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4. 高校生の私

1年生のわたし

2009年、高校受験に失敗した私は、家から近いという理由だけで滑り止め受験していた私立高校に通うこととなった。
国立公立大学進学を目指すと謳った特進クラス。進学校とは名ばかりの、退屈な授業だった。

制服はブレザーに3色のシャツとリボン。リボンの色を選べたことがスカートの苦痛を和らげた。
多くの女子生徒が赤いリボンを選ぶ中、私は男子生徒のネクタイと同じ緑のリボンで登校した。擬似的にでも、少しだけ男という生物に近づけた気がして嬉しかった。

授業中に暇を持て余した私は、お絵かきや内職(※1)が次第にエスカレートしていった。その場で指示された課題をこなしていれば文句のつけようはあるまい、と考えていた。
教師の話を聞きノートを綺麗にまとめ、指定された問題を解き、机いっぱいに色鉛筆を広げて画用紙に絵を描いた。自主的に受験していた数学技能検定の勉強をした。
学級委員を務める優等生を継続していた私は、定期試験を毎回学年3位以内におさめていたこともあり、授業中の態度を強く注意する教員は少なかった。成績を保ち続けた結果、3年間特待生に選ばれた。

男子校から共学になったばかりの高校。約20人の特進クラスに、女子生徒は私を含めて3人しかいなかった。読み方が二通りある実名は、授与式で毎回読み間違えられた。

この高校には吹奏楽部がなかった。いや、吹奏楽部と呼べるのかわからない規模の吹奏楽部があった。理科室で練習していた。
ジュニアオーケストラでの活動が充実していた私は、軽音楽部に入った。吹奏楽ともオーケストラとも違う音楽に触れてみたかった。

ドラムを志望した。鍵盤打楽器やフロアタム、バスドラムなら経験があったが、ドラムは初めてだった。
全身を使って鼓動を揺さぶるようなリズムを刻むドラマーに憧れた。

結局、ドラムは疎か軽音楽部自体をすぐに辞めてしまった。学習机にスティックを叩きつけてひたすらメトロノームと対峙する課題を達成するまで、ドラムを触る許可が下りない。飽き性の私が音を上げるまで、そう時間はかからなかった。
代わりに、当時部員のいなかったキーボードを担当した。キーボードのある曲を演奏したくとも出来なかった顧問は大層喜んでいるようだった。
軽音楽部を辞めた後もキーボードの部員が現れるまでは度々イベント演奏に手伝いで呼ばれた。

軽音楽部を辞めたのは、目標が出来た故であった。クラリネットを極めようと思ったのだ。クラリネットで音楽大学を目指し、オーケストラのプロ奏者や警察の音楽隊に入りたいと願った。
そうと決まればゆっくりしている場合ではなく、レッスンに通ったことのなかった私はすぐにクラリネットの先生を探した。休んでいたピアノのレッスンも再開した。楽典の勉強も始めた。やることは山積みだった。

2年生のわたし


2年生に上がり、嫌々通っていたこの学校も好きかもしれないと思うようになった。
自由人の多い教室が心地よかった。過干渉してくることはない、けれど用があれば親しく話す、そんな近くも遠くもない人間関係が丁度よかった。バレンタインの義理チョコも渡しあった。

母親の希望である薬剤師を目指すことはまだ選択肢として残っていた。国語も英語も得意でない、数学や理科が好きだった私は迷わず理系コースに進んだ。

真面目で完璧主義であった私は、定期考査に向けた試験勉強の内容を毎回みっちりと組んでいた。
試験を受けるまでにやることを、内容に加えて時間まで定めてこなしていた。試験範囲の問題を全て正解するまで繰り返し解いた。問題と答えを丸暗記してしまう程だった。

それまでは上手くいっていたが、その日は上手くいかなかった。

結局、試験当日までに自分で決めた勉強内容を終えられなかった私は、パニック状態に陥り吐き気が治まらず登校出来なかった。勉強を終えられていないことで「満足に試験が解けない、十分な成績を残せない」と感じ、それが分かった上で受験することが考えられなかった。
「常に正解を導き出す優等生の私」を自ら崩しに行くことが出来なかった。

試験を受けられなかったその一件をきっかけに登校出来ない日が増えた。
ストレスを感じると食事が喉を通らなくなった。二段弁当はおかゆに変わった。毎日胃薬を飲んだ。這うようにして登校した日は保健室に籠った。

他人の視線が怖かった。特別秀でてもいない自分のことなんか誰も見ちゃいない、気に止めてなんかいやしないだろうに、あいつは劣等な人間だと笑われているように感じた。他人の視線を怖れた私は教室に入れなかった。

大好きな数学の先生が、「お前なら自分で出来るだろ」と授業で進んだ教科書の範囲を、保健室登校する私へ教えに来てくれた。元々集団授業が苦手であった私にとって、その時間は気楽だった。自習が楽しかった。

3年生のわたし

文化祭実行委員になった私は、高校最後の文化祭で模擬店を出す準備をしていた。
クラスからテントを出すことは禁止されていたから、クラスメイトの所属する演劇部の出店ということにした。その部員たちを自宅に招いてメニューを試作したり、担任に車を出してもらって買い出しに行ったりした。クラスメイトの女子はその中にいなかった。男子生徒と共に馬鹿なことを考えながらひとつの店を作り上げることが心底楽しかった。

この頃になると、この学校に進学して良かったと考えるようになっていた。与えられた課題をこなしていれば自由にさせてもらえる空間が、男子生徒の多いこの学級が気楽だった。

嫌なこともあった。完璧主義で試験を受けられずに登校が難しくなった私は、課題を突然追加されることが苦手だった。
既に組んでしまったスケジュールを乱されることに腹を立てた。臨機応変に対応することが出来ず、混乱するからだ。

進路を明確にしていく段階に入り、薬剤師ではなく音楽家を目指すことに的を絞った私は、文系コースに転向した。数学も理科も必要ではなくなってしまった。

一方で、音大を目指していた私のレッスンは難航していた。
ピアノは副科(※2)だったこともあり問題なかった。一番重要なクラリネットの技量がそぐわなかった。レッスンに行く度「そんなんじゃ受からないよ」と言われた。
言葉を鵜呑みにして跳ね返す力のなかった私は、「自分は音大に行ける人材ではない」と感じ、音楽の道を諦めた。

受験を目の前にして目指す先を失ってしまった私は悩んだ。
自分にはやりたいことがない、ということを突き付けられた瞬間だった。
幼少期から空想や妄想に勤しみがちだった私は、人間の思考に大変興味があった。行動心理を学べるところへ進もうと決意した。

ジュニアオーケストラも卒団し、受験に向けて勉強に打ち込む最中、認知症で介護していた祖母が亡くなった。人の死に直面するのは幼稚園児以来だった。

学校から帰ってくると、老人ホームにいたはずの祖母が家に居た。縦長の箱に横たわって、体を綺麗に拭われているところだった。
祖母を敬愛していた母親は、驚くほど穏やかな顔をしていた。

葬式で、認知症の祖母に酷く当たってしまったこと、認知症になる前の活発だった祖母を思い出した私は涙を流した。そんな私を見て、隣にいた父親は「なんでお前が泣くんだ」と笑った。

小学6年生の頃から単身赴任中だった父親は会社勤めだった。その会社が他社と合併したことをきっかけに、父親は心労を抱え退職し、母親と私の住む家に帰ってきた。思春期を共に過ごしていない父親が毎日同じ屋根の下にいる。少しばかり元気を失くした父親が、知らないおじさんに見えた。
この知らないおじさんと私は果たしてどのように過ごしていたのか思い出せなかった。コミュニケーションの取り方がお互いわからないまま、会話は次第に減った。

令和の時代には大学入学共通テストとなったらしい、大学入試センター試験。目標としていた大学を受験するには点数が足りなかった。
母親からの「あんたに浪人は向いてない」という言葉もあり、志望校を変更することにした。音楽でも心理学でもない、それまで聞いたことがなかった国際系の学科に進学した。国立か公立大学に進みなさい、という母親の希望だけは守った。

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【注釈】
※1 宿題や、授業とは関係のない勉強をすること
※2 専攻する楽器の他に、ピアノや声楽の実技試験のある学校が多い
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曲紹介

ジュニアオーケストラのスプリングコンサートで演奏した思い出の一曲。受験で挫けそうな時、度々聴いていた
シューベルト/八重奏曲 ヘ長調 D803
(リンクはYouTube。Internationaal Kamermuziek Festival Utrecht 2015のオープニング演奏。推しクラリネット奏者)


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『9年かけて大卒を手に入れた人間の話』
目次
どうやら学士取得に9年もかった人間がいるらしい
どうやら大きな荷物を持って生まれてきたらしい
その人間の人生旅行へ続く搭乗口
 1. 就学前の私
 2. 小学生の私
 3. 中学生の私
 4. 高校生の私
 5. 大学生の私 前編
 6. 大学生の私 後編

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