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【雑記】大多喜町 周辺の地域呼称について考察 南房総・南総・外房・房州…

 我らが『大多喜無敵探検隊』が昭和50年代に駐屯(?)していた千葉県の『大多喜町』。この町を取り巻く房総半島一帯の意外と難解な地域呼称について少し解説します。とはいえ千葉県に全く縁のない方には無用な情報であります。。
古くからこの千葉県、特に房総半島には様々な地域呼称があり、その境界もかなり曖昧なものでしたが、前に気になり色々な本を読み、そして実際にその地に住む人たちが自分の地域をどう呼んでいるかを元に、分かりやすく市町村単位をベースにして幾つかの地図に落とし込んでみました。それが以下になります。なによりこの手の公式見解は存在せず、無論この私の調べた結果に関しても当然公的なものではありません、他にも違う見解はあるかとも思います。

 まず最初は『南房総』です。大多喜町は房総半島の南部ですし、周辺の勝浦市や御宿町、いすみ市と共に『南房総』とも呼ばれていました。少なくとも昭和の頃、私が大多喜町に住んでいた頃は、皆そう呼んでおりました。
ではその地元の人たちが認識していた『南房総』とは、具体的にどこを指すのだろうかといいますと、基本的に『南総(旧上総国)』の南部と『房州(旧安房国)』を合わせた呼称と言う理解で、差し支えないと思います。
(※一部、市原市の南端も入るのかもしれません)

昨今、この地域呼称『南房総』を分かりにくくしているのは、やはり『南房総市』の存在でしょうね。そもそも昔ながらの地域呼称である『南房総』とは、上記のMAPにあるように、千葉県南部の総称としてよく使われていた呼称でしたが、平成18年(2006年)に、安房郡のいくつかの町や村が合併し、『南房総市』と名乗ったことによって、それまでの地域呼称『南房総』は、非常に使い難くなりました。南房総『市』と勘違いされちゃうかもしれませんものね・・。
私自身も他人様に故郷を聞かれた際には、それまでは普通に『南房総だよー』と答えていたのですが、昨今では『南総だよー』『生まれは房州だよー』と言うようになりました、余計分かりにくいような気もしますけど。。
南房総市さん名前変えてみませんか?
(´・ω・`)
まー自分の家の事だけで言えば、わかってる範囲では平安時代の終わりから明治大正昭和までの長い間、ウチはまさにその『南房総市』になった地域(和田町)にありましたし、そして今でも親戚が住んでるわけだし、例え勘違いされたとしても、そんなに嘘ってほどでもなく、さらに全く大した内容でもないので全然気にする事はないのかもしれないけど・・、どうも性分的にこういうのってスッキリせず気になるんです。

 次に『南総』という地域呼称についてですが、昔から『北総(下総国)』に対し、上総国全体が漠然と『南総』と呼ばれてましたが、最近では旧上総国内で『東総』を始めとした様々な地域呼称が出てきており・・、そんな現在においても、今でも揺るぎなく『南総』と呼んで差し支えのないエリアとなると、結果的に旧上総国の南部(だけ?)になっちゃっているんじゃないかな?なんて思ってます。
そうなると、主に旧君津郡市である袖ケ浦市・木更津市・君津市・富津市、
そして夷隅郡市である、大多喜町・いすみ市・御宿町・勝浦市 が、現在までも間違いのない『南総』という理解でいいのではないかと思われます。上記の『南房総』について記したMAP上で、安房郡を除いた地域ですね。
『房州』は、安房郡市である鴨川市・南房総市・鋸南町・館山市のままなので分かりやすいのですが、旧上総国の地域呼称は、いつのまにやら案外ややこしくなっちゃいました。
そういえば似た表現で『南房』という呼び方もありました。これは安房郡(房州)の館山市や南房総市の、さらに南の海っぺりを指す言葉だろうと思っておりますが、昨今ではほとんど使われない地域呼称で、私自身も今ひとつ自信がありません。父が生きていてくれたら分かったのかもしれません。
こんな南総談義で思い出すのは、江戸時代の有名なお話『南総里見八犬伝』でしょう。このお話の舞台は、主に館山市など安房郡で、正確には南総ではなく房州、または南房となるのが自然ですが・・、ひょっとしたら江戸時代は、房州エリアもひっくるめて南総と呼ばれていたのかもしれません。

 そしてもう一つ分かりにくいのが『外房』です。
外房という地域呼称については、広義的には銚子の太平洋沿岸の海岸線、いわゆる九十九里一帯から、館山市の洲崎の灯台のところまでで、狭義的には夷隅郡市と、鴨川市・南房総市・館山市の太平洋沿岸を言うようです。

さらに『外房の町』となると、夷隅郡市(いすみ市・大多喜町・御宿町・勝浦市)と、鴨川市・南房総市・館山市が当てはまるんじゃないかと・・。
『外房』というと海辺の町の印象があり、海のない大多喜町に多少の違和感を感じますが、随分昔から大多喜町は『外房』の町として認識されてきました。その理由として、大多喜町は江戸時代前から、この地域一帯の拠点の町として栄えており、この街にある大多喜城 (または 小田木城 / 小田喜城)を中心に、御宿町や勝浦市、いすみ市など海沿いの地を領地としていたことからきているのかもしれません。
またこの図には、外房に対して『内房』の記載が抜けていますが、内房と呼ばれる地域は房総半島の東京湾側、館山市の洲崎の灯台から主に富津の張りだしたところまでが昨今では『内房』と呼ばれているようです(そこから北は東京湾)。
何にせよ、上記は画一的なものではなく、それぞれの時代や、地元の観光誘致策などの都合により、その境界も徐々に変わり、そして曖昧になるものです。大多喜町の周辺でも最近では『中房総』という地域呼称が生まれ、お隣の睦沢町や市原市の南部、長南町辺りと大多喜を一つの区分とし、地域の各自治体が舵取りをして観光や商圏の開拓へと乗り出しているようです。

【オマケ】
以下、現在の地図に、当時の安房国、上総国、下総国を当てはめてみました。位置関係が分かりやすいように、相模原や日光まで地図に入れてます。
江戸時代の前までは、東京の両国橋から東、スカイツリーのある辺りは下総国だったんですな・・、そして下総はそのまま栃木県まで広がっていたようです。余談ですが、北総エリアの昔からの方言には、千葉県南部の房州弁より栃木県などの影響が強いように感じておりましたが、この地図にあるように、その昔は下総自体が栃木県にダイレクトに繋がっていた影響があるのかもしれません。

 そんな昭和の房総南部のお話『大多喜無敵探検隊』では、サナダ隊長はじめ隊員たちは皆、以下の挿絵のように房総半島南部の方言『房州弁』なのですが、これでお話を書くと世間様に意味が通じなくなるので、ここでは基本的に標準語にしています。

(房州弁はこんな感じで、基本的にアップテンポで抑揚つけて話します ↑ )

上記内容および画像は、私の個人blog『SANALOG:Weblog雑記』2015年3月10日の下記の日記より引用&加筆したものです。
【地域呼称】南房総(南総・房州)、外房を図解化( ゚д゚ ) 
https://sanadado.blog.ss-blog.jp/2015-03-10


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