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【短編小説】一億総ヒットマン政策

・あらすじ
 ある日、転職先に向かう為空港に来ていた主人公は、飛行機が飛ばない事にクレームをつける客を見かける。面倒事は避けたいと無視して出発しようとした矢先、空港にいた他の客が一斉に「空港が封鎖された」と騒ぎ始めた。
 皆が見ていた携帯電話の画面には、総理大臣による会見映像。そこで総理は「公開殺人」と「一億総ヒットマン政策」を行った。訳も分からないまま、「政治家を殺せば三百万円」の報酬に踊らされる国で、日常を取り戻したいと願う主人公。総理について調べ、抱いた小さな違和感を胸に、狂ってしまった日常を元に戻そうと総理官邸に足を運ぶ。その結果や如何に。

この話は全てフィクションです。実在する人物・団体とは一切関係ありません。
また、犯罪や差別等を肯定・助長する意図もありません。





「これはディープフェイクなどではありません。私、神里佑介は我が国の総理大臣として、責任を持ってこの『一億総ヒットマン政策』を実行します」

 そんな衝撃的な総理大臣の会見があったのも、もう二ヶ月も前になる。

 あの日を境に、この国は激変した。


「もう時間だろ! 何で飛行機が飛ばねぇんだよ!」
「ですから、航空機のトラブルでして……!」
「そっちのミスでしょ!? 他のに乗せなさいよ!」
「そう言われましても……!」

 あの日。海の向こうの新たな職場に向かうべく、僕は空港にいた。転職にあたって助けをくれた先輩に感謝の想いを馳せつつ、飛行機の待ち時間をのんびりと潰す。元々時間には余裕を持って動くタイプだ。ひとりで時間を潰す事は苦ではない。
 ノートパソコンを広げ、かたかたとキーボードを打ちながら仕事をする。仕事と言っても難しいものではない。軽い作業でのんびりとした時間を過ごし、そろそろ自分の乗る飛行機の時間だとパソコンを閉じて背筋を伸ばした頃。クレームを吹っ掛ける夫婦と思しき男女が目に入った。いや正確には、耳に入ったと言うのが正しい。銅鑼を鳴らしたような大声で怒鳴りたてるそれは、僕以外の耳にも否が応でも入ってくるようだ。多数の好奇の目が二人に突き刺さっている。
 しかし当人らは羞恥と言う概念がないのか、気弱そうな女性従業員に怒鳴る声を止める様子もない。正直見ていて気分の良いものではないし、あんな末端従業員を詰めたところで何かが変わる訳でもないのだから、その大声を止めれば良いのにとは思う。
 だが僕には僕のスケジュールがある。止めに入ればいらぬ時間を食ってしまうのは火を見るよりも明らか。それにあれだけの騒ぎを起こしていればいずれ、より上の立場の人間が出て来て場を収めるだろう。

 そう結論付け、荷物をまとめて椅子から立ち上がる。しかしその瞬間、場の空気が一変した。ほんの少しのざわめきが、瞬く間に大波へと変わって人を呑み込んでいく。

「空港を封鎖ってどう言う事なんだ!?」

 誰かが叫んだその一言。歩き出そうとした足をぐんと掴んで引き留めるには十分過ぎた一言。これから飛行機には僕を運んでもらわねば困ると、自然と声の方向へ視線が向いた。
 その瞬間視界に入ったのは、その声の主でも、騒ぎ始めた多くの人でもない。ざわめきのひとりひとりが手にしている携帯電話。今時老若男女誰でも持つ、持たねば生活が出来ない、何の変哲もない携帯電話。
 そんな日常の象徴のような携帯電話が特別視界に入ったのは、皆揃いも揃って同じ画面だったからだ。

『ただいまを持って空港・港・その他国外への脱出が可能なルートは全て封鎖します。そして今この時より、国外への脱出を試みた者は逮捕します』

 にこりと爽やかな笑顔が、非日常を口にしていた。誰もが知る総理大臣が、非日常の開始を宣言していた。
 何かの聞き間違いだ。そう一蹴するも不安が押し寄せる。本当か? 聞き間違いか? 皆揃いも揃って同じ画面を見ているのに? 皆騒いでいるのに? 本当に聞き間違いで一蹴して良いのか? 頭の中で不安が大きな文字になって襲いかかる。
 どっどっと脈打つ心臓。そうだ自分も携帯電話を見れば良いじゃないか。そうすれば聞き間違いかどうかすぐに分かる事だ。なんて単純明快なんだと自分に言い聞かせるも、ポケットから携帯電話を取り出す手は慌てている。画面をつければ、友人からのメッセージが大量に届いている通知。ポップアップには、「もう出たか?」「おい早く返事しろ!」などの切羽詰まった文言が並ぶ。心臓はもう一段階、速度を上げた。

 何かがおかしい。
 何がおかしい? 空港の封鎖? 脱出しようとしたら逮捕? 他の乗客の様子? 数日前に転職祝いのパーティーを開いてくれた友人の様子?

 全部がおかしいだろ。
 定期的に流行るデスゲームものの導入じゃあるまいし、そんなものは所詮フィクションだ。現実ではありえない。そうだありえるはずがない。
 だが今、僕の目の前はフィクションではない。画面の向こうでも紙の向こうでもない。ぱちんと頬を叩けば音はざわめきに掻き消されるが、感触は確かに存在している。

『こちらの配信はアーカイブとして残します。リアルタイムで全ての国民が見られる訳ではありませんので。ただし、一週間です。一週間以内にこの配信を確認し、所定の行動を取ってください。取らなかった場合は――』

 ――全ての権利を剥奪します。

 ざわめきの中で鮮明に聞こえたその声は、一切の抑揚もなかった。

「封鎖ってなんだよ!」
「私これからタイに行かなきゃいけないのよ!?」
「仕事出来なかったらどうしてくれんだよ!」
「お前が給料払ってくれんのかよ!?」
「おい責任者出てこい!」

 混乱と不安の渦がどんどん大きくなり、誰の手にも負えなくなる。同じく混乱に陥っている空港職員の三六〇度を、負の感情が人の形を成して襲いかかっている。
 まともではない。今の状況は到底まともではない。常軌を逸している。僕は何故こんな場にいるのだろうか。何故なんだろう。転職か留まるべきか散々悩んだが、有給も消化しきった今は意気揚々と中国の新しい職場へ赴くはずだったのに。給料も福利厚生も全てが今より上がって、新しい彼女を作るんだと気分もうなぎ登りだったはずなのに。
 訳が分からない。だがこの渦の中にいては自分も呑み込まれてしまう。とにかく状況を把握しなければ。ころころとスーツケースを引きながら、空港職員に向かって蠢く渦と正反対に足を進めた。出来るだけ静かで人のいない所が望ましい。冷静さを取り戻すには、あの渦は騒がし過ぎる。

 蠢く渦から離れる足は勝手に早歩きをしていて、頭はやはり混乱している。周囲を確認する事もなく、何故どうしてと思考する間に随分と歩いていたらしい。周囲に人は疎らで、視認出来る範囲内の人は皆携帯電話を睨みつけていた。どうやら僕と同じような行動を取っているようだ。
 渦の声も遠く、比較的静かである事を確認して、はあーっと息を吐く。そっと音を立てないようにスーツケースを床に倒して、その上に腰を下ろした。ぽりぽりと頭を掻きながら携帯電話の画面を睨みつける。
 ひとまず友人に、まだ出国出来ていない旨を手短に伝えた。既読が付くのは一瞬で、友人からのメッセージも手短な、僕の生存に安堵するものだった。そしてすぐさま通話が出来るかどうかを問うメッセージ。もちろん僕としては今すぐ友人の声を聞いて安堵したい。いつも通りの会話をして日常を噛み締めたいところだが、否の返事を送る。
 ちらりと周囲の様子を観察してみたが、皆落ち込んだり茫然としていたり表情を失くしていたりと、いつどんな些細な刺激で破裂するか分からない雰囲気を纏っている。今この場での通話は得策ではないだろう。かと言って再度移動するのも面倒だ。とにかく今は落ち着いて状況の把握・整理がしたい。

 友人とは長い付き合いだし、もしかしたら友人の方もどこかであの渦に吞み込まれそうだったのかもしれない。僕の手短な否に食い下がる文字はこなかった。代わりに届いたのはひとつのURLと、「一週間以内に絶対見とけ」の文字。
 一週間以内。その文字にごくりと息を呑んだ。今は静かでも何が起きるか分からないと、右耳にだけイヤホンをし、微かに震えた人さし指でURLを押す。開かれたブラウザは国のサイトの、更にとある一ページ。
 「国民の皆様へ」と題されたそこにはひとつの動画。先程の一瞬で耳にこびり付いた言葉を頭の中で何度も再生する。彼の総理大臣は確かに、アーカイブを残すと言っていた。恐らくそれがこれなのだろう。三角の再生ボタンを押す人さし指も、まだ微かに震えていた。

『聞こえていますか? あー。うん、大丈夫そうですね。良かったです』

 国民から支持される総理大臣の至極綺麗な笑顔が、至極綺麗な声が、きちんと配信が出来ているかどうかを確認している。何て事はない、至極普通の光景だ。一昔前ならいざ知らず、今は国も情報発信などで積極的にライブ配信をする。つまりこれはこの国の老若男女誰にとっても、至極当たり前の光景。笑顔で手を振り、「皆さんこんにちは」と挨拶するその姿は日常なのに、たった数分前の日常なのに。今、僕は確かに非日常にいる。
 落差。乖離。頭が情報を受け付けてくれない。動画を一時停止し、すーっとゆっくり息を吸い、ふーっとゆっくり吐き出す。落ち着け。とにかく落ち着かない事には何も出来ない。そう自分に言い聞かせて深呼吸を三回。よしと小さく呟き、再度再生ボタンを押した。

『私が総理大臣となって今日で三年です。これも全て皆さんに応援していただいた賜物。本当に感謝しています。そして皆さんへ感謝の意を込めて、私の念願である法案の可決を、本日はお知らせしたいと思います』

 もう彼の人が総理大臣になって三年も経ったのか。そんなふんわりとした、他人事のような感想をすぐに抱けた自分に安堵する。大丈夫だ。少しずつ落ち着きを取り戻せている。はっと、乾いた笑いなのか単なる息なのかの区別もつかない音を小さくこぼし、じっと画面に目を凝らす。耳を凝らす。

『それが、一億総ヒットマン法です。少しふざけた名前に聞こえると思いますが、分かりやすさを重視してつけました』

 頭に入ってきた情報に自分の目も耳も疑った。まるで映画やゲームのようなふざけた単語の入った法律が、どうやら施行されたらしい。これも普段なら何の違和感もなく、「またくだらない事」をと呆れられただろう。いつだって国の考える事は分からないと呆れられた。呆れたかった。
 だが今、僕は非日常に放り込まれている。いや、この総理大臣が日常を非日常に塗り替えたのだ。だからこそ聞き逃せない。馬鹿げていて、物騒な単語。画面の中の総理大臣は不気味な程、にこりと綺麗な笑顔を崩さないまますらすらと言葉を紡いだ。

 国外逃亡への罪。インターネットを通じた海外へのアクセス禁止。銃刀法の廃止。殺人罪への大きな改正。その他暴行・傷害・拉致・監禁エトセトラへの改正。
 まるで映画やゲームのような言葉がいくつもいくつも紡がれていく。

 法律も憲法も、融けていく。

『私はこの国を良くしたい。その為にはこの国の新陳代謝を促さなければならない。皆さんは思った事はありませんか? 国への不平不満を』

 総理大臣の言葉で驚きに呑まれていたのに、次の瞬間にはその総理大臣の言葉ですぐさまごくりと息を呑む。それは、その言葉が図星だったからかもしれない。隠していた小さな闇を貫かれたような気がしたからかもしれない。
 だがすぐに思考を切り替えた。生きていれば誰だって、大なり小なり国への不平不満を抱くものだと。自分が特別図星だった訳ではないと。配信の際の視聴者も同じ気持ちだったのだろう。肯定のコメントが流れていく。
 総理大臣はそんな反応も意に介する事なく、にこりと笑ったまま、「なのでこの法なのです」と呟く。

『是正するにはとうに手遅れの格差社会。貧困層に生まれたら死ぬまで貧困層。上級層の奴隷。搾取される為だけに生きる毎日。そんなものはもうやめましょう。私達は自分の手で可能性・希望・未来を掴み取っていかねばなりません』

 ですから殺しましょう。

 邪魔な上級層など殺せば良いのです。

 かたんと携帯電話を床に落とした。この総理大臣は今、何と言ったのか。理解が追いつかず筋肉が弛緩した。しかしすぐに慌てて携帯電話を拾う。周囲の様子を確認したが、怪訝な顔を向けられるだけで済んでいるようだ。
 震える手で少しヒビの入ってしまった画面を見る。「いいや"良い"ではありません。もう殺す"しか"方法がない」と淡々と紡がれる声。そして、がちゃりと耳慣れない金属音がイヤホンから流れ、総理大臣の手には銃。ご丁寧に、「もちろんおもちゃではなく本物です」と笑顔も添えて。

『ヒットマン法だと言ったでしょう。つまり殺す側が皆さん。殺される側が、政治家です』

 そこから先は、ほとんど頭に入ってこなかった。ただただ総理大臣が笑顔で淡々と、馬鹿げていて物騒な言葉を連ねている。理解の追いつかなさに再度携帯電話を落としそうになったが、寸でのところで握り締めて事なきを得た。そのまま画面に視線をやるも、やはり頭に入らない。確かに画面を見ているのに。確かにその声を聞いているのに。全てが頭を通過して抜けていくような感覚。
 しかしその感覚も鼓膜を振るわせる悲鳴で一斉に退散した。総理大臣の部下らしき屈強な体格の男達に、ずるずると物のように引きずられながらやってきた男の悲鳴。その顔には見覚えがあった。確か先の総理大臣だったはず。
 そんな大の大人が身を大きく震わせ大声で叫ぶそれに、まさかが全身を駆け巡った。

『何事も最初が肝心です。私が手本、ファーストペンギンとなりましょう』
『やめてくれ! おい神里! 頼む、金ならいくらでもやるから!』
『やめてくれはこっちのセリフですよ梶谷さん。そんな言い方をされちゃ、まるで私が金で動く人間みたいじゃないですか』
『何でなんだ神里! お前の父親も祖父も、良い思いをさせてやってきただろ!』
『私はね梶谷さん。そう言うのが、大嫌いなんですよ』
『待っ――』

 嘘のような、銃声。
 途切れる声。流れ出す鮮血。あれだけ騒いでいた男が、ぴくりとも動かなくなる。

 それは紛れもなく、現職総理大臣による公開殺人だった。

 嘘だと思いたい。今自分に振りかかっている全てを嘘だと思いたい。そうだこれはディープフェイクだ。今時珍しくもないじゃないか。そもそも総理大臣の配信などなかったんだ。そうだそうに違いない。
 だが画面の中の総理大臣はにこりと笑って、全てお見通しと言わんばかりに否を宣言する。荒れるコメント欄。溢れかえる通報の文字。しかし当人はそれを見ても尚、にこりと笑うだけ。怒りもしない。嘆きもしない。貼り付けたように、綺麗に笑うだけ。

『これはディープフェイクなどではありません。私、神里佑介は我が国の総理大臣として、責任を持ってこの"一億総ヒットマン政策"を実行します』

 ああ、これは嘘でも何でもないんだ。現実なんだ。そう叩きつけられた僕は移動の足を掴める内に帰宅をと、急いでタクシー乗り場に向かった。


◇◇◇


 あれから二ヶ月。この国は激変を遂げた。

 「政治家を殺せだ」なんて馬鹿げた事をする人など、いるはずがないと思っていた。そんな事をして何のメリットがあるんだ。馬鹿げている。あまりにも現実離れし過ぎている。殺してその後は一体どうすると言うんだ。
 そう思っていたが、現実は彼の人が何枚も何枚も上手だった。

『何なんだお前達は!?』
『これ誰ー?』
『えーっと……あー、参議院議員の山口だってさ』
『参議院議員って事は、報酬三百万じゃん! ラッキー!』
『じゃあ家族も皆殺しで二百万追加~!』
『おいやめろ! 子供達に近付くな!』
『嫌っ! こないで!』

 国会議員はひとり三百万円。地方議員はひとり百万円。どちらも家族を殺した場合、ひとりにつき五十万円追加。
 まるで害虫駆除とでも言わんばかりの「報酬」が支給されると知れば、理性のタガが外れる人間はいくらでも湧いて出てきた。そしてそこに総理大臣のお墨付きと言う「正義の印籠」を与えてやれば、もう止める術などない。
 「駆除報告」はSNSであっという間に広まり、正義の鉄槌だと痛めつける・犯す様子を載せるのが流行り始めるのも一瞬だった。駆除でハッシュタグ検索をすれば、その手の写真や動画が山のように見つかる。

 それを見て、これは何て周到に練られた計画なのだろうかと、ここ最近は思うようになった。この惨状を作り出す為に彼の人が、国内のネットワーク強化・国産SNSの普及を裏で操っていたなど、幾年も前の自分が分かるはずもない。

 しかもこの報酬支給を即時で可能にしているのが、僕達の体に埋め込まれているマイクロチップだが、これにすら彼の人は絡んでいるようだ。生後三ヶ月までに埋め込む事が法律で義務付けられ、当たり前の存在になった今では何とも思っていなかったが、彼の人の資料を漁っているとマイクロチップの法案に彼の人の父の名前が見られた。
 このマイクロチップには、名前や住所・顔写真はもちろん、電話番号・指紋・血液型・携帯電話のアカウント・銀行口座・犯罪歴など、ありとあらゆる個人情報が紐付けされている。
 それらは普段は病院の受診や、国からの補助金の受け取りから、電車・コンビニ・ネットの決済などで使用されていて、日常生活で使わない日はないと言っても過言ではない。法律で義務付けされる際にはさんざ物議を醸したらしいが、人間とは一度便利を覚えると不便には戻る事が出来ない生き物。今やマイクロチップへの疑問も文句も抱く者はごく少数の過激派だけだ。
 そして今回、配信内で彼の人は、「これが現実だと実感してもらう為に今から百万円を全国民に配ります」と言った。そんな馬鹿なと思い携帯電話で口座を確認すると、配信中・その発言の直後に国名義で実際に百万円が振り込まれていた。それがこの馬鹿げた惨状への一歩を踏み出させるのに拍車をかけた。
 殺した政治家やその家族のマイクロチップを読み取って専用サイトに登録するだけで、まばたきの間に何百万円の金が振り込まれる。殺せば殺す程、一生かけても稼げないような金額が手に入る。その手軽さが理性の破壊に拍車をかけた。
 まさか父の代から裏で糸を引いていたなんて。一体いつからこんな馬鹿げた政策を思考していたのかと思うと、ぞっとする。

 配信日から三日間、都庁前で行われた銃の配布も、SNSの報告によると相当な数が用意されていたらしい。そんな数を調達するのも一苦労のはずだ。この人は一体、いつからこんな計画を練っていたのだろうか。考えるだけで、ぞっとする。

 そして極めつけが、「政策同意登録」だ。

 あの配信から一週間以内に動画のアーカイブが記載されたサイトに貼られたURLから、政策同意登録が義務付けられていた。もしこの期間内に登録をしなかった場合、一切の権利が剥奪される。しかも高齢者や障がい者など、自力もしくは周囲の人間の助けが得られず、登録困難な者を支援する窓口はない。
 つまりこれは国民の選別だ。介護に疲れた者、誰かに復讐がしたい者、その他にも誰かを憎む動機のある人間からすればたったの一週間、その相手をどこかに閉じ込めておけば人生を剥奪出来る。その選別権を彼の人は国民に与え、是としたのだ。
 事実、登録出来なかった者は殴られようが殺されようが、警察も誰も相手にしない。「お前は人間ではない」と国から宣告されてしまったのだ。「非人間」のハッシュタグでその人達への暴行動画も流行っている。
 この国は負の感情の掃き溜めになってしまった。

『イェーイ! ○○会社の役員さん発見ー!』
『マジでちょこまかと逃げ過ぎでしょウケる』
『ふざけるな! 俺達がお前らに何したって言うんだよ!』
『はあ? おっきい会社でぬくぬくしてるのがダメだっつってんじゃん』
『もっと下々の気持ちが分からないといけねぇよなあー!?』
『存在するだけで罪なんだよ!』
『助けて! お願い! せめて子供だけは――』
『うわぁああんっ! おかあさん! おかあさん!』
『はあー、うっせ。だからガキって嫌いなんだよ』
『ほんとそれなー』

 総理大臣からのターゲット指名がない者への犯罪は禁止されている事で、警察はもちろん国民の日常生活は恙なく行われている。だがそんなものは長くは続かない事くらい、彼の人程周到な計画を練って実行する人なら気付いているはずだ。
 政治家だってゲームじゃあるまいし無限に湧いてくる訳じゃない。一掃し終えたら次は官僚、その次は財閥、その次は大手企業とターゲットの枠を広げてきたが、それだってもう限界に近い。今はまだぎりぎりの薄っぺらな理性で踏み止まっているだけで、量産された殺人に抵抗のない人間はいずれ、彼の人の思考を無視して殺人を犯す。

 そうなれば日常生活など一瞬で崩れ去る。無法地帯。弱肉強食。躊躇なく人間を殺して、何もかもを奪える人間だけが生き残る。そしてそんな国は国としての価値を失くす。価値のない国と取引をする人も国も存在しない。あらゆる資源が枯渇していき、人々はより奪い合い、更に無法地帯は混沌を極める。
 今は各々、戦争・クーデター・大規模デモなどの自国状況に手一杯でだんまりの周辺国や同盟国も、いつ手出ししてくるか分からない。そもそも周辺国や同盟国がだんまりなこの状況こそイレギュラーだ。いや、そのイレギュラーも彼の人が手を回して作り上げたのかもしれない。

 今この国で一番の、悪意の塊である彼の人が。

 この国はどうしようもない、負の感情の掃き溜めになってしまった。

 SNSに蔓延る駆除動画に溜め息を吐いて、画面を消す。携帯電話はベッドへと放り投げて、ノートパソコンの電源を入れた。三秒で立ち上がった画面にかたかたとキーボードを打つ。
 画面には「神里佑介を止める会」と銘打たれた幾人もの参加者が入るグループチャットと、その神里佑介に関して各々が調べ共有された様々な資料。この国は今まともな状態ではない。この言わば反政府のような連絡や調べものも、どれだけ向こうに筒抜けなのか想像がつかない。

 何せ彼の人は、自分にも賞金を懸けているのだから。

 それもそこらの国会議員より遥かに上。たったひとりで一千万円。つまり彼の人は、「自分の首も取って構わない」と言っているのだ。しかし、彼の人を殺してしまってはそれ以上の報酬は得られない。タガの外れた人間も継続的な報酬を得られる方に流れ、総理官邸へと足を運ぶ者は未だいない。恐らくそれらも全て読み通りなのだろう。自分だけが何者にも脅かされない安全地帯なのも全て、読み通りなのだろう。
 だがそこにどうしても違和感を覚える。この薄氷を踏むような計画は、ここまで周到な手腕と乖離している、と。

 彼の人について調べた有志のひとりによると、祖父の代からの政治一家。幼い頃より頭脳明晰・容姿端麗。良い学校へ進学し、良い成績を残し、様々なコンクールで賞を得る。大学卒業後に父の元で三年の修業期間を積み、がんで早くに亡くなった父の地盤を引き継ぎ、二十五歳の若さで満を持して選挙に立候補。圧倒的な勝利を収めたのちは盤石な政治家街道。そして若さと高い支持率で三十三歳、総理大臣に就任。
 金・知能・容姿・人脈・運。まさに全てにおいて恵まれ、神の祝福を受けたような人生。
 そんな人が何故こんな、いつ踏み出した足が薄氷を突き抜け極寒の水に落ちるかも分からない、そのくせいつか落ちる事は確実な計画を練って実行しているのだろうか。
 今起きている現実と彼の人の経歴はあまりにも乖離していた。だがその理由は皆目見当もつかない。もし僕が彼の人ならば、悠々自適な政治家人生を全うするだろう。こんなにも恵まれた生まれに感謝するだろう。
 だから理解が出来ず、違和感が胸に残り続ける。もちろんこんな小さな違和感など、この負の掃き溜めの中では何の役にも立たないのだが。有志の皆も彼の人の経歴を見る度に同じ事を思うのだろう。「本当に意味分かんないよね」と、それに対する同意がまばたきの早さで流れていく。

「……本当に、分かんないよな……」

 ぼそりとひとり呟いて溜め息を吐く。ちらりと視界に入ったのは、あの日から一週間後に友人から受け取った銃。何があるか分からないから。もしもの為に。そう言って都庁で配布されたものを僕にも渡してくれた。一度たりとも引き金を引いた事はない。指をかけた事さえない。
 本来なら転職に合わせ、とうに引き払われるはずだった一人暮らしのワンルーム。異質な鉄の塊が、「未だに俺を異質だと思うお前がおかしい」と僕を睨みつけている気がした。

 日常を取り戻す方法はたったひとつしかないと、睨みつけている気がした。


◇◇◇


 あの日から三ヶ月。僕達は何度も議論を重ね、日常を取り戻す方法を模索していた。だが人とは足並みを揃えるのが難しい生き物だ。そう簡単にいくものではない。こんな負の感情の掃き溜めになった国では尚の事。
 彼の人を殺す案・更なる有志を集う案・もうどうしようもないのではと言う意見。様々な思考と意見をぶつけ合い議論を重ねた結果、対話と言う方法が一番の賛同を得た。誰も人殺しなどしたくないのだ。

 そしてついに今日。「神里佑介に直接会ってこの惨状をどうにかしてもらおう」と有志に声をかけ回って集まったのは、僕を含めて十三人。清々しい程の真っ青な晴天の下、総理官邸を目の前に息を呑んだ。
 僕のような一般人が入る機会など永久にくるはずのなかった総理官邸に今、足を踏み入れる。

「……本当に、通してくれるんだ……」
「ね。なんか……拍子抜けするって言うか……」
「うだうだ言ってないで行こうぜ。もし別の奴らが来たら面倒になる」

 門番のように立っていた強面のSPらしき人達に来訪の目的を告げると、すんなりと中へ通された。どうやらSNSでまことしやかに囁かれていた噂は本当だったようだ。総理大臣は誰も拒まない、と。どんな魂胆があるのかは分からないが、自身の首にも賞金を懸ける程だ。ある程度の覚悟は決まっているのかもしれない。
 念の為にと鞄に忍ばせた銃も取り上げられる事なく、総理官邸内を歩く。広い廊下。高い天井。踏み心地の良い絨毯。いくらするのか想像するのも恐ろしい絵画。目に入る全てが僕に場違いだと責め立てているようで腰が引ける。肩にかけた鞄のショルダー部分をぎゅっと握り、リズムを上げ始めた心臓に待ったをかけた。

 門番によると彼の人は一番奥の部屋にいるらしい。そこを目指して一歩一歩、足を進める。大丈夫だ。話をするだけだ。そう言う計画だ。皆で立てた計画だ。そう言い聞かせていると一緒にいた仲間のひとりが、「あっ」と声を上げた。反射的にそちらに視線を向けると、驚いた顔と、ぴんと立てられた人さし指。
 仲間の指さした先には、一点の絵画。

「……これ、超高いやつだよ……もうどこにも原画が見当たらなくて、どこの国もレプリカしか飾ってないやつ……えっ、待って、これ……原画じゃない……!?」
「んな訳ねぇじゃん。あれって原画はイタリアの美術館火災で燃えちまったって話くらい俺でも知ってんぞ」
「でもほら! これ! ここにサインと、あとここに引っかき傷があるやつって原画だけなんだよ!」
「……マジかよ」

 僕にはとんと分からないが、その絵画は何やら幻のものらしい。わあっとボリュームを上げ始めた仲間達は、その絵画を皮切りにあちらこちらへと目移りを始めた。絵画・刀・壺・絵皿・屏風エトセトラ。目的の為には必要のない扉も開け始め、さながら子供の探検隊の様相を見せる。
 散り散りに総理官邸を漁り始めた仲間に溜め息を吐きつつ、本来の目的をと声をかけるが誰も聞く耳を持たない。どうやらそれ程までにこの総理官邸は宝の山のようだ。仲間から返ってきたのは端的な、「先に行け」の一言。神里佑介を止める会とは何だったのか。何故僕がひとりで彼の人と話せねばならないのか。
 しかし嘆いたところで彼らが探検隊から対話隊に戻るにはかなりの時間を有しそうだ。となると彼らと同じようにはしゃいで足並みを揃えたいところだが、大した趣味を持たない僕にはひとりで彼の人の元へ向かうより、ここで時間を潰す苦痛が勝る。柱の木目を数えるくらいしかする事がないのだから。
 はあーっと大きく溜め息を吐き、重い足を進めた。

 気分は重い。足取りも重い。だがいくら総理官邸と言えども無限の広さを誇る訳ではない。どんなに思い足でも一歩一歩進めば、確実に目的地に辿り着く。
 目の前の扉。一目で金がかかっていると分かる重厚な扉。そのドアノブに手をかけ、大きく深呼吸をして扉を開いた。重みのある扉はひとつの木鳴りも鉄鳴りも起こさず、静かに開く。鍵がかかっていないのは驕りか、計算か。
 部屋の奥。如何にも上質なソファーに腰かけ足を組む彼の人、神里佑介は僕と言う来訪者にも、にこりと笑うだけだった。

「殺すなら最初から銃を構えていた方が良い。そんな無防備に部屋に入ってくるものじゃないですよ」
「……殺すつもりなんて、ありませんから」
「ほう? では何の為にわざわざこんな所まで?」
「こんな馬鹿げた事を、止めてもらう為です……!」

 僕の言葉に何の反応も見せない彼は、やはりにこりと笑っているだけ。「どうぞ座ってください」とさえ紡ぐ始末。正直に言えばその提案には素直に頷きたい。緊張と不安で足が震えそうだ。
 だが交渉・説得・対話において相手に弱みを見せる事は否だと、この一ヶ月の間に読み込んだ本に書いてあった。僕の足が震えそうだと、あまつさえ仲間に一刻も早く駆けつけてほしいと思っているなど、知られてはならない。僕は彼を殺したい訳じゃない。誰かに殺されたい訳でもない。ただただ、日常を返してほしいだけなのだ。
 その為にも、弱みは見せられない。ぎゅっと鞄のショルダー部分を握りながら、首を横に振った。彼は、「そうですか」と言って笑うだけ。そしてぎゅーっと革張りのソファーに背を預けた彼はその笑顔のまま、「馬鹿げていますか?」と呟いた。爽やかな声色からは何も読み取れない。
 だがその言葉に僕の中で怒りが急速に温度を上げていく。

 馬鹿げていますか?

 馬鹿げているに決まっている。

 こんなものは政策でも何でもない。単なる児戯だ。小さな子供が何も知らずに思い描いた「ぼくのかんがえたさいきょうのくに」だとか何とかの空想を、そのまま形にしてしまっただけだ。してしまえただけだ。現実の事など何も考慮していない。可能性も希望も未来もない。良い歳の大人がする事じゃない。それも一国の総理大臣ともなれば尚の事。
 これ以上ない程に馬鹿げている。

「……馬鹿げてますよ。こんな事したって、何にもならない……!」
「何もならないとは?具体的に言うと何でしょうか?」
「全部ですよ! 何が一億総ヒットマン政策ですか!殺して回れば政治家なんかいなくなる! 財閥も大企業も、無限に湧いてくる訳じゃないんですよ!」
「でも国民は楽しんでいるじゃないですか。下剋上が出来て皆喜んでいる」
「そんなのは詭弁です! こんな事をしてればこの国は殺人犯だらけになる!」
「一億総ヒットマン政策と言ったでしょう。最初からそのつもりですよ」
「一億の殺人犯がいる国に、国としての価値なんか失くなるんですよ!?」
「だから言っているでしょう。最初からそのつもりだと」

 背筋がひやりとした。ぞわりとした。服の下の肌は逆毛を立てている。彼はその見るからに上質な革張りのソファーから一歩たりとも動いていない。にこりと笑ったその顔を崩していない。声色も相変わらず爽やかそのもの。
 なのに彼から底知れぬ何かを感じた。言葉の縁から薄っすらとだけ滲み出る何かを。それの得体が知れず、背筋にひっそりと、ゆっくりと、薄い氷をぴとりと貼り付けられたような悪寒。

 国の価値が失くなる事を承知していた? いや、彼の口ぶりでは承知していたと言うよりも、もっと悍ましい何か。悍ましい思考が渦巻いているような。
 そう、国の価値を失くす事も周到な計画のひとつかのような。

「……貴方は、嫌いな国の総理大臣になったと……?」
「あははっ! 冗談はやめてくださいよ。私がこの国を嫌いな訳ないじゃないですか。自分の生まれ育った国、自分の祖先の国ですよ?」

 初めて彼の貼り付けたような綺麗な笑顔が崩れた。ほんの少し。ほんの少しだけだが、確かに崩れた。僕の言葉をさも頭がおかしい発言かのように、彼は確かに笑った。
 そしてこの国を嫌いな訳がないと理由を連ねる。そこに嘘は感じられなかった。もちろん、僕が感じられていないだけなのかもしれないが。

 ならば何故、彼はこのような児戯を実行したのだろうか。全てに恵まれた人生である彼が何故。国民をせせら笑うような児戯を。
 あまりにも理解が出来ず、僕はありありと怪訝な色を顔に出してしまっていたのだろう。彼はくすりと笑って、「交渉に向いていませんね」と呟く。全くもってその通りだ。こんな場から早く退散したい。そう喉から出そうになった言葉をごくりと呑み込み、テーブルの上に置かれたグラスに手を伸ばした彼の動きに目を凝らす。空のグラスを左手人さし指の腹で撫でながら、彼はゆっくりと唇を動かした。
 こんな人生は望んでいなかったのだ、と。

「私の事は調べたんですよね?」
「……」
「隠さなくても大丈夫ですよ。この国中のやり取りは私に筒抜けですから」

 やっぱりか。そう反射で出そうになった言葉も慌てて呑み込む。やはり僕達が彼を調べていた事も、反政府的な動きを取っていた事もお見通しのようだ。
 しかしそうだと分かれば尚更分からない。彼は僕達も、その他の批判的な人間も反政府的な人間も、いくらでも取り締まる事が出来た。この国はまともな国ではなくなったのだから、彼の一存で始末する事も出来た。
 なのに彼はそれをしなかった。野放しにした。僕達をここまでこさせた。全く分からない。そこまで思考して、彼に対して抱いていた違和感が顔を出した。

 知りたい。この違和感の正体を。今なら知れるかもしれない。
 そう思ってしまった瞬間。ぎゅっと閉ざしていた僕の唇は、僕が脳で認識するよりも先に言葉を放り投げてしまっていた。

「貴方はこんな先のない計画なんて立てないのでは?」
「それが、私を調べた貴方の見解ですか?」
「……はい。僕は、調べて知った貴方と……現実の貴方の行動が、乖離していると……感じました……」

 あまりにもすらりと返ってきた彼の言葉。感情を読み取れない綺麗なだけの声色。それはどう足掻いても僕ごときに彼の思考を理解させない、世界の理のようにすら感じた。
 それに対して僕の中の何かが、ここで止めておけと警鐘を鳴らす。ここで止めればまだ間に合うと。まだ戻れると。仲間を待てば良いと。

 本当に良いのか? 皆がくるのを待てば、確かに僕は楽になるかもしれない。リーダーシップを取りたがる人に全てを投げてしまえば良い。僕はただただ彼らを眺めていれば良い。いつもそうしてきた。そうだそれで良いじゃないか。
 本当に良いのか? 皆が来てからでは、違和感の正体を知れないかもしれない。彼が何も話してくれなくなるかもしれない。もちろん今だって話してくれるとは限らない。だが皆がくるとその可能性はより下がるのではないか?
 知りたいと思ったって良いじゃないか。僕の何て事はない平々凡々な日常が、彼の児戯で奪われたのだから。何で。どうして。そう思うのは至極普通じゃないか。

 知るなら、ほんの少しだけでも表情を崩せた今しかないのでは?
 ごくりと呑み込んだ唾液と、無味無臭の悍ましい空気。言葉を伴わない唇の微かな開き。ちっちっちっとアンティークな時計の秒針の音と共に、もう一度唾液を呑み込んで言葉を喉から出した。

「貴方は、一体何がしたいんですか」

 彼は目を丸くするでもなく、吊り上げるでもなく。心底おかしそうに笑っていた。彼には僕が頭のおかしな人間に見えているのだろうか。僕からすれば彼の方がよっぽど、頭がおかしい人間なのだが。
 はーっと息を吐いて笑いで乱れた呼吸を正す彼。「なるほど。そうなるんですね。そこで止まるのか」と、若干の笑いを含んだ声が部屋を漂う。そこで止まるのか。その意味が分からず怪訝な顔をするしか出来ない。ぎゅっと握った鞄のショルダー部分は、不格好な皺がくっきりとついている。皺ひとつないグレーのスーツ姿の彼はちらりと僕を見て、ひとり頷いた。

「私は本気で政治に取り組んできました。本気でこの国を良くしたいと思っていたんです。いや、思っている。ですかね」

 ソファーから立ち上がった彼は大きな窓の側へと歩く。その動きに身構えた僕の事など気にも留める事なく窓ガラスに手をつき、真っ青な空を見上げて言葉を続けた。
 どっどっ、と僕の心臓が騒ぎ始める。何に対するリズムなのかは、僕にも分からない。

「祖父と父の背を見て、幼い頃から政治家になる事を目標としてきました。周囲の期待に応える事を望んでいました。大学を卒業後、まずは父の元で政治のイロハを学び始めましたが、その時にふと疑問を抱いたんです」
「……」
「有権者は何故、私を応援するのだろうか、と」
「……何故って、それは貴方が政治家だから……」
「何故ですか? 私はまだ立候補もしていない。議員資格なんて持っていなかったんですよ? でも有権者は私を『神里先生』と呼び、握手を求めるんです。私が祖父の孫だから、父の息子だから、有権者は私を応援するんです。私はまだ何も成していないのに」

 彼の言いたい事はふんわりとだけ、ぼやけた輪郭だけ理解が出来た。まだ政治家ではない自分を何故有権者は応援するのか。それに対する疑問。僕からすればなんて小さな疑問だと思う程の、至極どうでも良い疑問。
 だって彼は政治一家の息子なのだから。いずれ政治家になる事など当たり前。今は「先生」でなくとも、いずれ「先生」になる事が決定している人。有権者と言う名の一般人から見た彼が、今議員バッジをしているかどうかなんてどうでも良い。向こう十年の間にでも必ず議員バッジを付ける人に媚びへつらうのは、十分過ぎる程当たり前だと感じる。それも祖父の代からの地盤でとなれば尚更だ。
 だが彼はそれが納得出来なかったらしい。

「呆気に取られました。心底呆れました。この人達は祖父も父も私も見ていない。国の事など見ていない。私達の後ろにある金だけを見ているのだと」
「……」
「初めての選挙では圧勝でした。私に先生先生と媚びへつらっていた人達が綺麗に投票してくれたからです。自分達が先駆者利益を得たいが為だけに」
「……それは、そんなに悪い事ですか……? 自分達にとって利益になる人を選ぶ事が、そんなに悪い事なんですか……?」
「いいえ。人間はそう言う生き物ですから」

 彼が、自身の利益を求める人間を悪だとでも言うかのように話す。それがあまりにも色としてありありと出ていたせいで、思わず口から出た単純な疑問。自信の利益を求めるのは悪い事ではないだろう。人間誰しも自分が良い思いをしたい、より幸せになりたいと思うものだ。
 僕だって何度も悩みに悩みぬいて、今より良い待遇が得られるからと、中国への転職を決めた。あの日、こんな事がなければ飛行機に乗って、無事新しいベッドに身を任せていたはずだった。もしかしたら今頃新しい彼女だって出来ていたかもしれない。それの何がいけないと言うのだ。
 しかし彼はさらりと、そう言う生き物だから悪い事ではないとも言う。それを聞いてやはり彼の思考が読めず、彼との間に酷く大きな河が流れているような気がした。水の流れる音で対岸にいる彼の声が上手く聞き取れないような感覚。彼が何かを話す度にその河は広がり、その音は大きくなるような。「ただ問題なのは」と話し始めた彼の声を、僕の脳はきちんと処理しているのか不安になる。

「長期間に渡って抑圧教育を受けた国民が、本当に自分の事しか考えない事が悪なんです。ですがこれも政治が悪いんです。政治が悪いから国が成長せず国民は抑圧的になり、国民は政治家の意のままになる。更なる悪循環を生んでしまう。貴方は知っていますか? 国が選挙の投票率を公開しなくなった理由を」
「投票率が、悪いからでは……?」
「その通りです。五割を切るのが当たり前になった頃から、この国では投票率を非公開にするようになりました。では、現在の実際の投票率は?」
「……四割……くらいでしょうか……」
「二割です」

 人さし指と中指を立て、指で数字の二を表した彼に出すべき言葉を見失う。選挙の投票率が低い事は知っていた。そんなものは国民全員が知っている。だが実際の数字は知らなかった。知る術などなかった。誰も選挙になんて関心がないから。
 意味がない。時間の無駄。何も変わらない。随分と昔に、皆が口を揃えてそう呟くようになったらしい。そしてその常套句は今でも呟かれ続けていて、選挙の話をする事はタブー中のタブー。選挙のせの字でさえ出そうものなら、頭のおかしな奴のレッテルを貼られる。皆、プラカードを掲げ古臭い抗議活動をする過激派の奴らと同じにされたくないのだ。

 それでも、信じて疑わなかった。国民の半数弱が未だ選挙に行っているだろうと。選挙なんて無意味なのになと笑いながら、選挙の存在を誰よりも信じていた。お粗末ながらも民主主義は機能していると、妄信していた。
 たったの二割。老若男女合わせて人口が一億程の国で、投票率はたったの二割。有権者の八割は無関心を貫いている。たったの二割に自分の人生が左右されている。その事実は言葉を失くすのに十分過ぎた。次の言葉が見つからない。政治に対しての不平不満を持った事なんていくらでもある。誰だってそんなものだ。あの日の彼の配信でも同じようなコメントで溢れていた。
 だが、誰がたったの二割に人生を左右されていると想像した? 意味がない。時間の無駄。何も変わらない。そう言って一番選挙の存在を妄信していたのは僕達じゃないか。

「おかしな話ですよね。有権者の八割は選挙に意味がないと言って投票すらしない。でもその八割が一番、不平不満を漏らし、何かあれば政治のせいにする」
「……」
「でもそれも仕方がないんです。この格差社会を生み出したのは紛れもなく国。手を打てるところで打たなかったのも国。抑圧教育をしたのも国。国民に自由意思など与えられていなかったんですから。なので私は、抑圧からの解放と進化を与えようと考えたんです」

 ふわりと彼の声が一段階トーンを上げた。こちらを見る彼は大きな窓からの逆光で、グレーのスーツが黒く見える。しかしその背には眩しい陽の光と、真っ青な空を背負っていて、気味が悪かった。

 その姿は僕が彼に感じる、悍ましさの具現化のように思えた。

「地域活性・雇用創成・子育て支援・結婚支援・その他諸々。皆の為に国の為になればと様々な政策をしてきましたが、そんなものは何の意味もないんです。国が面子の為にあの手この手で保ってきた一億と言う人口を支えるには、もう何もかもが手遅れでした。生半可な薬じゃ効かないんですよ、この国にはね」
「だから、一億総ヒットマン政策だって言うんですか……!」

 僕の言葉に悍ましく、綺麗に笑う彼。僕の言葉に肯定だと言わんばかりに、綺麗に笑う彼。分からない。僕には彼の思考が分からない。彼の言葉をいくら頭の中で反芻させようとも分からない。
 違和感の中心に向かって走り出したはずの会話は、解答と言う中心点へ近付ける気配がなかった。彼と言う中心点を起点にして、僕はその周りをぐるぐると走らされているだけ。やはり僕ごときが彼に近付く事など許されないのが、この世界の理だとでも言うのだろうか。
 僕の日常を奪った彼に、僕は何も出来ないとでも言うのだろうか。

「貴方はインドの破壊神が何故崇められているか知っていますか?」
「……いえ。あまり、そう言うのには興味がないので……」
「まあそうでしょうね。彼の破壊神は、破壊と創造を司る神です。だから人々から崇められる。でも人々は彼の神を『破壊神』としか呼ばない。つまり人は創造になんて興味がないんですよ。破壊にしか興味がない。壊す事に快楽を覚えるんです」
「……それが」
「一億総ヒットマン政策。破壊と創造の劇薬です」

 無茶苦茶だ。あまりにも無茶苦茶過ぎる。荒唐無稽だ。そう罵れたのなら良かった。平時にこの話を聞いて、「なんて馬鹿なんだ!」と罵れたのなら良かった。だがそれももう遅い。罵る事なんて出来ない。
 だってもう、その滅茶苦茶が現実になってしまった後なのだから。

 破壊への快楽はもう国中に浸透してしまった。もう歯止めなんて利かない。そう気付いた瞬間、一月前の自分の思考がふと掘り起こされる。
 無法地帯。弱肉強食。躊躇なく人間を殺して、何もかもを奪える人間だけが生き残る。そしてそんな国は国としての価値を失くす。
 もしや、彼はその先を進化と題しているのだろうか。競争を引き起こし、弱者を淘汰し、殺人に抵抗のない脳を持つ、より強い個体のみに選別し、新しい国を創り出す。そんな進化を、まるでゲームで遊ぶようにさせようとしているのだろうか。
 いや、もしかしたら僕達はすでに進化させられてしまったのかもしれない。だってもう、あの日より以前には戻れないのだから。一歩的に奪われた平和も日常も、もう何も返ってこない。一度変化した脳は元には戻らない。殺人と言う破壊の快楽を覚えた人間が、それを忘れる事など出来ないのだから。

 殺人脳を持った強者が、殺人脳を持たない弱者を支配する国に進化してしまった。

 ぐっと腹の奥から込み上げてきた吐き気に口元を押さえる。不味い胃液が逆流しそうになるのを必死に抑えつけ、肩で息を整えた。そして、はあーっと大きく息を吐いた瞬間、耳が微かな声を拾う。よく耳を凝らすとその声は恐らく仲間達の声だろう事が状況から判断出来た。
 窓の前の彼は懐から取り出した携帯電話を眺め、「お仲間が来たようですね」と呟く。焦りも何もない。ただただ淡々と、僕の仲間が来たと言う事実を述べるだけ。
 しかし次の瞬間、彼はゆっくりとした動作で再度懐に手を伸ばす。僕がまばたきを二回終えた頃には、銃口が僕を睨みつけていた。そう理解した瞬間、慌てて鞄に手を入れるも彼が僕を止める様子はない。忙しない心臓のせいで鞄の中で一度掴み損ねた銃を何とか握り、銃口で睨み返す。
 まっすぐに僕を睨む彼の銃口と、震えて上下左右にぶれ、彼に睨みも利かせられない僕の銃口。殺人脳になっていない僕に、この金属は重過ぎた。

「……お、下ろしてくださいっ……! 僕達は、貴方を殺しに来たんじゃない……!」
「銃を構えたのは初めてですか? そんな状態では脅しにすらなりませんよ」
「それでも! 撃とうと思えば、撃てますっ……! 撃ち方だって勉強してきたんです!」
「では、その成果を見せてください」

 かちゃ。短い金属音が耳に届いた。銃口を自らのこめかみに押し当てている彼の姿が、脳に届いた。

 一瞬、全身が停止する。何故彼は自分に銃口を向けている? 僕はそんな予想はひとつも立てていない。普通は僕を目がけて銃弾が牙を剥くはずじゃないか。震える銃口と目標を見据えた銃口では、僕が負けるに決まっているじゃないか。
 分からない。分からない。何を考えているんだ。この男は一体何を。分からない。ちっとも分からない。怖い。悍ましい。この男は本当に人間なのか?
 がたがたと震える体。彼はそれを見ても、綺麗に笑っているだけ。

「貴方に私を殺す勇気がありますか? 一千万円を手にする勇気がありますか? この進化した国で生きていく勇気がありますか?」

 ――英雄になる勇気がありますか?

 そう言った彼は次の瞬間、何の躊躇いもなく引き金を引いた。

 鼓膜を大きく揺らす銃声。吹き出る真っ赤な鮮血。痛みや怪我を考えずただただ重力に従い音を立てて倒れる体。真っ青な窓ガラスに飛び散った赤。動かなくなった彼。僕の手から落ちる重い銃。走ってくる足音。乱雑に扉を開く音。大丈夫かとかけられる仲間の声。僕の肩を揺さぶる仲間の手。全て目の前の出来事なのに、何ひとつ現実だと感じられない。
 引き金を引くその瞬間まで崩れる事のなかった彼の綺麗な綺麗な笑顔が、頭にこびり付いて離れない。

「おい! お前がやったのか!?」
「……ちがっ……違う、僕じゃないっ……! 僕は何もしてないっ! あいつが、あいつが自分で――」

 あいつが自分で撃ったんだ。そう言おうとした瞬間に背後からの衝撃に突き飛ばされ、床に両手をついた。その衝撃にひとり納得をする。そりゃそうだよな。皆吃驚するよな。混乱するよな。急に銃声なんか聞いたら驚くよな。急に総理大臣が死んだなんて動揺するよな。そう思いながら混乱する脳を落ち着かせた。納得を与えれば脳は落ち着くと言い聞かせた。そして顔を上げ、皆にきちんとした状況説明をしようとする。
 だが僕が口を開くよりも先。僕の視界に飛び込んできたのは、彼の死体に群がる皆の姿だった。

「一千万! 一千万だぜ!」
「ちょっと! 私が一番先に来たじゃない!」
「いや俺の手の方が早かった!」
「おいふざけんなよ! この状況で独り占めはナシだろ!」
「分かった! じゃあ山分けしようぜ!」
「はあ!? ぜってぇ無理! 俺が全額もらうんだよ!」

 説得しようって言っていたじゃないか。殺すなんて良くないって。一千万円は魅力だけどこんな状況じゃ生活に困るからって。だから皆を代表して神里佑介を説得しようって。そう言っていたじゃないか。
 何で? どうして? 我先にと彼の死体に群がって、誰が報酬をもらうのかを話し合っているんだ。そんな話はしてなかったじゃないか。ただただ、日常を取り戻したいって。そう言っていたじゃないか。

 しかし混乱する僕を他所に、仲間達は口論から暴力へと発展する。もうダメだ。もう見たくない。見ていられない。釘を打たれたように外せなかった視線を、すっと皆から外した。
 すると今度はその皆のかたわらに視線が釘打ちされる。色とりどりの絵画や小箱。どう見たって総理官邸に入る前は持っていなかった物が多数転がっていた。どう見たって、ここにくるまでに盗んできた物が転がっていた。

「うるせぇんだよ! 俺の一千万だぞ! 全員ぶっ殺してやる!」

 暴力の渦中からひとりがそう叫んだのを合図に、僕は部屋を出て足早に出口へと向かった。出来るだけ何の音も拾わないようにと意識を足元だけに集中して。拾った銃を握り締めて、総理官邸を後にした。
 頭には未だに彼の笑顔がこびり付いている。死ぬまで離れそうにもない程、こびり付いている。「ほら言った通りでしょう?」と嘲笑っている。

 ああ、やはり僕達は彼に進化させられてしまったらしい。

 だってもう僕ですら、銃を捨てられない。


◇◇◇


 混沌の狼煙が上がった頃。SNSに一本の動画が投稿された。破壊に憑りつかれ、最早SNSにかまけている時間などなくなった強者はそれに気付かない。仮の安全地帯で震えているしか出来ない弱者にしか、その声は届かなくなった。
 再生ボタンを押すと、混沌を創造した彼の人がカメラに向かって手を振り、撮影が出来ているかどうかの確認をする。その後椅子に腰かけ、「これは事前に収録したものです」と前置きした彼の人は、自身の行った政策についてぽつりぽつりと語り始める。アンティーク時計の秒針がちっちっちっと規則正しい音を刻む。
 背後の大きな窓から見える空は、酷く青かった。

「そうですね。良い国にしたい。その為に皆さんに進化をしてほしい。それは確かに事実なんですが、何度も何度も考えてみると……存外、腹が立っていただけなのかもしれません。

別に未来だとか何だとかはどうでも良かったのかもしれない。

文句を言うばかりで何もしない皆さんが憎かったのかもしれない。

自分の意思で政治家になったつもりが、最初から私の自由意思なんてなかったのかもしれない。

私と言う自己とは何だったのかと思っただけなのかもしれない。

だから壊したくなっただけなのかもしれない。

となると私も創造ではなく破壊を選び、破壊に憑りつかれただけなのかもしれませんね」

 人間なんてそんなものですよ。

 画面の向こうの彼は、綺麗に綺麗に笑った。


end



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

「大規模デスゲーム」と、「思想の強い人が壊れた姿」を書きたくて、この話を書きました。
冒頭にも書きましたが、実在する人物や団体などには一切関係ありませんし、犯罪や差別などの助長・肯定の意図もありません。
ただただ、上記二点を書きたかっただけですので、あくまでフィクションとして楽しんでもらえれば幸いです。

普段は、ほのぼのショートショートを中心に書いていますので、下記からお暇な時にでも是非。

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