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自己肯定感に、天井はあるのか。
何を隠そう私、自己肯定感は高い方だと自認している。
でしょうね、と家族は言うだろう。
そうでしょうね、と知人は言うだろう。
自認どころの騒ぎじゃない。
飲み屋で偶然隣り合った他人でさえ、私の自己肯定感の高さを認める自信がある。
自己肯定感が高くなったのがいつ頃の話なのかは、私にもよくわからない。
親の育て方かもしれないし、成長の過程かもしれないし、遺伝子レベルで自己肯定感が高いのかもしれない。
そもそも、自己肯定感という言葉が出てきたのかが、いつなのかを私は知らない。
私の記憶を遡っても、平成何年の何月何日頃に自己肯定感という単語を認識しました、という明確な答えがないので、いつから自己肯定感が高いかなんてどうでもいい話だ。(昭和生まれなのに、平成を引き合いに出すところが、小賢しい)
それはさておき、たぶんずっと私は自分のことが大好きだ。
それゆえ、自分の頭の中を覗いてほしいという変態チックなことを、わざわざnoteに残して、私を見て!という小学生レベルのアピールの仕方をしているに違いない。
小学生のころのおはなし
突然、小学生の頃を振り返る。
私は、小学生に進学する時、田舎から東京という大都会の端の方へ引っ越しをした。
引越しした頃は馴染めなかったが、子どもの順応性は素晴らしく、次第に馴染んでいった、はずだ。
その後、私は再び親の仕事の都合で、引越しをすることになる。
次は福岡だ。
福岡は母親の育った場所であり、馴染みがある場所だった。
そのため、特に不安もなかった。
福岡の方言も聞き馴染みがあった。
少しばかり標準語を揶揄われたりもしたが、転校時は大きなトラブルはなかったように思う。
小学5年生に進級する春だった。
私は生まれてすぐに、何かの病気になったらしく、数ヶ月だったか入院していたらしい。
そのため、母は私の体調をとても気遣っていた。
もちろん健康体なのだが、小学5年生としては早めの夜9時に寝ていた。
長子だったのもあって、弟と妹と同じ時間に寝ていたのかもしれない。
すると、どういうわけか、女子たちの会話についていけない。
小学5年生ともなると、夜7時台のアニメの話はしないらしい。
私がみたこともないバラエティ番組の話だったり、流行りの音楽の話だったり、好きなアイドルの話がメインになる。
もともと、東京から転校してきたよそ者である上に、会話についていけない。
しかも、方言は話さず標準語を話す。
となれば、多感なあの子たちにとって、私はいいかもだった。
よくあるという表現は望ましくないんだろうが、一般的によくあるいじめと認識されるような、無視されたり、何かを隠されたり、悪口を言われたりなんかをされていたような気がする。
親に夜遅くまで起きていいかと相談したり、あまり親が見せたくないようなバラエティ番組を見たいと言い出したり、CDを買ったりしてみたんじゃないかと思う。
幼心になんとか対処しようとしていた。
親に相談するという手段もあったのかもしれないが、私のプライドが許さず、いじめられてることを具体的に親に相談することはできなかった。
何せ、30年近く前のことなのでよく覚えていないが、多分そんな気がする。
まあ、全く誰とも話さない訳でもなかったので、生活に大きな支障があったわけでもないが、はじめての仲間はずれを経験して、傷ついたのは覚えている。
ここで活躍するのが、自己肯定感だ。
自分が大好きなので、仲間はずれにされても、自分は悪くないと思っていた。
私に問題は一つもない。あるとすれば、話題が合わないことくらいだろう。
むしろそれだけのことで、モラルに反することをする人が悪いのだと。
しびれを切らした私は、下駄箱に集まる女子の集団に切り込んでいった。
文句の一つでも言ったのか言ってないのか記憶にないが、性格上、文句の一つくらいは言ってそうだ。
だからといって、何かが劇的に改善したわけではないが、屈しなかったという自信にはなった。
そして、それはまた私の自己肯定感を福岡タワーレベルから東京タワーレベルへと押し上げた。
中学生のころのおはなし
さらに、中学生の頃を思い返す。
小学生とはレベチで中学生女子は群れる。
私が馴染めるわけがない。
ここでは、バラエティ番組の話など土俵に上がらない。
かっこいい先輩や、やはりアイドル、そして、自分をいかに可愛く見せるかの会話でもちきりだ。
私にはハードルが高かった。
当時、私は陸上部に所属しハードルをやっていたが、それでも飛び越えられないハードルの高さだ。
女子の群れというハードルは中途半端な高さだった。
どうせなら高いハードルにしてくれればよかったのに。
ハードルは高ければ高いほどいい。
だって、高けりゃくぐればいいんだもん。
しかし、中途半端な高さのハードルは、くぐることも飛ぶこともできず、ここでも私は群れに馴染めずに無視をされることになる。
その頃は給食の時間が辛かった。
空気というより、水素だ。
その場で浮いている。
教室の天井から俯瞰で、給食の様子を見てしまうぐらいに浮いていた。
私は天井あたりで、なんで私、女子なんだろうって思ってたね。
そもそも、小学生の頃は男の子になりたかった。
スカートは履きたくないし、女の子らしい行動というのに違和感があった。
制服だって学ランがよかったし、セーラー服は着たくなかった。
とはいえ、私の性別は女だった。
今となっては、女でも男でもどっちでもいいけど。
生まれた体で生きるだけなのだ。
この謎の女子の団結力の中で生きていくしかない。
中学校のいいところは、毎年クラス替えがあることだった。
マンモス校だったので、クラス替えで同じクラスになる人は少ない。
その都度、新しい人間関係を築けばいい。
どうせ馴染めないんだ。
馴染まなければなんてことない、と女子との関わり方を学んだ。
それに、群れない人は一定数いる。
一人じゃないし、それより高校受験の方が大事なのだ。
と、高校受験で志望校に合格した私は、再び自分で自己肯定感を押し上げた。
セルフほめちぎり
そんなこんなで、私は、どんどん自己肯定感を上げていく。
そして、ことあるごとに自分をほめることを覚える。
えらいね、私。
頑張ってるね、私。
さすがだね、私。
どんだけ自分大好きなんだよ、と思うが、無条件で自分のことを好きでいられるのは自分自身しかいないと思ってる。
友達だって、環境が変われば好きじゃなくなるかもしれない。
平気で無視できるくらいだし。
親だって、人間だし。
旦那だって子どもだって、わからない。
世間はそんなニュースに溢れているじゃないか。
しかしだ、私が私のことを好きかどうかだけは、自分で決められる。
絶対的な味方は、私自身だ。
という価値観で生きている。
そして、私が好きな人は私が決められるので、私に関わる人たちのことは、可能な限り好きでいたい。
味方が増えれば、世界は楽しい。
自分のこと自分でほめてるんだから、周りがあなたのこと、ほめなくっていいよね。って言わないでほしい。
そういうことじゃない。
エゴの申し子は、いつだってほめてほしい。
ほめられたいがために、受験を仕事を家事を頑張るんだもん。
けれど、世間も家族もあまりほめてはくれない。
こちらから、ほめてくれとリクエストをすれば、コールアンドレスポンス方式でほめてもらえるけれども。
そうじゃない。
タスクをこなすのは当たり前のことなんだけど。
みんな頑張ってるんだけど。
私だけじゃないことくらいわかってるけど。
釣った魚に餌、やろうぜー。
どんどんほめてはちぎってほめては、ちぎろうぜー。
お玉のキビキビの実並みに、ちぎろうぜー。
飼い殺しはいかんよ。
世知辛い世の中だぜ、全く。
駄菓子菓子、いや、だがしかし、ここで問題が出てくる。
何を隠そう、私は天邪鬼なのだ。
面と向かってほめられると、嬉しさ半分、疑い半分、合わせて一つになってしまう。
素直に受け取れない。
社交辞令か打算が入ってるんじゃないの?とか思ってしまう。
なんて、ひん曲がった性格なんだろうか。
その場ではありがとうございます、と言うものの、聞き流してしまうのだ。
そして、嬉しさ半分を家に持って帰って噛み締める。
ほめられたのに、半分だけしか持ち帰れない。
くそう。
素直に受け取りたい。
しかし、人づてに聞くと、そうでもない。
聞き流さなかった半分も、おうちに持って帰れます。
素直に受け取り、大切に心の貯金箱にしまっておきます。
この貯金で、私はしばらく生きていける、ぐらいに喜べる。
そして、今日、ほめられた。
そんな嬉しいことが、今日あったのだ。
突如、私のスマートフォンが鳴り止まなくなる。
若干大袈裟だが、私の中では鳴り止んでいない。
通知が来ていない時も空耳アワーばりに鳴っている。
通知がめっちゃくる。
スキって言われまくってる。
何この優しい世界。
やばすぎる。
通知をよく見ると、私が初めて書いたエッセイをしろさんという方が紹介してくださっているではないか。
さらには、めっちゃほめてくれてる。
どうするよ。King Gnuとかセカオワと同列になってるように見えるではないか。
先日、酔いちくれて部屋を真っ暗にして、一人アマプラのライブ映像を見ながらテンション爆上げで暴れ回った、あのKing Gnuと同列になっている。
不整脈発生。
ドキドキしてる。
こんな嬉しいことってある?
頭の中、覗き見してもらって、興奮してるところに、さらにはそれをほめてもらうなんて。
すぐさま、その記事をスクショした(しろさん、勝手にごめんなさい)。
しろさんが気の迷いで記事を書いたのかもしれないと思ったからだ。
全然あいつおもろくないやんと、あの記事をなかったことにされたら、私の妄想癖もやばいところまできたことになるので、スクショした。
セコイぞ、私。
セコイけども、そのスクショ、待ち受けにしたいくらいに嬉しい。
私の知らないところでほめてもらって(通知はもちろん来たけども)、今日、私の自己肯定感は、スカイツリーまで押し上げられた。
今なら水素並みに心が軽いので、スカイツリーから飛び降りても、ずっとふよふよ浮かんでいられる気がする。
これぞ、有頂天。
昨日もnoteでよかったことを書いたけど、もっといいことあった。
もつにこみさんの企画、おひとりさま2本まで参加できるって書いてあったので、しあわせnoteアプデします。
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