COTEN RADIO 民主主義の歴史編2
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民主主義の歴史編、第2話の概要を記載します。
(間違いがあったらすみません)
セクションタイトルに時間指定リンクを貼っておりますので、学び直しにご活用ください。
古代ギリシアの民主政の姿勢
00:12 - 政治を語る概念
政治を語る概念の多くは、古代ギリシアに起源を持っている。
ポリティクスの語源は都市国家を意味するポリス。
民主政も古代ギリシアのアテナイでなされていた。
哲学者のソクラテス、プラトン、アリストテレスによる思考のリレーも、古代ギリシアにみられる。
プラトンはソクラテスが裁判で死刑を宣告されたことから、理想の国家とは何かを考えた。
アリストテレスはプラトンとは異なる考えを示すなど、政治思想が発展していった。
01:55 - 民主主義の営みの徹底
アテナイでは、公職が抽選で選ばれていた。
最終的な決定権を持つ民会という機関があり、民会の外部で重要な決定がなされることはなかった。
陪審員のような制度があり、上位の為政者が裁判を行うのではなく、規範やルールを前提に、平等な市民が裁判を行っていた。
古代ギリシア、特にアテナイでは、民主主義の制度と実践に対して、自覚的であった。
自分たちが、その仕組みで運用しているということに対する強いプライドとアイデンティティを持っていた。
古代ギリシアの民主政の歴史
04:53 - 平民の台頭
貴族による民会や裁判は行われていた。
王もいたが、貴族に対して絶対的な権力を持っていたわけではなかった。
この頃、貴族と王の間での話し合いは行われていたが、民衆は参加していない状態であった。
いずれ王が没落し、貴族たちが共同でポリスを治め、公益や防衛に協力してあたるようになっていた。
次第に、戦争に平民が参加・協力したことにより、平民が台頭してくる。
当時の兵士は重装歩兵であったが、その武具は自分自身で用意しなければならないなど、負担や犠牲が大きい中でも、平民は戦争・防衛に協力していた。
そのようなことから、平民の声を無視できなくなっていった。
07:44 - ペイシストラトス
その中で、自分の権利を主張する平民と、既得権益を守りたい貴族との間で対立が生じる。
その中で、ペイシストラトスという僭主(ティラノス)が現れる。
※僭主は、実力で君主の地位を簒奪した者を指す
彼が武力でクーデターに成功し、アテナイの統治権を得る。
このクーデターは、平民の支持によるものであった。
彼は元々は貴族であったが、平民の力を借りたこともあり、独裁的ではあるが、抑圧的ではない親平民的な政治を展開した。
しかしペイシストラトスの息子ヒッピアスは圧政を敷いた。
それゆえ、ヒッピアスはアテナイから追放され、アテナイでの民主政が実現していく。
アテナイの平民たちは、恣意的な政治による恐怖を避けるために、自ら政治を行うこととした。
10:24 - クレイステネス
ここで一人の天才、クレイステネスが現れる。
彼はアテナイの民主主義を確立したと言われる。
役職や権力は持っていなかったが、一市民の立場で民会に提案を行い、それが次々と採択されていった。
これはクレイステネスの改革と呼ばれ、民主政がブラッシュアップされていった。
11:28 - クレイステネスの改革:十部族制
クレイステネスは地縁や血縁を活かせない方法で行政区間を区切った。
これを十部族制と呼ぶ。
異なる属性を持つ地域の人々、例えば山間部と沿岸部の人たちを一つの区(デーモス)として扱った
別々の利害を持った人々を一つにまとめ、利害関係が均等になるように均す。
その区から抽選で何人選出するのかを決め、評議会をつくる。
その評議会が行政を担う。
この仕組みによって血縁ベースでの結託、利害関係の固定化を防いでいる。
利害関係の固定化は、既得権益を守る動きにつながる。
そのような既得権益が発生しずらいシステムをクレイステネスは構築した。
民会や評議会の前段階で、異なる利害関係者でまとめられたデーモスの中で議論をする。
利益の方向性が異なる人たちの間で双方に牽制しながら、意見が均一化される。
そこから出てきた意見を中央に持っていくことになるため、必然的に既得権益が作られづらくなる。
古代ギリシアの民主政のシステム
17:49 - 民会
立法機関として民会がある。
民会は年に40回ほど開催されていた。
制度上は男性市民は全員参加可能である。
※ただし、女性と奴隷には民会への参加する権利はなかった
市民が4〜5万人のうち、6千人ほどが民会に参加していたようである。
開催地との距離もあり、開催期間も限られていたため、一度の開催において最大でも6千人ほどであったと見られている。
民会では、全員が発言可能であり、全員が平等な一票を持っていた。
民会が最高議決機関であり、ここで決まったことが実際に行われていた。
19:47 - 五百人評議会
行政機関として五百人評議会がある。
常設の委員会であり、各部族から抽選で選ばれた任期1年の500人の評議会が開催されている。
30歳以上の市民が50人ずつ、各部族から抽選で選ばれる。
選出されると、毎日、評議会に通う必要があった。
民会で決定された事項の実施を担当していた。
実質的な政府の役割を果たしており、立法と司法以外のすべてを担っていた。
20:49 - 司法
司法がある。
抽選で選出された1年任期の6000人の陪審員が、民衆裁判所を設立し、ここで刑罰を決定している。
21:12 - 弾劾裁判
権力が集中しないシステムとして、弾劾裁判がある。
政治の有力者であるとしても、超法規的措置で法律違反があれば弾劾される。
政治家が不正を行ったり、徒党を組んだりすると弾劾裁判にかけられる。
22:06 - 陶片追放
別の権力の集中を避けるシステムとして、陶片追放がある。
僭主になる危険性がある人を、陶器の破片に名前を書いて投票するシステム。
一定の票が集まった人は、10年間追放される。
ただし、追放された人は市民権や所有権は保護される。
アテナイにおける指導者や民会で発言権がある人は、常に弾劾裁判や陶片追放のリスクをはらみながら、緊張感を持って発言しないといけない状況に置かれていた。
民衆の目を意識しないといけないシステムとなっていた。
古代ギリシアの民主政への批判
24:48 - デマゴーグ
ポピュリズムについて古くから指摘があった。
その中でも、しばしば指摘されていたのは、煽動者という意味のデマゴーグ。
彼らは、自らの野心に従って、大げさな言葉や振る舞いによって、人々の注目を引きつける。
そして、民衆におもねって、権力を握っていく。
このようなデマゴーグが跋扈(ばっこ)することでアテナイの民主主義が衰退していったという意見がある。
25:45 - デマゴーグの例:シチリア遠征
アテナイとスパルタ間の戦争であるペロポネソス戦争にて、アテナイが空前の規模の軍隊をシチリアに送り、大敗する。
歴史家のトゥキュディデスが、この点を指摘する。
この戦争を支持したのは民衆であった。
このとき、圧倒的な指導力をもった人がおらず、時の指導者たちが民衆に迎合していた。
その場しのぎの感情で動いた結果、勝てる見込みのない戦争に赴いてしまった。
27:06 - ソクラテスの処刑
ソクラテスは「無知の知」といって、問答法を用い、あらゆる知識者たちを論破していった。
その結果、変な考えで民衆を煽動したという罪で死刑となった。
それを見たプラトンが、賢いソクラテスを処刑する民衆を否定し、哲人政治を唱えるきっかけとなった。
これらの事例のように、特にインテリ層から、民主主義に対する指摘がされていた。
古代ギリシアの哲学者による民主主義への意見
29:27 - アリストテレスの意見
アリストテレスは政治形態の堕落について、以下のように言った。
支配体制には、民主政、貴族政、独裁政がある。
それぞれに腐敗した形態がある。
独裁政は僭主政になる。
貴族政は寡頭政になる。
民主政は衆愚政になる。
それぞれ、統治にあたる人間が、公共の利益ではなく、私的な利益に突き動かされることによって堕落していく。
これらの堕落形態の中で最も悪いものが、僭主独裁政であるとした。
その次に悪いのが寡頭政。
一番ましなのは衆愚政である。
さらに、アリストテレスは民主政に対して、以下のメリットを提示した。
一人の人は優れた人間とは言えないが、全員が集まれば、少数の人よりも、個人としてではなく全体として勝ることが合っても良い。
専門家でなくとも正しい判断はできる。
家の良し悪しの判断は、それを立てた者だけでなく、それを使う者も判断が出来るのではないか。
32:15 - プラトンの意見
プラトンは民主主義に対して批判的であった。
多数者の決定だからといって正しいとは限らない。
政治家は自らが道徳的であるだけでなく、人々を道徳的に陶冶(とうや)していく力を持つべきである。
そのようなことは、哲人という、非常に能力の高い人でないとなし得ない。
さらに、プラトンはオス蜂を例に挙げて、民主主義を批判した。
オス蜂は、貴族政の世では、役立たずでフラフラしている。
しかし、民主政の世になると、いきなり元気になって勢力を拡大する。
オス蜂は針をもっていないが、時に針をもったオス蜂が登場する。
そのオス蜂が演説を頻繁に行う、他のオス蜂はその演壇の周りに集まってブンブンとやかましく同調する。
民主政においては、ほとんどあらゆる事柄は、このような種族によって管理されてしまう。
このオス蜂は金持ち階級に群がって、そこから蜜をすすり、民衆という働き蜂たちを煽動し、物事を駄目にしていくのだ。
古代ギリシアの民主主義の衰退と復活
34:37 - アテナイの民主主義の衰退と復活
シチリア遠征の後、旧貴族派が巻き返していった。
ペロポネソス戦争に勝利したスパルタが敷いた政治体制が寡頭政を行った。
しかし、その後、民主政が復活した。
寡頭派と民主派とで和解し、報復をしないことを約束し、民会や民衆裁判所で議論を行い、改めて民主主義の原則と意義を確認し、法の地位を確立した。
民会の決議と、法を分けて考えることとし、ここで民主主義を新たに行うこととした。
ここから再度、民主主義が発展していった。
36:13 - 違法提案に対する控訴の仕組み
違法提案に対する控訴「グラフェパラノモン」という概念が出来上がる。
民会や評議会で法に反する提案がなされたと判断できる場合には、その提案者を告発することができる。
すると議案は廃案になり、決議は失効する。
現代でいうところの、違憲立法審査権に該当する。
当時、憲法に該当するものはなかったが、憲法のような働きがあった。
民会の決議を牽制するものとして機能していた。
37:29 - アテナイの滅亡
アレクサンドロスによって滅ぼされ、帝政の配下となり、アテナイの民主政が終了する。
古代ギリシアの民主主義のまとめ
38:03 - アテナイの民主政のまとめ
アテナイでは、支配者の座につく個人の存在を許さなかった。
評議会の任期は1年であり、長期間にわたって権力を保持する人が出ないようにしていた。
たまたま権力が委ねられた人がいても、その権力の行使に際しても、違憲立法審査権に該当する仕組みや陶片追放が独裁専制を抑制していた。
弾劾裁判もあるため、遡って追求されることもある。
誰もが政治に参加することが出来るが、一旦公職者となった際には、責任という概念が強く存在していた。
そのような環境に自らを置いていたのがアテナイの市民であったと言える。
39:40 - 次回:古代ローマ
ローマにて共和制が出てくる。
アテナイの民主政とローマの共和制の違いも説明する。
ローマが滅んだ後、ヨーロッパ世界は王政・帝政となるが、その中でイタリアでは共和制の国も出てくる。
COTEN RADIO 民主主義の歴史編の他の回
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