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3. 中学生の私


1年生のわたし

中学生になった私は、ひとつだけ頭の中で引っかかっていることがあった。制服である。
私服登校の公立小学校で6年間のほとんどをズボンで過ごしてきた私は、毎日スカートであることが想像出来なかった。けれど強い不快感があるわけでもなく、ただ何となく、それでも確実にある違和感をそっと胸の隅に追いやった。

駄目と言われていること、決まり事を破る行為が許せない、少しばかり偏屈な正義感を持つ私は、3年間代議委員を務めた。1年生の頃の成績は、7クラスある学年の中で常に10番前後だった。先生からの信頼も得ていた。

私の通った学校は、普通の地方公立中学だった。教師の指導をきちんと守る生徒もいれば、問題行動を起こす生徒もいた。私の学年は後者の多い、「問題のある学年」だった。
我慢ならなかった。

学校という場は、集団行動、連帯責任が求められているひとつの国家のように見えた。己の私利私欲のために、たとえその場では他の生徒を巻き込んでいなかったとしても、学年集会で全員が先生から叱られることが分かりきっているにも関わらず、何度も何度も問題行動を起こす人間に心底腹が立った。
トイレのモップが燃えている、と言われて集められ、プールに花瓶を投げ入れた生徒がいる、と言われて体育館の板張りの上に体操座りをした。関係のない生徒がきちんと座って話を聞く中、当の本人たちが崩した制服で胡座をかいていた。
我慢ならなかった。

そんな「我慢ならない」ことを代議委員である私が責任をもってどうにかしなければならないと感じていた。けれど、どう呼びかければいいのかわからなかった当時の私は、よく怒鳴り散らしていた。
普段大人しい、鉄仮面(※1)のあだ名すらついていた優等生の私がいきなり口の悪い地方方言で怒鳴るので、クラスメイトは驚いただろう。それでも、それしか方法を知らなかったのだ。感情に任せて声を荒げることしか出来なかった。
(※1 鉄仮面とは厚顔無恥のことを指すが、冷徹、怖いという意味合いで使われていた)

制服を着崩さない、休み時間もひとりで本を読んでいた私は、スクールカーストの下の方にいるような、ちょっとおどおどした生徒とグループを組まれることが多かった。
話が合うわけでもないクラスメイトとグループワークで当たり障りのない会話をした。スクールカースト上位の人間からは、私もこのクラスメイトたちと同じ下位の人間に見られているのかと思うと、不愉快であった。

小学校でクラリネットをはじめ、すでに楽器を持っていた私は迷うことなく吹奏楽部へ入部した。
スクールカーストの存在に気づき始めた私は、上位層の部員と仲良くする必要性を感じた。弱者でありたくはなかった。
話題を合わせるために、興味もなかったバラエティー番組やドラマを視聴し、「芸能人で誰が好き?」という定番質問の答えも考えた。
友だち同士で可愛らしいメモ紙に手紙を書いて渡す文化もあった。見よう見まねでギャル文字を書いた。

女子というのは何故恋バナをしたがるのだろうか。
人並な恋心をひっそりと持っていた私は、恋バナで促されるがままに、少しばかり気になっていた男子生徒から次第に目が離せないようになっていた。
積極的に話しかけもした。駆け引きなんて高等技術は持ち合わせていない。きっと恋心はばればれだっただろう。
何かのタイミングで、友人に「告白しなよ」と背中を押された。告白したこともされたこともない私の一大イベントを焚きつけられてしまったのだ。
手紙を書いた。はじめて、震える手で恋心をしたためた。結局は失恋に終わったのだが、それ自体は辛くなかった。振られた理由が不味かった。

曲がったことが嫌いで、正義感が強くて、優等生を演じていた私への告白の返事は「真面目なやつ嫌いなんだよね」だった。
このことばをきっかけに、真面目をやめようとする真面目な私の日々が始まった。


2年生のわたし


真面目をやめる努力は私にとってとても難しいことであった。何しろ決まり事を破ることが出来ないので、制服を着崩すなんて考えられなかった。
考えられないなりに、ブレザータイプの冬服で着用する深紅の細い棒タイのリボンの輪を小さく結んだ。上級生にしか許されていない結び方である。夏服の吊りスカートに入れて着るポロシャツの前を緩くした。靴下を短めのものに変えた。そんな小さな、着崩しと呼ぶのかわからない程度の着崩しをしていた。

授業中にお絵かきもした。
手紙を友人に回したりもした。
その場で課せられた課題を終わらせ、内容理解が出来ていればあとは退屈な時間なのだから、その時間を好きに使うことくらい良かろう、と思っていた。

そして、真面目をやめようとする真面目な私を突き刺す社会問題が起こった。
いじめである。

当時、社会的問題として頻繁に取り上げられるようになった「いじめ」を、ニュース番組や新聞でよく目にした。自分は被害者でも加害者でもない。けれど、「いじめ」というキーワードが目に入った瞬間、同級生の強者が弱者を無下に扱う様が鮮明に脳内を駆け巡った。

そもそも、「いじめ」というものが理解できなかった。何かに取り憑かれたように、私は朝日新聞のコラムをノートにまとめるようになった。
著名人による「いじめられた君へ」「いじめている君へ」というコーナー。読んでも読んでもわからなかった。ただ悲しかった。私が能天気に生きているこの世界のどこかで、いや、もしかするとすぐ傍で起きていることが、そして私にはどうすることも出来ないそれが、重く圧し掛かってきた。

いじめられてもいない、いじめてもいない私は、「いじめ」という事象を受け止められなかった。玄関を出ようとすると、吐き気がして足がすくんだ。終いには学校に行けなくなった。

部活を休んでいる場合でもなく、数日休んで登校してはまた休むような日を繰り返していた私に、突然学年主任が重たそうな紙袋を持ってきた。貸すから読め、という言葉と共に渡されたその紙袋には、『風の谷のナウシカ』が整列していた。

この一連の経験は、「社会で起こる理解出来ない現象に気持ちが滅入ってしまい自宅を出られなくなる」初めての出来事だった。


当時の吹奏楽部に、私は物足りなさを感じていた。そして表現力に乏しい自分の演奏技術は、己の勉強不足が原因だろうとも思っていた。
吹奏楽では、オーケストラを吹奏楽アレンジされた曲も取り扱う。また、私の演奏するクラリネットは、オーケストラでいうヴァイオリンだとも言われる。

オーケストラを積極的に聴いたことすらなかった私は、「オーケストラを知らずして吹奏楽編曲作品を演奏しても、本来の良さは出せないのではないか」という考えを抱き、ジュニアオーケストラの門を叩いた。

所属したジュニアオーケストラには、地元の中学高校吹奏楽部選りすぐりの管楽器奏者が揃っていた。吹奏楽を始めた頃のようなきらきらと輝く音が、刺激がそこには溢れていた。
吹奏楽に活かすために所属したこのオーケストラでの経験が、この後私の音楽人生を大きく変えることとなる。


3年生のわたし


3年生になり、吹奏楽部の部長に就いた。同級生満場一致での決定。大変誇らしかった。
コミュニケーションが苦手で、特に自ら他人に話しかけに行くことが出来なかったが私は、部長という人を束ねる役職に就いたことで、自分を変える責務を感じた。
積極的に部員、特に後輩に声をかけ、場を盛り上げようとした。冷徹という意味を込めた鉄仮面というあだ名がついていた程笑うことが苦手だった私は、笑顔で会話することに気を付けた。
その甲斐あってか、演奏技術を高く評価してもらえることも相まって、後輩がよく慕ってくれた。後輩から尊敬される格好良い先輩を演じた。

考えていることが変わりがちで、いや、この事件まではそれすら気づいていなかったことだが、とにかくそのことで部員と揉めたことがある。
当時、部長とパートリーダーの兼任は大変だろうという顧問の配慮により、クラリネットのパートリーダーは私ではない他の部員が務めていた。そのパートリーダーと、練習方針の食い違いで揉めてしまった際、「毎回言っていることが違う」と指摘されたのだ。思ってもみなかったことに驚いた。どうやら自分はころころと考えが変わるらしかった。

「真面目な奴は嫌い」と言われて失恋した私に、はじめての恋人が出来た。Aと呼ぶことにしよう。
同級生であるAとの出会いは最悪だった。何しろ、良い噂を何一つ聞かなかったのだ。
絶対に関わらないようにしようと心に決めた人物だった。

実際話してみると、悪い噂とは違う人間がそこにいた。真面目、怖い、冷たいという評価しか受けない、顔の造形も大して整っていない私に、可愛いと言った。部活動に励む私に、よく頑張ってるねとも言ってくれた。外面を必死に取り繕って、けれど実は甘やかされたいのだという本心を見透かされているようだった。

付き合うことになるまで、トントン拍子だったように思う。好きな本の話で打ち解け、話が弾み、気づけば「付き合う?」と確認しあっていた。令和の時代には懐かしい、二つ折りの携帯電話でやり取りしていた。

私の人生で初めての恋人は、同性だった。
性行為に興味津々の多感な頃である。悪いことをしているような背徳感が、鼓動を速めた。

私の母親は、偏見を持ちやすい性格だった。
彼女だ、という紹介をしたことはなかったが、なんとなく察していただろう母親は、同性同士の恋路に良い顔をしなかった。

恋人のAは、赤面してしまいそうなくらい私のことをよく褒めてくれた。美しい、という言葉も使った。
「美しい、という言葉を使うのは部落の人間だ」
私の絶対的存在であった母親から、耳を疑う言葉が出た。これだけではない、テレビ番組を見ていても、私の話を聞いている時でも、思い返せば差別的な言動を母親は頻繁に口にしていた。
その度、母親への不信感が大きくなっていった。
不信感は抱きつつも、母親の意見が絶対であった私は、高校卒業後は大学へ進学し、薬剤師になると決めていた。母親の希望だった。

目の前にやりたいことがあると、それしか見えなくなる。優先順位を立てられない。それが私の悪い癖である。
中学3年という、高校受験の大事な時期。3年生がほとんど部活動を引退した中、受験寸前まで部活動に明け暮れ、勉強は手につかなかった。当然のように志望校は落ちた。


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書籍・ウェブページ紹介

当時読んでいたコラムの電子版
朝日新聞『いじめと君』

調べてみると、一冊の本になったようです
『完全版 いじめられている君へ いじめている君へ いじめを見ている君へ』(2012, 朝日新聞出版)


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『9年かけて大卒を手に入れた人間の話』
目次
どうやら学士取得に9年もかった人間がいるらしい
どうやら大きな荷物を持って生まれてきたらしい
その人間の人生旅行へ続く搭乗口
 1. 就学前の私
 2. 小学生の私
 3. 中学生の私
 4. 高校生の私
 5. 大学生の私 前編
 6. 大学生の私 後編

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