いけれど、五階のデイルームには、いつもと同じような平穏平和な時間が流れていた。
私の心は、平穏とは言いがたかった。退院を、明後日に控えていた。

色々な出来事があるうちに、いつの間にか、沢山の時間が流れていたらしかった。
病状は、良くなっていなかった。
入院時に抱いていた期待とは違って、治療など、大して行われなかった。
分かっていたことだ。過去に三回も入院している。医者が治す、というより、自分で自分を良くするほかないのだ。分かっていたはずだった。

デイルームでは、マサ兄が先程から不思議な行動をとっていた。
何かを隠すようにして、それをテーブルの向かいに座っている女性に渡そうとしている。
「持っとけよ」
「いや、いいって」
「持っとけよ」
小声で、何やら押し問答をしている。
「マサ兄、貰えないって」
「いいから。持っとけって。困った時に役立つから」

通りすがりにちらっと見ると、テーブルの上には、ギラギラ光る五百円玉。
兄貴肌である。でも五百円かよ、とおもいつつも、マジな顔をしてるマサ兄に失礼だな、と感じ、私は、何も見ていない振りをした。

喫煙所に入ると由美子さんを含め計四人ほどが、のほほん、と過ごしていた。
「さとみちゃん、退院、明後日だっけ?」
「そうなんですよ」
「良かったね」
「いや、でも。ダメです、全然」

そこへマサ兄が、例の取引を終えて、副流煙を吸いに喫煙所に入って来た。満足気な顔をしている。

「ああ、由美子ちゃん。調子どう?
さとみちゃんも、元気?大丈夫だよ。大丈夫。頑張って元気でいこうよ。大丈夫だよ。大丈夫。日蓮大聖人様がちゃんと見ていてくれるからよ。
杏ちゃんはさぁ、たぶん、さとみちゃんが退院してからじゃないと、隔離室から出られないっていう予定で組まれてると、俺はおもうね。医者の指示で。出したところでさぁ、さとみちゃん居たら、またあれだよ。ベッタリ。そのあたりまで、考えられてんだよ」

喫煙所に居合わせている何人かの表情を見ると、皆、一様である。若干遠慮しながらちょこちょこ頷いている者も居る。
あぁ。そうか。杏ちゃんが出てこられないのは私がまだ居るせいだと、皆、なんとなくそう思っていたのか。私だけよく分かっていなかったのかもしれない。
杏ちゃんの隔離室生活は、丹野さんや登郷さんの時のそれよりも、比べものにならない程、長かった。
喫煙所に居るのが、なんだか息苦しくなって、私は自室に戻った。

ひっそりと冷たい部屋の、固いベッドに座った。つい二日前、この部屋で大久保先生と交わした会話の内容を、思い返していた。
大久保先生は週に二回、病棟に上がってきて診察をする。けれどもその日は診察の曜日ではなかった。たまたま私の部屋へと様子を見に来た。
「今週、退院予定ですけど。調子どうですか?」
「調子は、悪いです。うつです」

私は、大久保先生に読んでほしいものがあった。
入院前、本当にうつで、夜を乗り越えられなくなり、大量服薬しようか悩み、でも死にたくなくて、そんな日に一人で泣きながら、恐れを紙の上に吐き出した手記であった。
私は書くと少しよくなることがあった。私にとって書き出すことは大事だった。
それは手のひらに収まる程度の小さなノートで、私が見せたい部分は、その中の四ページ程。読むのには、大して時間もかからない。
なぜ、それを読んでほしいのかというと、日を追うごとに大久保先生は私がこんなにも酷いうつ状態であることを、もしかしたら把握していないんじゃないか、とおもうようになっていたからである。把握されていないと感じると恐ろしかった。私は、退院が近づいても一向に良くならない自分の状況に焦っていた。
私は大久保先生に、自分の生の感情と、妄想にも似た恐怖が書き殴られているそのノートを差し出した。

「読めません」
と、その女医は言った。
「どうして読んでくれないんですか」
「そういう時間はないんです」

一気に泣き崩れた。おそろしい程の、得体のしれない恐怖感にさらされた。「どうしてですか」
「診察の時間以外で、そういう時間を取ることは出来ません」
「それじゃ遅いんです。どうしてですか。助けてください!どうして助けてくれないんですか!」
私は泣き喚いた。酷いパニック状態に陥っていた。硬いベッドを拳でガンガン殴った。
大久保先生は終始、冷静に私を観察していた。この日、退院直前になって初めて、大久保先生は私のなまの状態を目にすることになった。

もっと狂ったようになれば、大久保先生は筋肉注射の準備に取り掛かったり、私を隔離室に入れたりするかもしれない、とおもったが、どうしても暴れることが出来なかった。私がやっていることは、せいぜい泣き喚きながらマットレスを叩き続けていることだけだった。それ以上どうやればいいか分からなかった。私は部屋にある物も、丸椅子も投げられなかった。
そんな私のことを、大久保先生はただ見ていた。

携帯電話。ライター。手鏡。化粧道具。ベルト。パーカーの紐。ピアス。指輪。剃刀。万年筆のインク瓶。
看護師から、ビニール袋にまとめられた私物を返された。
中身を確認するように言われたが大してそれを見ないまま、気のない返事をしてそのまま鞄に突っ込んだ。

「おめでとう」
と、何人かが言って、病棟の扉のすぐ近くまで見送りに来てくれた。
けれども、退院する側はこんなのちっともおめでたくない。現実界に戻るのが恐かった。
でも、ここにこれ以上長く居たいという訳でもなかった。
退院の日、私はグズグズに泣き腫らし、或る意味入院前より酷い状態だった。かろうじて口を左右に広げ、力なく手を振った。けれど、風景と人の顔がうねるように溶け合っていて、誰が誰なのかも、よく分らなかった。

最後の診察は一階で行われた。
ここを出たら、別の病院に通院するつもりでいることは、事前に大久保先生にも伝えていた。
診察室に入った私は、もはや最悪の状態だった。
「えー、私はさとみさんのことを、七年間、診てきた訳ですけれども。最後、このようなことになってしまったのは残念です」
さとみさんのうつを治すことが出来ず、このような退院になってしまい残念です。
という訳ではない。医者を変えるという私の意向についてこう言っているのだ。
「お元気で。なんとか頑張っていきましょう」
私は激うつで、こう言った。
「先生。どうすればいいんですか」
自分でも、なぜいままで普通にこれを訊くことができなかったのか、不思議におもった。
「どうすれば、うつを乗り越えられるんですか」
先生は眉を顰め、あからさまに困った顔をした。
「そうですね~」
まるで、その質問自体がバカげていて、そんなことを聞いてくるあなたを哀れに思う。みたいな顔だった。うっすら笑っているが、そうでもしないとそこに座っていられないのだろう。
「乗り切る、乗り切る、乗り越える。ってことが大事ですよ」
耳を疑いたくなる。大久保よ。落ちぶれたものだな。そんな言葉聞いてねえよ。そういうんじゃないんだよ。
人が生きようとするっていうのは、そういう問題じゃないんだよ。

けれども、それ以上問い続けるには私は疲れ過ぎてしまっていた。期待してもこいつから何も出てこないことはもう分かっていた。私は女医を見た。睨んでいたとしても、もうどうでもよかった。喉に言葉になる以前のものが幾つも押し寄せてきて、最後にこの人に何か言ってやろうかとおもった。目の奥に力が入るのを感じた。
目の前に分厚いカルテが置いてある。生活、姿勢、などのどうでもいいような単語が幾つか読み取れた。ここに私の解釈が書かれているのだ。何か言おうとおもったが、やはりやめた。
私は椅子から立ち上がると、七年間の礼儀として深々と一礼をし、診察室を出た。
診察室の引き戸がゆっくり閉まっていくのを、数歩離れたところから見ていた。大久保は口元に指を当てがったまま深刻ぶった表情で私のカルテに目を落としていた。今日ばかりは、ドアが閉まりきるまでは見られてることを知っているんだろう。
この機に及んでカルテを真剣に見つめ、まだ何か懸命に考えているかのような姿勢を見せつけてくる姿に嫌気が差した。
そのドアが閉まる。やり残したことがあるんなら言えよ、最後までやれよ。浅ましい。
私は視線を移動させてドアをもう一度大きく開けきると、今度はスピードをつけておもい切りそれを閉めた。轟音とともにドアが壁にぶつかった。薄煙が上って嫌な臭いがした。白い壁がぼろぼろと剥落した。診察室のドア窓も割れて、ガラス破片が廊下のそこら中に散らばっていた。

受付の一番後ろのソファーに座り、目を閉じた。
怒りと、絶望と、底なしの恐怖が混ざり合い、緑色の泥になったものが全身の血管を駆け巡っているような感覚に支配された。ソファーに体を丸めて、手足を痙攣させている私は、あまりにも脆弱だった。
鞄の内ポケットを探ると、メモが入っていた。これは、杏ちゃんが看護師に見つからないようにこっそり渡してくれた、LINEのIDが書いてあるメモだった。あの時私は彼女に、連絡するからねと言ったのだった。それは、連絡を取り合って退院したら遊ぼうという意味だった。けれど、本当に私は杏ちゃんに連絡するだろうか。私の本心とはなんだろう。正直、分からなかった。
いや。私は今度こそ自分の意志で決定的に、彼女を裏切るだろうとおもった。
私はこのメモを捨ててしまわなければならないのだ。自販機の横に幾つかごみ箱が並んでいた。メモを捨てに行くと、ごみ箱の前に大人の女が座り込んでいた。女は、膝を抱えて顔をうずめていた。もういい歳だというのに少女のような風情を装っていて、か細い声を出しながらいつまでもいじらしく泣いていた。私はそれが誰であるか分かっていた。邪魔だったので、その人間を蹴り飛ばしてどかした。
私は嗚咽して、口の中に入ってくる涙を飲み続けた。そうしながら、受付の壁に掛かっている白い時計を見ていた。五階のデイルームにあったのと同じような時計だった。それをただ見続けていた。
何時なのか分からなかった。


病院の自動ドアが開かれると、冷気と熱風が同時に舞い上がって、一瞬よろめいた。
入院用の重たい荷物を下げながらバス停まで歩いた。涙がまだ出た。
もうこの病院に来ることも二度とないだろうと考える。太陽がじかに肌を焼き、身体中がじっとりと汗をかき始めた。その肌の上を、生ぬるい風が滑っていった。
いや、そもそももう、ここに戻ってくるはずじゃなかった。もう何年も前に、うつは終わったはずだった。もう乗り越えたはずだった。しかしまた襲ってきた。それはいつでも襲ってくる。気が付くとそれと繋がっている。
私は、病棟の患者とは違う。もう、窓の外で生きるべき人間になっていたはずだ。生きるべき人間?
こんなところに戻ってくるはずじゃなかった。私はみんなに笑いかけ、みんなに優しくしてきた。
いや違う。私はみんなを見下していたのだ。私はあなた達とは違うとおもっていた。私は、彼らではないのだ。私はみんなのことをおもい遣れるような人間だ。いや、違う。私は自分のことばかり考えている。それでいて自己がないのだ。
激しい感情の流れも、歪みも、嫉妬も、衝動も、破綻も、全部私の中にもあった。彼らの異常が私の中にもうごめいている。全てが交じり合って、私の頭に渦を作る。窓の中と、窓の外の区別が分からなくなってくる。

私は、三度目の飛び降り自殺をする自分を一瞬想像した。パジャマを着て手すりに手を掛けた私は、ピエロみたいな顔をしていた。
私はもう、違う。渦は更に大きくなる。
病院のほうを振り向いて、みんなの顔を想像した。生きていたい。いや、嘘だ。本当は死にたいとおもっているんでしょ?
違う。私がそうはさせない。もう訳が分からない。私は、生きたいとか死にたいとかを考えないで普通に存在していたいだけなのだ。
なぜこんなことを考えないと生きていられないのか。もう疲れた。
もし、激しいうつや死んでしまいたくなるような気持ちを、一瞬にして楽にしてくれる特効薬のようなものはあったなら、どんなにいいだろうとおもう。そんな魔法のようなものは絶対にないと知りながらも、想像せずにはいられない。もしそれがあったら私は存在できるだろうか。


私は何を感じ、どうやって生きていくだろう。
精神病の特効薬が、もしあったなら。



そんなクスリ、いらねぇよ。
もう一人の私が、ニタ。と、笑った。









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