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吾輩は犬である

吾輩は犬である。名前はもうある。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでもガラス張りの部屋に入れられてわんわん泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここで人間というものを見続けていた。

そのうちの人間の数人が吾輩の手下になることになった。この人間たちは吾輩をいろんなところに連れていきたがる。よくわからぬ黒い怪物のような生き物に吾輩を食べさせる。人間も一緒に食べられる。生きて出てくることができるので、もしかするとこの怪物は優しい怪物なのかもしれない。

怪物の体の中はほとんどが空洞でできている。人間たちは吾輩を驚かせてはいけないと思っているのか、吾輩をずっと抱き抱えている。吾輩は人間に抱かれたまま怪物の外を眺めている。怪物はとても早く移動する。怪物が少しだけ口を開けると、外から涼しい風が入ってきて、気持ちが良い。怪物の中というのは案外快適である。

その日はとても天気のよい日であった。
人間たちが黒い上着を着始めた。そしてなんだかソワソワしている様子が匂いでよくわかる。人間たちは吾輩にそれを悟られまいと素知らぬ顔をしているつもりなのかもしれないが、吾輩は鼻がいい。人間たちのソワソワ具合も匂いでわかってしまう。表情だけ誤魔化したところで、何のごまかしにもならないが、人間たちは吾輩の習性を把握していないらしい。誤魔化せていると思っているところが非常に滑稽である。それを教えようとして吾輩がワンと吠えたところで、人間たちには伝わらないのが難儀である。

吾輩は外に連れ出してもらおうと、必死になって檻の中から人間たちに声をかけた。人間の都合で連れ出されたり、連れ出されなかったりするのだ。手下のくせに、決定権が人間にあるというのが嘆かわしい。しかし、吾輩が何も言わなければもしかすると連れ出してもらえる可能性を自ら閉ざしてしまうのではないかという懸念があるので、吾輩はとりあえずワンと声をかけてみることにしている。

その天気の良い晴れた日は、連れ出してもらえる日だった。
吾輩は黒い怪物に食べられた。その日の黒い怪物は調子がいいらしく、どこまでも走り続ける。しばらく行くと、怪物が休憩をするらしく人間たちと一緒に怪物の外に出た。

そこは初めてみる青い世界が広がっていた。


大きな大きな水たまりが吾輩に押し寄せてくる。吾輩は喉が渇いていたので、水たまりに舌を当ててみた。するとこれが非常に塩辛いのである。人間たちは吾輩が塩辛い水を飲む様子を見て笑っている。わかっているのであれば、先に教えておいてくれればいいものを、趣味が悪い人間たちである。

この人間たちが趣味が悪いのはこの一ヶ月で吾輩には十分にわかっていた。美味しいおやつというものを持っていながら、いつもそれを隠しており、たまにしか吾輩に与えようとしない。自分たちは美味しい匂いをプンプンさせている食べ物を好き放題食べているというのに、それを吾輩にも与えようとしない。
全くもって趣味が悪い人間たちである。

しかし、この人間たちが悪いことばかりではないことは吾輩もよくわかっている。
この人間たちはあったかく、心根は優しいのである。食事もうまく、寝床もあたたかい。吾輩の腹を撫でる時、人間たちはやさしい声で鳴くのである。

だがしかし、一つだけ言わなければなるまい。
吾輩にとっては別に水たまりが大きかろうが小さかろうが、遠くの公園だろうが近くの公園だろうがあまり変わりはないのだ。近所を散歩しようとも、わざわざ怪物で一時間もかけて遠くの公園を散歩しようとも、吾輩にとってはただの散歩なのである。

吾輩は人間たちの自己満足なお出かけに、今日も付き合ってやっているのである。


吾輩は生きる。生きてこの太平を得る。太平を生きながら得る。カリカリ武者武者モグモグ噛み噛み。ありがたいありがたい。




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