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人のきもちが解らないとキレてばかりの人間なりの「考える」と「調べる」のやり方

※How to記事ではなく私自身が自分の中のパターンを文字に書き起こしながら整理する為のものです。内観です。


おおよそ5歳頃、保育園に通うようになった辺りから、私の家族外との社会交流は始まったと言える。
そのスタート地点から今日に至るまで大体いつも「人のきもちが解らない」とキレたり泣いたり拗ねたりしている。

正確に言うと、人の考え方や感情において「なぜそうなるのが当然なのか」が解らない。空気が読めないという表現があるが、空気は読めても理解ができない、納得できないという感覚が近い。

恐らく説明されれば、そうなる仕組み自体は理解できると思う。しかしその場において7割の人が当然と思っている現象に対して、わざわざ説明はされないどころか、そもそも「当然」なので仮に私が説明を求める機会があったとしても、それこそ内観をして自分の中で言語化するのが日課の人でもない限りは説明する言葉を持ち合わせていないんじゃないかなと思う。勿論それが悪いとかいう話ではない。

むしろそういう他人の気持ちが解らない発達障害の人とか社会的にマイノリティ側に位置付けされる人たちほど人に説明する機会が多いぶん妙に言語化能力が高くなるらしい。ソースは不確かだけど合点のいく話ではある。

幼児の時は幼女なりの女社会の暗黙のルールがいまいち理解できなくて女の子の遊び、おままごと等のごっこ遊びにたまにしか混ぜてもらえず、保育園では一人で絵本を読んでいた。
心配した先生に話しかけられたら「お家帰りたい」と言っていたのを覚えている。家から徒歩3分の園に通っていたのもあって余計にそう思ったんだろう。

小学校に入ってからはみんなが勉強が嫌いな理由が解らなかった。というか私は勉強と思っていなかった。まず教科書は読み物の感覚だったので、授業は先生ともう一回読み直しておさらいするくらいの感覚だった。
暗記は苦手だったからテストの点は必ずしも良い訳ではなかったけど、少なくとも人間として嫌いな先生でない限り授業が嫌と感じることはそんなになかった。体重測定と一部の体育、嫌いな給食のおかずのほうが嫌だったしズル休みしたい感情は大体そのへんが理由で湧いてきた。
あとは高学年になって恋愛という概念が芽生えてくると、これまた女子グループにハブられた。○○が○○君好きなのになにベタベタしてるの?!と集団で怒られたことがある。知らんがな。初手で怒る前に教えて?初見殺しか?

中学校に入ってからの時期が難しいのは自分に限った話ではなく誰しもがそうだろうと思う。
私の場合は皆が「大人になろうと難しい年頃になっていく」のが解らなかった。
私だけ小学生マインドのままで(小学生の時点で集団で怒られたにも関わらず)男女問わず、明るいとか大人しいとかの性格問わず、部活動の種類問わず、クラス全員と関わろうとしていた。こうして文字にしてみるとものすごく良い奴みたいだけど浮いていたしたぶん全然空気が読めていなかったし、悪く言えば人との適切な距離感が正確に測れていない子だったと思う。
逆にその無神経さのお蔭で、女子の集団からシカトが始まった時も私が(悪意に気づいていない為)ダメージを受けなさすぎて相手の士気をそいですぐに何事も無くなったり、学年で一番派手なヤンキーの転校生と一番仲良くなったりするなどの良いこともあるにはあったけど
二年生頃から顕著に空気が白けることが多くなったのでさすがに察して段々とそういう距離感をとるのはやめるようになった。
その状況を理解はしても納得はしていなかったしその頃からそういう違和感にキレたり泣いたりするようになった。

高校からはいよいよその違和感が地獄になってきて一時期抑うつ状態になった。当時はそんな言葉知らなかったから周りになんて言えばいいか解らなかったけど慢性的な不眠と喉に異物感があって息がうまく吸えなかった。
「自分以外の人間は実は思考してないのではないか?」という哲学の思考実験に出てくる言葉として「哲学的ゾンビ」というものがある。その単語は知らなかったけどそれに近い疑いは友達以外の周りの高校生に対して当時抱いていた。この「哲学的ゾンビ」思考は中二病の一種として通る道らしく、単純に中二病という字面だけ参考にすれば、高校生は時期的に少し遅い訪れとも言える。やはり私の内面の発達は少し遅れているのかもしれない。

哲学的ゾンビという単語の定義について念のため調べ直した際に、恐らく100万に1つくらいしか存在しないと思われる「立場が違う複数人のやりとりが面白いYahoo知恵袋」を発見したので貼っておきます。
◆Q.自分の不安な気持ちを軸に質問をする投稿者
◆A1.プログラムの不完全性から哲学的ゾンビの存在の否定、また根本的に人間でないといけないという考え自体がある種の思想や宗教から来ているだけで実際不安に思う理由はないという主旨を詳しく述べる回答者
◆A2.歴史上の哲学者や現代の哲学書などの知見を引用しつつ回答者の不安に寄り添い最後には自分なりの対処法を伝える回答者

うってかわって、大学はその孤独感から救ってくれる場所だった。美大という場所はやはり自己を突き詰める人が多いので、それぞれバラバラの方向を向いていて、自分だけが理解できなくて苦しいという状況はあまり無かった。
相手も説明を求めれば理由を言葉にしてくれるか、言葉にできないなりに「自分でもなんか解らんけどこうやねん」的なスタンスか、おおよそはこのどちらかだった。
そしてこの頃、自分が着たい服を着るということの心地よさを始めて知る。自己否定をせずに、自分にとって自然な姿のまま人と関われる喜びに震えた。結局は他人が解らないことそのものよりも無意識の多数決から来る自己否定が苦しかったのだと思う。

私が入学した時点では学生自治の体制がまだギリギリ有ったのも影響として大きかったと思う。体制にしろ予算にしろルールにしろ「なぜ必要か」「本当に必要なのか」を明文化して相手を納得させる準備をする、という風潮が学生自治古参の組織にはあった。(勿論うちの大学の学生全てにその意識があった訳ではない。実際、学生全体の自治はもうほぼ崩壊し始めていた。)

そして何より、「自認」という重要な概念を表す言葉と出逢った。
性自認という単語が逆に今はポピュラーかもしれない。
言葉の正確な意味はその時々の文脈によっても若干変わると思うので、敢えて私個人がその言葉から得た感覚として説明すると「自分自身を再定義する行為」であり「本人によって再定義された本人」という感じだ。
おもしろいことに「自認」という概念が存在することで、逆に自分以外の他者の輪郭についても再認識の必要性を帯びてくる。簡単に言えば蓋を開けてみるまで解らない存在になる。
またさらに、自認とは違う、他者によって認識された自分の像の存在もはっきりしてくる。客観的事実という点ではそれらも間違っていないし自認と比較してどちらかのみが正しいとは必ずしも言えない。というか正しい/間違いというよりも両者が同時に同じ空間に存在し得るという感じじゃないだろうか。

まぁとにかく私にとってその概念との出逢いは哲学的大発明で救いでそこから数々の新たな思考に繋がることができる通信回線のインフラだった。その喜びは、文字通り筆舌に尽くしがたい。

そういった流れをふまえたことから私の中で構築された「考える」と「調べる」という行為について以降整理していく。

まず「考える」ことについて、の前に考えるきっかけについて。
大人になって考え事をする機会は

  1. 仕事(収益を得る職業以外にも生活や趣味などにおける役割も含む)

  2. 対話相手からの投げかけ

  3. 前述したような個人的困難・苦痛(ネガティブな積極性)

  4. 個人的探究心(ポジティブな積極性)

細かく上げるとキリがないが、大体これくらいじゃないだろうか。
どれも人によってかなり環境が違うものだろうし、それぞれの比重も人によって違うと思う。なのでまず大前提として「考えるきっかけ」がその人に訪れるかどうかは巡り合わせ次第だと私は思っている。
(若干違う話になるが知識との邂逅についても同様に考えている。)

学校の課題や仕事の会議などの義務感を煽る強制力か、どうしようもない苦痛もしくは快楽が刺激されるような出来事で神経がシバかれない限り、基本的に人はわざわざ考えないと、正直思う。というか仕事や課題も、考えているフリでやり過ごすことが出来る。本当の意味で考える行為に至らなくても別にやっていける。職務として良いか悪いかはさておき、そういう人は実際いるし、勿論私自身が過去にそういうことをしたこともある。

そのへんの諸々の出逢いの難しさを乗り越えて、というよりむしろ本格的に逃げられなくなって、いざ考えざるを得なくなった時、どうするか。

私は恐らく、自分の感情を整理するところから始めている。
まずめちゃくちゃ直観的な全体の「是か非か」から、
何に対してそう感じたのか、(この世のほとんどは単純な二項対立でまとめられないので)どの部分に対しては是でどの部分に対しては非なのか、
事柄から抽出できるキーワードと自分の感情を紐付けして整理する作業をしている、たぶん。もちろん人間の脳内はカオスなので、工場みたいに理論整然と作業が進む訳ではない。

その後、紐付したキーワードを自分がどう認識しているかを確認した上で、必要に応じてその認識が一般的に/もしくは他者との間で、あっているのか確認する。
そこで出てくるのか「調べ方」のほうになる。
大前提として、どんな資料や証言を参照したとしても全てなんらかのバイアスがかかっていると思って受け止めている。人や媒体によってそれぞれの真実はあるかもしれないが、少なくとも真実はいつも一つとは到底思えない。ただ、出来事や物的証拠として事実は存在すると思う。というか「真実」って言葉の定義がそもそも難しい。

(仏教用語)仮(かり)ではないこと[1]。究極のもの[1]。絶対の真理[1][2]真如(しんにょ)

Wikipediaより。仏教用語由来なのかなぁ。

Wikipediaを引用したところで「調べる」に関連した愚痴をひとつ。

私が中学生くらいの頃のインターネットの感覚だとWikipediaは「誰でも編集ができる」から情報ソースとして信用性に欠けるという扱いだった。
しかし最近のインターネット上の情報倫理の乱れ具合が尋常じゃなさすぎて、情報ソースもいい加減かつ内容もペラペラのお小遣い・バズ目当てのゴミみたいな記事が量産されている故に逆に複数人によって編集が可能なWikipediaの信用性が相対的に上がっているのが、インターネットが調べものツールとしては本格的に腐敗してきたなという体感がある。
デジタル庁がちゃんと機能するようになったらカスみたいな情報倫理でSEO対策サービスを提供している企業などを一斉取り締まりしてほしい。というかそもそもそういうインターネットの情報操作を宿泊業とか土木業みたいにちゃんと申請してる事業所だけが可能な許可制にしてほしい、けど、それってもはや社会主義国家…ってコト!?ってとこまでトリップした。実際に発案されたら大炎上するでしょう。 ~完~

もうなんのこと考えてたか忘れたわ。

上記の愚痴の通りインターネットは誰が書いたか解らないカス記事がSEO対策サービスでガンガン検索トップに上がってくる始末なので最近はちょっと検索ワードや検索エンジンを工夫する必要がある。
個人的には漠然と以下のような使い分けをしている。

・Googleとかの検索エンジン
カスみたいな記事なりにインターネット世論は漠然と把握できる。あくまで世論、しかもネット世界における世論。昔は同じキーワードでも検索エンジン変えると出てこなかったページに巡り合えたりしたけど今はどうか知らん。もはやキーワードについて調べるよりはお目当てのWebページに行くためのツール。

・Twitter(X)
検索コマンドが結構豊富で特に時制を指定した検索が出来るのは便利。
インターネット世論である点は変わりないけど時系列によって人の発言がどう変わったか辿れるので「その時」「このキーワードで」「どういう発言があったか」を調べたい時にはちょうど良い。HPは魚拓が残ってない限り更新されてしまうのでこれはTwitterにしかできない。ただし、そもそもの利用者層が年代と傾向に偏りがある。

※Meta社SNSは検索機能が検索しないので漫然と楽しいことを探す以外では役に立たない印象。

・企業や団体、行政のプレスリリース
炎上案件について調べる時はこのあたり頼りがち。身元不明の謎の個人が書いた解釈まとめ記事読むくらいなら原文読みたい。

・新聞社のWeb記事
同上案件の際に。上記のプレス原文とあわせて各新聞社の文面見るとうっすらではあるけど解釈が数種類見れる為。

インターネットに限らない調べ方としては、あとは人に聞くとか本とかがあるけど著者やスピーカーの立場によって情報の公平性や信ぴょう性も変わるので結局one of themには変わりないかなぁと最近は思う。

医学・科学系の話題だと論文を根拠にする人が多い印象がある。コロナウイルスのいろんな意見が飛び交っていた頃に読んだ以下の漫画が面白かった。学者さんてほんと大変。


ここまで読んで下さった方の中には、そろそろ「そんなにいろんな意見を取り入れたとて、まとまらなければ思考に結局つながらないのでは?」と訝しむ方もいると思う。

仰る通りである。
ちらりと先述した通り、正直私の認識の中では世の中のほとんどのことは白黒はっきり決められない。提言なんてもっての他である。
なぜならどれだけありったけの良心で何かを決めたとしても、どうしたって誰かにとっての間違いだったり加害になってしまう。それはもう社会性を持って生きている生き物である以上逃れられない、不可逆的な現象だと思う。

なので結局私にとっての考えるということは、事柄について調べるを経た上で、細分化した要素とそれに対する自分の感情を整理するところで大体いつもストップする。
ある程度自分に実務経験のある分野であればそれを根拠に理屈を組み立てて提言だったり立案に繋がることもあるが、4000字かけておさらいした通りそもそも人間としてそんなに器用じゃないので、非常に限られた分野の実務経験しか持っていない。なので基本的に(敢えてシチュエーションが限定的になる言葉を使うが)選ばない。

とはいえ人間関係上または職務上「選択する」ことから逃げられないことだって当然ある。
どうしても選ばないといけない場合は、理屈で選ぶ場合と感情で選ぶ場合があり、どちらの文脈の選択肢をとるかはその時々の立場によって変わる。理屈と感情がいつも一致していれば困らないのだがいつもそうとは限らない。

個人的には常に感情で選んでいたいしそうやって選ばれた選択肢のほうが自分という人間の本質に近いように思えるが、どうしたって理屈が必要な時もある。
それに仮に感情で選んだとしても人のきもちが解らなくてずっと悩んでるくらいなのだから、それが他者にとって受け入れやすいものかどうかは怪しいという気持ち、というか諦めもある。

いずれにせよ思考に責任を持ち選択するということは大変なことだと思う。ましてや自分個人の尊厳だけでなくその場に所属する他者の存在も責任としてプレッシャーになるような状況なら、断腸の思いだ。

人によってはそういうことを全然気にしない人もいると思うので、単に私の苦手分野なのだと思う。
だからこそ選ぶことができる人は心から尊敬する。

ありとあらゆる人に対する良心や遠慮から何も選べなくなって結果なにも守れずに全員が破滅するよりは、なんらかの一部を切り捨てることになるとしても最初から選択をちゃんとして方針を定めて守り切ろうと努める人を私は尊敬する。

2024/04/16 続きを書きました。


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