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【雑記】トラック野郎と昭和の私のデコチャリ

 私が小学5年生の1977年/昭和52年は、名優の菅原文太氏が演じる一番星桃次郎が主役のロードムービー「トラック野郎」が人気でした。実は小学生の頃の私はこの映画が大好きでして、当時は弟を誘って、大多喜町に一つだけある映画館によく観にいったものです。
とはいえ、田舎の映画館なので大体どんな映画も半年遅れか一年遅れの公開、トラック野郎に関してはほぼ丸々一年遅れて上映しておりましたが、それでも夢中になったものでした。
トラック野郎のいったい何が私をあんなに夢中にさせたのか?まぁ男の子ですし、大きい車が本質的に好きなんでしょうね。なにより暗闇を一気に拭い去る眩い輝きを全身に纏い、甲高い排気音を奏でながら街道をオラオラで突き進む長距離トラックがカッコよかったー!
そして喧嘩が強く気風のいい主人公の桃次郎に憧れていたところもあります。女性にモテモテだったところは素直に羨ましかったなぁ、しかし本命にはいつもフラれてましたね。そして毎回ちょっとだけあるお色気シーンは、顔を赤らめながらも映画館の暗さをいいことに、常に目を皿のようにして見入っておりました(笑)

(その昔のバンダイ製プラモデル1/35「一番星号」とトラック野郎のサウンドトラックCD)

 そんなトラック野郎が大好きな私です、自分の自転車も色んなものを付けてあのデコトラみたいにピカピカキラキラとさせておりました。
この時代はフラッシャー付きのジュニアスポーツ自転車が流行っていたのですが、うちでは父が「あんなものは単なる飾りだ」ということで、私の自転車はそのフラッシャーがないシンプルなジュニアスポーツ車でありまして、、その反動もあってか、お小遣いを貯めてはポチポチと部品を買い込んで、同級生たちが乗るフラッシャー自転車に負けない飾りつけをしていったのでした。
その結果、最終的には赤青黄緑のホタルライトを16個、バイク用のバックミラーのポールにカラフルに点滅する8つのムギ球を設置(点滅回路は自作で仕込みました)、さらに本来は自動車のバンパーにつける接触防止用の光るコーナーポールを取付て、旗日などにはそのポールに日章旗などを結んで走ってみたりと‥
我ながらトンだ阿呆だ ァ '`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、
でもこれだけヒカリモノが多いと、通常装備のダイナモ1つでは電力を補えず、その数は徐々に増し最後はダイナモ4つに、さらに4~6個の単一乾電池を前のキャリア部に設置して電力をまかなっておりました。
その他はフォグランプ✕4(ライトの下に2つずつぶら下げた)、アメリカのパトカーのパトホーン、パフパフ鳴るラッパ、スピードメーターもついてましたね。あぁ思い出した!確か携帯ラジオもハンドルにつけてたぞ!
これだけゴテゴテと盛り付けちゃって、せっかく父が買ってくれたツノダのスカイランサー(26インチ車)が台無しですが、誰がなんと言おうと当時の私にはこのスタイルが大正義だったのでした。所謂デコチャリってやつですね。このデコチャリに私が付けた名は、確か「自由と冒険号」だったと記憶しています。
次の写真は、そんな私の自転車「自由と冒険号」の様子です。上記でお話した最終形態までいってはおりませんが、なんとなく最終形態を想像できるのではないでしょうかね。現存する写真がこれぐらいなのです、非常にザンネンだ‥。

デコチャリの解説に熱が入ってしまいましたが、当時の私は、こんな無駄に派手な自転車で、まさにトラック野郎のように大多喜の隅々までよく一人で遠征に行ったのでした。こういうのは自分のペースで走りたいので一人が良いのです。そう、まさに一番星ブルースの一説「男の旅は一人旅~♪」なのです!
今思えば、大多喜町は自然も豊かで山野も多く、誠によいサイクリングだったんじゃないかと思いますが、当時の私の頭の中はトラック野郎、景色なんてどうでもよく、一人でシブい顔をして一番星ブルースを歌いながらデコレーションでひときわ重たくなった自転車のペダルを嬉々として漕いで目的地に直行便、ある時は大多喜町で一番高い伊藤大山へ、そしてある時は平沢のダムを見に、そしてまたあるときは養老渓谷で粟又の滝を眺めてきたりと、それはそれは振り返れば、小学生としては恐ろしいほどの距離をいつも突然一念発起し爆走していたのでした。しかしそれほど目的地に思い入れがあるわけじゃなく只走りたいだけなので、着いたら着いたで一息入れたらまたシャカシャカとペダルを漕ぎ、直ちに帰路に着く私なのでした。
そういえば大多喜町内だけでなく、お隣の国吉(夷隅町)や、その先の大原町にも行ったことがあったなぁ(この二つの町は合併=いすみ市)。あとは熱い夏の日に、やはり突然海が見たくなって御宿まで行ったっけなぁ、まぁ海について一通り眺めた後、やはり直ちに帰路に着いたけど。何れにしても我ながら子供にしてはモノ凄い行動力でした。
一度だけ従弟の住む千葉市に向かって遠征を行ったのですが、大多喜街道の町外れにある連続カーブと急な坂が続く羽黒坂でかなり疲弊し、どうにかこうにか市原市の牛久までは行ったものの体力が持ちそうになく引き返してきましたね、あれは小学生にはさすがに無茶でした。

そんな思い出を元に、インターネットの片隅のこのnoteでこっそりひっそり公開している誰トク趣味の児童文学(注)「大多喜無敵探検隊-since197X」の新しいお話として近いうちに書いてみたいと思います。
(注:児童文学は自称)

※この文章は、当時の記憶を思い出しながらお話を構成するためのものとしてプロローグ的に書いたもので、後にお話が完成したら文章だけゴソッと差し替えるつもりでしたが、思っていた以上に「スキ」をいただき、あまりに申し訳ないので、この散文は少々手直しして雑記カテゴリとして残すことにしました。「スキ」をくださった皆さん、ありがとうございます。

大多喜町MAP 昭和50年代(1970年代)

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