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続「考え方」と「調べ方」の話

前回の続きです。

この記事6400字もあるのに、それでもまだ書き忘れた内容があってこうして続きを書きたがっているのは我ながら不気味だと思う。(元の本文に無駄話や寄り道が多いだけですが…)

書き忘れたトピックは2つあり
①自分の考えの観点について俯瞰的になる。観点を変えると結論が変わることもある。
②なぜ必要なのか、なぜそれが起こるのが必然なのかを、建前かもしれないが、建前なりに調べて仕組みを理解する。

それぞれ少し補足します。

①観点を変える

前回は理屈で考えた場合と感情で考えた場合、という分け方をしたが、理屈の中でも論点を変えると意見が変わることがあるな、と後から気づいた。
(ちなみに感情のほうはいろんな理屈の結論をふまえた上で、最終的に自分個人の感情で着地するイメージなので、感情の結論に対しては論点による内訳は恐らく無い、自覚できる範囲では。)

例えとしてはふざけているかもしれないが、昔のインターネットで流行った「ドーナツの穴のコピペ」がイメージに近い。
具体的にどんな文章だったか調べたところ、これを元にした本を大阪大学が出版していた。恐ろしい。

※大元のコピペ文は記憶していた以上にふざけていて転載しても意味がなさそうだったので割愛する。気になる人は「ドーナツの穴 コピペ」で検索を。

ざっくり言えば、学問の専門性によってまず話題に対する着眼点が違う。あとは単純に、最終的な事実に対する評価の仕方も変わる。人としては良い人だけど上司としては嫌、とか。

最初に反射的に思いついた意見がどの立場で考えたものなのかを言語化すると他の観点の存在に寛容になれる気がするので出来るだけ俯瞰的になろうと努めている。
でも先述した通り、俯瞰的視野を得たところで、自分個人の感情は結局変わらなかったりもするので、あくまでどれくらい配慮の余裕が持てるか、くらいの意味合いしかない。

②建前だろうと仕組みを調べて理解する

自分が拒否したい意見に向き合う時は特にこの作業を重要視している。

意見に対して拒絶感が芽生えた時、反射的に否定的意見やそれを否定する根拠を頭の中で組み立ててしまう。
でも否定するにしろ、まずその意見が本来なにを目的としてどういった理由で組み立てられているのかを理解したほうが適切に自分の意見をまとめられる。なんなら、理解しようと努める途中で納得いくこともある。

時には、字面はそうは言っても心中は違うだろうというような「建前」であることを意識してしまう時もあるかとは思うが、仮に建前だとしてもそれはそれで理解したほうがいいと思う。建前vs建前で喧嘩しないといけない時も時にはあるので。
あとは最終的に真偽を確認しようがない疑いは個人的にあまり考えないようにしている。余計な情報が増えて負荷が意味もなくかさむ。
そして誰かと議論中なら尚更加味したくない。それが出た途端、停滞する要員にしかならないし建設的でないし最悪の場合言ったもん勝ちになる。
根拠が甘い疑いはくじ引きと同じで「当たったらラッキー」という程度のものだと思うし、そこに結論を委ねられるかと言われれば、それなら最初からもうじゃんけんか殴り合いで決めたらいいだろう。



ある程度の年齢になってくると、それまでに構築されてきた教養に差(格差もあれば個性としての差もある)が出てくる以上、どうしても人それぞれの立ち位置や、役割というものが産まれてくるんじゃなかろうか。

役割と言っても使命とかそんな大層なものではなくて、その人の持っている知識に加えて、人柄や雰囲気から「その人にしかできないこと」というのがささやかながら誰しもあると思う。

これはあくまで私のいち見解だが、その役割に合っていないことを無理にしようとすると奇妙な言葉が生まれる。そしてその奇妙な言葉は、本来その役割を持っている人間には「無関心」「不勉強」などがすぐバレる。
だからあまり役割に背かず、自分の能力に最適な範囲の中で言葉を扱うほうが、トラブルは少ないと体感上思う。
シンプルに言えば、興味が無いことや詳しくないことを無理に話さず、解らないことを解らないと人前でも恥じずに言えることが大事だと思う。

やりたいことと実際できることが必ずしも噛み合う訳ではない。むしろ噛み合わないことの方が多い。
それは職能などに限らず言論の扱いだってそうなんじゃないだろうか。

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