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6. 大学生の私 後編

他人の手を借りたわたし

中学生の吹奏楽部部長時代から、人とコミュニケーションをとるには笑顔で、相手の表情や言動の意図を細かく探り、こちらがどう出るべきかを考え続けなければならないということを学び実践してきた私は、他者とのコミュニケーションで著しく疲弊するようになっていた。

サークルの飲み会は集中を絶やせない。コミュニケーションの前に、目の前で話す相手のことばを見失いがちなのである。
学生御用達の大衆居酒屋での飲み会、他のグループ客もいる騒々しい環境、大きなテーブル席についた仲間たち。持論や世間話を繰り広げる人間がそこかしこといる。そんな中から、目の前で話す人間のことばを抽出して聞き取ることが難しかった。
目の前で話す相手の声も、左に数席離れた場所で話す友人の声も、右奥で話す見ず知らずの客の声も同じ音量で聞こえるのである。食器のカチャカチャという音や、扉を開けるガチャリというただその一瞬の音に、全ては飲み込まれる。「ことば」を抽出して、かつ意味を理解し感情を推察しながらの会話というものは、私にとって重労働であった。

そんな具合なので、離れたところに座る友人の笑い話に沈黙が流れると、私はすかさず笑ってことばを返したりもした。そんなことをするもんだから、「冴空はいつも気づいてくれて凄いね、嬉しい」と評価されたことがある。

鮮やかな絵の具を何十も混ぜた黒とも言えない眉を顰めたくなるような色の、どろどろとしたそれに足元をとられ背中から圧し掛かられてからは、コミュニケーションの疲労が大きくなった。それまで感じたこともなかった疲れを背負って帰宅し、数日から数週間寝込むようになった。

2017年、3回目の4年生を迎えた私は、大学の保健センターに通うようになった。
いつもにこやかに、それでいて厚かましくもなく適度な距離感で接してくれる看護師Rさんが、「講義室よりも保健センターの方が来やすいようであれば、ここに一旦顔を出して休んでいいよ」と言ってくれたのがきっかけだった。
そして、Rさんの計らいにより大学の障害者支援を受けることになった。それまで障害者支援は、車いす利用者や目が不自由など、身体障害のある学生だけが利用するものと勘違いしていた私にとって、精神疾患のある学生にも寄り添ってくれることは思いがけないことであった。
講師のYさんが私の担当になった。多くの学生が集う閉鎖空間という集団講義を苦手とし、板書と口頭説明を同時に読み取れない私のために、Yさんはその年に私が受講する全ての講義の教授に、講義中に息苦しくなって退出することがあること、聴覚情報に弱いので講義を録音させて欲しいことを書面にまとめて送ってくれた。スケジュールを立てることが難しくなっていた私のために、週に一度、一週間分の表を印刷して来て、計画を立てるのを手伝ってくれた。

大学に行くのではなく、Rさんに「今日の調子はまぁまぁです」と言いに行く。講義室に行けない時は保健センターの空いている部屋で勉強する。学生でごった返している食堂にはとてもではないが入れないので、保健センターか、人の少ないトイレの個室でお弁当を食べる。
少しずつではあったが、RさんやYさんのお陰で新しい生活リズムが身についていった。

音楽とわたし

教育大のオーケストラサークルを2015年5月に卒団していた私は、音楽に飢えていた。当時住んでいた街にある他大学オーケストラサークルの部員と交流のあった私は、教育大とは異なる雰囲気のそのサークルに興味があった。友人や後輩に相談し、私はそのサークルに入団した。
オーケストラの管楽器というポジションは一曲あたりを担当する人数が少ない。他の部員よりも幾分か歳を重ねた私は、若い部員の邪魔者になりかねない状況での入団に不安があった。その不安を拭うように、クラリネットパートのメンバーは私を優しく迎え入れてくれた。あの時感じた嬉しさと、その当時のメンバーを忘れることはないだろう。

このオーケストラサークルでの活動は、私という植物に酸素と水分を巡らせてくれているようであった。悪巧みに全力で知識を放り込むような人間が多かった。それが楽しかった。3言ったことを10や100で返してくる。自分の知らない世界を、知識を見せてくれる。
毎日が新鮮で刺激的だった。

退学と編入学

前年に比べれば単位を取得出来たものの、休学と復学を繰り返した代償は大きく、最大在籍年数である8年間での卒業目処が立たなくなってしまった。最後まで見守ってくれたRさんYさん、そして入学当初から気にかけてくださっていた学科の教授に申し訳ない気持ちを抱えながら、私は2018年3月に教育大学を退学した。研究室の教授は、とても暖かく送り出してくれた。何も残せなかった私に、今後の活躍を楽しみにしています、と言ってくださった。

退学に踏み切る前に、私は次の手を打っていた。通信制大学への編入である。
そうまでして大学に通い続けようと考えたのは、母親の「自分は大学に行きたくても行かせてもらえなかったから、あんたには大学に行って欲しい」という言葉を完遂しなければならないと感じていたからである。母親に対して不信感を持ち始めていたものの、「私は母親の願望を実行する媒体なのだ」という思いを拭いきれてはいなかった。自分への自信を失った私は、他者の犠牲になることで私という人間の存在を許そうとしていた。

通信制大学へ3年次編入した私は、当初目指していた心理学の道へ進んだ。苦しみ悩む自分のヒントを得たいという欲望もあった。通学という呪縛から解き放たれ、足取りの遅さはあったものの、自由な時間に勉学を進めることの出来る通信というシステムのおかげで単位を取得出来るようになった。

それまで続いていなかったアルバイトも、初めて継続出来た。順調な学業にサークル活動、アルバイト。久しぶりにちゃんと息をしているような気がした。

就職活動とわたし

2019年、卒業を見越して就職活動をした。友人の後押しであった。
元々、否、現在も就職活動そのものに嫌悪感を抱いている。個性を取り払った真っ黒なスーツに白いシャツ、みな同じような髪型をして整列するその姿に不快感を覚えた。企業に媚を売っているようにも見えて仕方がなかった。

完璧主義の母親によってマナーを叩きこまれている私は、TPOを弁えているつもりだ。就職活動というものは学生の時期にあり、まだその企業に所属しているわけではない。それにも関わらず、面接に向かう企業の求める容姿にして、具体的にはその企業の求める髪の色、例えば黒やダークブラウンにして向かわなければならないことが理解出来なかった。
私にとって染髪やボディーピアスは、もはや体の一部という認識なのである。その一回限りの面接のために変更出来るものではない。
赤い髪や青い髪をしていても、フケの出ないよう洗い、櫛で整え綺麗に結え、体を清潔にしてアイロンで皴をのばしたパリッとしたシャツにスーツを着て、汚れを落とし磨いた靴にかっちりとした鞄を持てばいいではないか。それが面接に相応しい、TPOを弁えた容姿ではないのだろうか。
容姿に関する規則のある企業に所属してしまえばそれを遵守するのは当たり前である。こんな私でも、そのような企業に属すればそれに従う。
だがしかし、それは企業に属す人間に適応されるルールであって、まだ所属していない私に適応されるのはおかしいと感じていた。そんなこともあって、就職活動はしないだろうと思っていた。

デザインやものづくりに関わる仕事をしたくとも、それに関わる大学に属さなかった私は募集要項に満たないだろうと諦めていた。友人の後押しから、未経験の私でも受けることの出来る企業があるということを知り、毛嫌いしていた就職活動をしてみることにした。調べてみると、意外にも面接時の服装自由な企業が複数あった。

比較的明るい心持で面接や実技試験を受け順調に進んでいたものの、全ての企業で2、3回目、もしくは最終面接時に落ちてしまった。決まって精神疾患の話をした後であった。
諦めずに新たな企業を探して受けてはお祈りされる日々(※)を繰り返したものの、約半年経つ頃には力尽きてしまった。私に就職など向いていないのだと、この社会で生きる資格などないのだと、完全に自信喪失してしまった。
また、就職活動に専念している間は学業を進められず、単位不足で卒業延期した。就職が決まらずにかえって良かったのかもしれない、と自分に言い聞かせた。
※ 選考に落ちると「貴殿の今後のご活躍をお祈り申し上げます」という内容のメールや手紙が届くことから、就職活動で選考に落ちることを「お祈りされる」と言う風潮がある

望月家とわたし

2020年、アパートの家賃を親に支払ってもらっていた私に、母親は帰ってきて欲しいと言った。
「離婚するから帰ってきて」と私に言った。確かにそう聞いたのだ。

家賃を払ってもらっている以上、我儘を言うことの出来ない私は1ヶ月足らずのうちに引っ越し日程を決められ、慌ただしく実家に帰った。父親のいない実家は、中学生の頃を想起させた。

口を開けば父親の愚痴ばかり言う母親が離婚の選択肢を選ばないことが理解出来ず、何故離婚しないのか、と事あるごとに聞いていた私は、実家に引っ越して数日経った頃に「離婚できたんだね」と何気なく言った。「離婚?してないよ」という予想外の返答に、耳を疑った。

「離婚なんて出来ない、お父さんには違うところに引っ越してもらったの、あんたのために」
またしても私のためにという言葉が母親の口から出た。今度ばかりは驚きや悲しみ、疑いを通り越して呆れてしまった。この母親という生物は、どこまでも自分都合に他人の思考まで捻じ曲げて理想を押し付けて来るのだ。
母親と父親の仲違いを見たくない、母親自身に関する文句を何ひとつ言わない父親に対して、嫌だ嫌だと泣きわめく母親に「そこまで言うなら離れてしまった方が楽なのでは」と考える私の思いなど届いてはいなかったのだ。
「実家に帰ってくると毎回父親と話さない娘のために、父親を遠ざけてあげた」娘思いの母親を演じきっていたのだ。

様変わりした世界とわたし

この頃、世間は新型コロナウイルスに弄ばれる世界となったが、私は新しいアルバイトを始めた。
常連のお客さんと共にお酒を飲みながら会話をするスナック。表面だけ取り繕った感染症対策に嫌気が差した。
お客さんは当然お酒を飲むためにマスクを外す。従業員の女性スタッフに「顔見せてよ」とマスクを外すことを促す客。当たり前のようにマスクもフェイスシールドも無しに会話する客とスタッフ。カラオケをするときはフェイスシールドお願いしてるんです、と渡した、飛沫が周囲に飛ぶことを防ぐ透明の薄い板をぐいと押し上げながら熱唱する常連。客同士の距離なんて開けられないくらい狭く、換気のしづらい店内。換気を忘れられた営業時間。神経質な私は3日と持たなかった。休むとも、辞めるとも連絡を入れないまま、私はその店に出勤出来なくなった。

感染症対策の甘さは母親にも見受けられた。幼少期にあれほど手洗いうがいを私にしつけてきた母親が、帰宅時の手洗いを疎かにしていることが何より理解できなかった。近所ならマスクをせずに出掛けてしまう。一番大きなストレスは、共にスーパーへ食材の買い物へ行く時だった。
入店時に手先の消毒を忘れる。むやみやたらと商品を触る。購入する商品ならともかく、買いもしない商品を触る。見えないから目の前に持ってくるわけでもなく、とにかく触りながら話す。感染症の蔓延を国民全員が一丸となって阻止しなければならない時に、それを怠る姿勢が理解出来なかった。
「こういうご時世だから、無暗に触らない方がいいのではないか」という私の言葉に、母親は露骨にイライラしてみせた。

スナックや母親、SNSでひっきりなしに目にする感染症対策の甘い人々の行動の数々が理解出来なかった私は、次第に無気力になり自室に引きこもって寝込んでしまう日が増えた。ウイルスよりも、理解できない行動を取る人間の方が余程怖かった。

2020年11月。アルバイトもサークル活動も無い私は、ようやく学業に専念するキャパシティーを得た。
最後に必修の科目が残った。後回し癖のある何とも私らしい結末である。
自分を焚きつけるために、教育大時代の友人二人に連絡をした。レポートの進捗をその友人たちに報告させてもらうことで、何が何でも終わらせようとしたのである。結果、最後に残されたその必修科目の最終レポートは、友人への報告を開始してからあっという間に終わった。
卒業に必要な単位数を取得するまで、9年の時が経っていた。

2012年に大学へ進学し、2016年の卒業予定から待ち焦がれていた「学士」の文字。
大きく膨らんだ期待に反して、なんだかその文字は小さく見えた。

いまを生きるわたし

現在は、初診を受けた精神科に再び通院している。
当時は言われなかった「手帳申請してみる?」という医者のことばに安堵した自分がいることに内心驚いた。発達障害や双極性障害を受け入れ始めているのかもしれない。
障害者手帳のある生活は新鮮で、普通料金を払ってきた公共交通機関が割引になったり、美術館に無料で入れたりと申し訳ない気持ちにもなる。

障害年金の申請をするために、「病歴・就労状況等申立書」というものを提出する必要があった。その紙には日常生活能力に加え、障害が発生してから現在までの症状や生活状況を記述式で書く欄がある。発達障害を持つ私の症状は出生時からということになるので、生まれてから現在までの27年間を事細かに振り返らなければならなかった。
それが、このnoteに記す『どうやら学士取得に9年もかかった人間がいるらしい』を執筆したきっかけである。

終わりに

おかえりなさい。望月冴空の27年間の人生を覗く旅はいかがでしたか。

これを読んでいるあなたがどういう人物なのか、どういう人生を歩んでいるのか、どんな気持ちでここに辿り着いたのか、私は知る由もありません。私や他の誰しもがあなたの人生に介入することも、代わりに歩むことも出来ません。

あなたの人生はあなたにしか辿ることの出来ない、とっておきの旅行プランです。

それにどんな観光やグルメという名の、他者やエピソードを盛り込むかはあなた次第。誰かにとっては退屈、はたまた刺激的すぎる旅行でも、あなたにとって楽しくて掛け替えのない時間が送れたなら、とっても素敵だと私は思います。

それでは、あなたの人生旅行の続きへ。
いってらっしゃい。


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書籍紹介

塞ぎ込んでいる時に買ったり貰ったりした、強烈な内容のエッセイコミック。どちらもなんとなく「あ~わかるなぁ…」と共感する部分がある。

ペス山ポピー『泣くまでボコられてはじめて恋に落ちました。』(2018, 新潮社)

永田カビ『一人交換日記』(2016, 小学館)


寒くて苦しくて涙が出そうな夜に、ほっと一息つくために読んでいるコミック

青桐ナツ『flat』(2008-2014, マッグガーデン)

堀田きいち『君と僕。』(2005-2015, スクエア・エニックス)


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『9年かけて大卒を手に入れた人間の話』
目次
どうやら学士取得に9年もかかった人間がいるらしい
どうやら大きな荷物を持って生まれてきたらしい
その人間の人生旅行へ続く搭乗口
 1. 就学前の私
 2. 小学生の私
 3. 中学生の私
 4. 高校生の私
 5. 大学生の私 前編
 6. 大学生の私 後編

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