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センスのない努力を続けてきた:『「仕事ができる」とはどういうことか?』(1/3)【間違いだらけの読書備忘録(9)】

こんにちは、さらばです。

前回1冊目の読書備忘録を全6回、2万字超書いたことで、

「このままだと、読む速度に全然追い付けないぞ?」

と焦燥に襲われつつ今回が2冊目です。
とはいえ単に文字を追ってなにも身に付けられないまま冊数を重ねたところで無駄になってしまうので、しばらくバランスを模索したいところ。

さて今回はこちらです。

  • 楠木 建 山口 周『「仕事ができる」とはどういうことか?』

1冊目に引き続き、著者は経営学者である楠木 建さん……ただし本書は独立研究者の山口 周さんとの共著、対談本です。


「スキルがある」と「仕事ができる」は違うと前々から思ってた

この本に手を伸ばしたのは、本書について書かれたWebの記事があって、たまたま読んだらすごく興味のある内容だったからです。

楠木さん、山口さんの記事は以前から何度となく読ませていただいており、このおふたりの共著というだけでも非常に興味を引かれます。


本書は端的に言うと「スキルとセンスの違い」について書かれています。そして「仕事ができる」というのは(スキルがあることを前提として)センスがいいということであると。
また、センスを身に付けるにはどうすればいいのかというところにも言及されており、仕事の能力について考える上でとても刺激的でした。

わたしの身の回りでも、昔から、

「あのひとは知識あるんだけど、仕事できないんだよね……」

といった評価を周囲からされているひとがたまにいました。
職場では「あいつは(仕事が)できる」とか「あいつはできない」とかいう会話がそこそこの頻度で当たり前のようにされますし、まあ言われてみればそうだよなと思うこともあるのですが、じゃあそれが一体どういう違いなのかを言語化できるかというと、なかなか難しいことでした。

例えば周りで「仕事ができる」と言われるひとを想像すると、「売上をきっちり作ってくる」とか「顧客の懐に入るのが上手くて気に入られる」とか「混沌とした状況を整理して前に進める」とか、そういうイメージが出てきます。
これらの人々にスキルがないかというとそんなことはないのですが、さりとて「スキルのひと」という印象がないのも事実。なんとなく「頭がいい」という感じはありますが、「頭がいい」という表現からしてファジーです。頭の良さにも色々あって、少なくとも「演算力が高い」という意味じゃないことは間違いありません。

で、結局じゃあなんなんだ? という疑問に対し、本書は一定の答えを見つけさせてくれる一冊になりました。

スキルは部分でセンスは総合

そもそも「仕事ができる」の「仕事」とは「成果を出すためのもの(=利益を出すもの)」です。
だから「仕事ができるひと」というのは「成果を上げられるひと」で、成果を上げる能力というのはなんなのか? という話になります。

少なくとも「スキル」だけあっても成果は上がりません。
例えば英語力、文章力、データ集計力といった、比較的外部から有無を計りやすいスキルが担保してくれるのは「部分的な」業務ができるということだけです。
それらのスキルをどう使いこなすかというのには多分に「センス」が必要で、「要するにこうすれば成果が出るんだよ」という「総合的な」視点で行動できる力が、成果を出す上では重要だと言います。

でも「仕事ができるというのは、センスがあるということです」と言うと、そこで話しが終わっちゃいがちです。
なぜならセンスというのはなんとなく先天的な才能のような印象があり、努力でどうにもならなさそうな印象を受けやすいからでしょう。

けどじゃあ、生まれたときからセンスの有無が決まっているかというと、そんなはずはありません。ただ、センスにはスキルと違って「誰もがこうしたら身に付く」という教科書的な方法が存在しないのです。

こういった内容を受け、本書では「スキルは育てることができるが、センスは育てることができない」といった論旨が語られます。
ただし「"育つ"ことは可能である」と。

センスがある人間に、自ら育つための方法

スキルのように部分的な能力ではないが故に、センスは教科書的に誰かに教えてもらったりすることはできません。しかし自ら育つことは可能であり、育ちやすい環境というものはあるということです。

究極的には体験が必要で、実践しながら失敗と成功を繰り返すことでセンスは磨かれます。
でもそうそう実践の機会に恵まれるとは限りません。その場合は「センスがいいひと」を総合的に間近で観察し、本質を見極めることで疑似体験を行うことでもセンスは磨けるということです。職人の弟子入りや政治家の鞄持ちなんかは、そういう意味で合理的な方法であるようです。

「センスがいいひと」が身近にいない場合は、さらに直接体験度は薄まるものの、読書が疑似体験に近い方法になるとのことでした。豊富な文脈で筆者の主張に紐付く思考の流れを「総合的に」読むことで、センスが磨かれると。

ただ、どういう方法にしても受動的な姿勢でセンスを磨くことはできません。鞄持ちをするなら相手の発言や行動の裏にある原理を見極めようとする目が必要ですし、読書にしてもただ知識をINPUTするのではなく「筆者と対話する」ように読むことが肝要です。

またセンスを磨くという行為はとても事後性が高く、「これをやったらこれくらい身に付く」という因果がはっきりしません。積み重ね、身に付いたあとで初めて「ああ、あれが役に立った」と思うものです。
さらに、センスの良し悪しにフィードバックがかかることは多くありません。「あいつはセンスないよな」と陰で言われることは多々あれど、面と向かって「あなたはセンスがありません」と言われることは少ないでしょう。なんとなくそれは「本人にはどうにもならないことを指摘する」といった、ある種人格否定に近い響きを纏ってしまいがちですし、普通は言いません。

このように、自ら育つしかないのに、能動的に学ぼうとしてもその手段に乏しく、不確実性が高く、さらにフィードバックもかからないので身に付いているかどうかすら解りにくいのがセンスです。
だから「そこで話が終わっちゃいがちなもの」として見られやすいのでしょうし、だからこそ「スキルがあるひとは一定いるが、仕事ができるひとというのは少ない」のでしょう。


というわけで、続きは次回へ。

お読みいただきありがとうございます。
さらばでした!

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