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小説:初恋×初恋(その11)


第八章 ホテル


ホテルのロビーに入ると相川さんは私をソファーに座らせ、受付のカウンターへと向かった。
そして私にカードキーを手渡し、一時間後食事にしようと言った。

私は相川さんが私を誘拐するんじゃないかという疑いを持ったことを恥じた。
でも一方で私にどんな要求をするのか、その疑問が残った。
身体要求説が浮上したが部屋を二つ取っている。
しかもちゃんとした、まっとうなホテルだ。
もしもそれが目的ならばそれなりのホテルに入って事を済ませるはずだ。
相川さんは私に何を要求するのだろう?
身体以外、私にどんな役割があるというのだろう?
一つの疑問にたくさんの不安がぶら下がっている。
そして何一つ解決していない。

私達は長い廊下を一緒に歩いた。
部屋は相川さんの隣だった。
「じゃあ、一時間後に」と相川さんは言ってドアの前で別れた。

部屋の中に入ると、大きな窓の外に海が広がっていた。
太平洋、と再び思った。
こんなに太平洋を身近に感じる事がこれまで無かった。
今までは無縁の存在だったのだ。
夕暮れの太平洋はどこか寂しそうだった。
私がいつも見ている夕暮れの海は、太陽が雲を真っ赤に染め大騒ぎをしながら水平線の彼方に沈んでいく。
そしていつまでも演奏の余韻のように残る。
太陽の居ない海は何だか寂しい。
まるで一人ぼっちだ。そしてまるで今の私。

でも明日の朝になれば、きっと出会える。
朝日が昇るなら、見てみたいと思った。
明日の朝、私はどうなっているのだろう。
本当に朝日を見る事が出来るのだろうか。
部屋はセミダブルのベッドがひとつにソファーがひとつ。
相川さんはこの部屋を私の為に取ってくれた。
もしかしたら相川さんは、ひとりになりたかったのかもしれない。
密かに他の計画を進める。
その為に部屋を別々に取った可能性もある。
相川さんの目的がわからない。

私は太平洋を見ながら今日の一日を振り返った。
相川さんの車に乗り込んでから九時間が経過しようとしていた。
その間私がした事と言えば相川さんの過去を聞いただけだ。
初恋の話し。
そしてその後の顛末。
与えられるミッションに関係があるのだろうか?
私に出来る事は限られている。
何が相川さんの心を後押しして、私を選んだのだろう?
この疑問を解決しない事には、今夜、一睡も出来そうにない。
海は段々と明るさが消え、暮れなずんでいる。
時計を見た。時間だと思った。
 

私達は最上階のレストランに着くと、窓際の席に通された。
テーブルは窓に向かって四十五度に配置され、私は相川さんの左隣に座った。
平日とあって客の姿はまばらだった。
照明は適度に暗く、テーブルの上にはキャンドルが灯り、周りには背の高い観葉植物が並び、まるで私達の為に用意された空間にみえた。
窓の外には海があるはずだ。
でも、暗くて何も見えなかった。
遠くに漁火が見えても良いのにと思った。
だけど音さえ聞こえない。
聞こえてくるのは、静かなクラッシック音楽。
それも会話を邪魔しないように音が絞られている。
かといって聞こえない訳ではない。
その中間的な丁度良さ。

相川さんがワインを選んでいる間、私は左手の海の方を見つつ右の相川さんの横顔を盗み見ていた。
この空間もまた、巧妙で人目に付かない。
私達を知る人は誰もいないし、目立たない。
それを考えすぎだと言えばその通りなのだ。
人目に付かないやり方は他に行く通りもあって、私だったら、いや私でさえ、わざわざこんな誰かに見られる可能性のある場所を選んだりはしない。相川さんはただ単に、快適なホテルに泊まり、美味し食事をしたかっただけなのだ。
そんな思い込みを自分にしていると、目の前でワインが注がれた。
心地よい音が耳に届く。そしてグラスを合わせる。

「何に乾杯?」と私は聞いた。
「久望子に」と相川さんは言った。
私が次の言葉を待っていると
「冗談だ。全ての初恋の為に」と言って笑った。

「私の仕事の為に」と私は言った。
そして「私はこれから何をすればいいのかしら?」と尋ねた。
相川さんは「全ては明日だ」と言った。
私が相川さんをじっと見ると
「不安な気持ちはわかる。その事については申し訳なく思っている。でも、今、詳しい事は言えない。今夜はゆっくり休んでほしい」
と言った。

全ては明日。私は深いため息をついた。それは思ったよりも大きく、私は周りを見回した。
近くには誰も居なかった。
「じゃあ、何の話しをしましょうか?」と私は言った。
相川さんは「続きを話そう」と言った。
今のところ、私達の唯一の共通の話題は初恋しかないのだ。
自分でもちょっと信じられないけど。


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