【第3章】 トラウマ 〜前編〜
第1章『 夢現神社 〜前編〜 』
前話 『 エディブルフラワー 〜後編〜 』
物流倉庫での勤務もなんとか今日で八日目が終わった。
あいかわらず、倉庫内での肉体労働は厳しくて、毎日死にそうなほどヘトヘトになりながらも、二つ大きく変わったことがあった。
ひとつは、物流倉庫の最寄り駅まで二時間かけて通勤している電車の中での過ごし方。
倉庫勤務四日目までは、電車のシートに座るや、目をつぶり、体力温存のために睡眠を取ろうとしていた。けれども、2時間後から始まる物流倉庫での長く苦しい労働作業がどうしても頭の中からぬぐい去れず、悶々としたまま一睡もできずに不安ばかりが増幅していた。
でも今は、この間の日曜日に都心の大型書店で購入したエディブルフラワーに関する本を電車の中でゆっくりと読みながら、通勤時間を楽しむようにしていた。
そのおかげで、エディブルフラワーについての知識が増えたし、エディブルフラワーの栽培キットを買って、自分でも実際に育ててみようという意欲さえ湧いてくるようになった。
そして、もうひとつ変わったことは、今まで買い物をしたことがなかった、高級食材を扱っているスーパーマーケットへ帰り道に立ち寄り、野菜売り場の片隅に置かれているエディブルフラワーのパックを購入して、出勤前に食べるヨーグルトや、帰宅してから食べるコンビニ弁当、さらにはグラスに注いだビールの上にまで、色鮮やかな花冠を載せて食し、心のビタミン補給を欠かさないことだった。
特に、就寝前に飲むハーブティーの上に浮かべた花冠をぼうっと眺めていると、「ゆかりさん、今日もお仕事お疲れさまでした。私たちがゆかりさんのビタミンになって、体内から応援してますから、明日も頑張ってくださいね!」と、やさしく励まされている幻聴が聞こえるほど、エディブルフラワーにのめりこんでいた。
「あと二日頑張れば、日曜日……」
ベッドに横たわった私はいつものように、エディブルフラワーの本を寝る前に開いた。
美しいお花を具材と一緒に包み込んだ生春巻きやゼリーなど、幻想的ともいえる料理写真をゆったりとした気分で眺めながら、
「ウチの会社でも、エディブルちゃんを扱えばいいのに……」
なにげなく口をついて出た自分の言葉にハッとした。
自然派食品をメインに扱う『ナチュラルン』のお店に来ている、健康志向の高いお客さんたちにもエディブルフラワーは受け入れられるんじゃないの?
エディブルフラワーを売っているお店もまだまだ少ないし、料理に添えるだけで魅力的な姿へ変化させてくれる「食べられるお花」があることを、『ナチュラルン』のお客さんたちに知ってもらったら、人気商品になるかもしれない!
私はベッドから起き上がり、メモ用紙にエディブルフラワーの魅力を思いつくままに書き出していった。
そして、ノートパソコンの電源を立ち上げると、書類作成用のソフトを呼び出して、キーボードを叩き始める。
【食べられるお花、『エディブルフラワー』の販売企画案】
少しも迷うことなく、企画書のタイトルが打ち込めた。
企画書を作成するのは八年ぶりのことだった。
八年前──。
突然、記憶の底から嫌な思い出がよみがえる。
私はキーボードから両手を離し、深いため息をついた。
「なに馬鹿なことやってるんだろ、私……」
八年前、ひどい目に遭わされたのを忘れちゃったの?
あの時に受けた屈辱感で、心の中がギュッと強く締めつけられ、苦しくなる。
私は、あの時を境に、挑戦することをすべて放棄していた。
『ナチュラルン』に入社して二年目だった私は、日本で流行り始めた『アロマテラピー』にハマっていた。
『アロマテラピー』とは、お花や樹木から抽出した香り成分である精油を使うことで、心身の健康や美容増進を促す自然療法。
私は、ラベンダーやローズ、サンダルウッド、フランキンセンス、ゼラニウムの香りが好きで、趣味として楽しんでいた。
そのうち、会社の直営店でもアロマテラピーの精油を扱えばいいのにと閃いた私は、『アロマテラピーの精油販売企画案』を数日かけて作成し、すべての直営店を仕切っていた統括部長へ提出した。
実はこの時、私はこの企画が本社で認められ、花形部署である『企画戦略本部室』へ最年少で配属になるんじゃないかと密かに期待していた。
結果は、惨敗。
当時はアロマテラピーの認知度がまだ低かったせいもあり、本社の企画会議に掛けられるどころか、
「おまえなあ、匂いがビジネスになるわけねえだろ? こんなくだらない企画書作ってる暇があったら、野菜でも数えてろ!」
統括部長に一蹴され、
「おまえ、企画に向いてねえよ」
統括部長から最後に言われた言葉のトゲトゲがいまだに、私の心の奥底に突き刺さったままだった。
心が弱っちいと言われればその通りだけれど、それからの私は失敗して傷つくことが極端に恐くなってしまった。
それで、入社してから十年もの長い間、わざと本社勤務から逃れるために、お店でアルバイトさんたちと同じ単純作業にばかり従事していたのだけれど、結局は物流倉庫へ島流しという最悪な結末になってしまったのだから目も当てられない。