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小説:初恋×初恋(その10)


第七章 再会


仕事が落ち着いたら連絡すると言って東京に行った久望子からはずっと連絡が無かった。そして僕は僕で忙しい日々を送っていた。社会人になって右も左もわからずに、砂を噛むような毎日が続いた。先輩からは容赦ない罵声が飛んだ。何処の業界もそうだけど、師弟関係というのが根強かった。今のようにシステマチックじゃない。技を盗めというスタイルだった。それでも僕は粘り強く戦ったよ。いつか見返してグウの音も出ないほどやり返そうと思っていた。実際はやり返さなかったけどね。今にして思えば必要な期間だったと思う。あの頃の壁というのは、今でも役に立つことがある。仕事というのは壁を乗り越えて初めて成長するものだ。緩やかな丘を越えるような仕事をしていては決して成長はしない。

僕達の音信不通は二年間続いた。そしてある夜、久望子から僕のアパートに電話があったんだ。空港まで迎えに来て欲しいと。まるで申し合わせたように僕には時間があった。前日までは怒涛の忙しさだったのに、ぽっかり空いた夜だった。彼女は大きなキャリーバックで僕の前に現れた。その姿は僕が今まで知っていた久望子とは全く違っていた。目の前にあるあのちっぽけな島で育った女性には、まるで見えなかった。服装、髪型、化粧、全てにおいて洗練されていた。彼女が全く違う世界に行ってしまった事を僕は目の当たりにした。僕と彼女は二年間で大きく離れてしまったんだ。何もかもが」
そう言い終わると、相川さんはしばらく島の方に目をやった。

「あの島に行ってみたいわ」と私は言った。

「時間がないんだ」と相川さんは言った。
相川さんには予定というものがあるらしい。きっと決められたものに従って動いているのだろう。
行き先も時間も明確なのだ。そしてそれを私は知らない。
「それから?」と私は言って、話しの続きを待った。
相川さんは島から私の方へ視線を移し、再び話し始めた。
 

僕らは再会した。彼女の意志で。その事実は僕にとって大きな喜びだった。暗いだけの毎日に一筋の光が射した。僕は彼女の大きなキャリーバックを車に乗せて初めて久望子とトライブをした。車というのは男女を親密にさせる。狭い空間で二人。手を伸ばせば届く距離。僕は何人もの女の子をそうやって口説いてきた。でも彼女に限って言えば、それは例外だった。
僕は相変わらず久望子との距離を縮める事が出来なかった。彼女は僕に東京での生活を語った。どんなところに住み、どんな仕事をし、どんな休日を過ごしているのか。それは僕が毎日過ごす、変化のないただ風化していくだけの毎日とは全く違っていた。カラフルでパワフルで情熱に満ちていた。
若くして成功した人生そのものだった。もちろん彼女は自慢話をしに来た訳ではない。でも特別僕に会いに来た訳でもなかった。女友達に会いに来て、そのついでに僕に連絡を取っただけだった。もっと言うなら空港から友達のマンションまでの移動手段だった。僕の有頂天はどこかへ消えてしまった。気持ちが顔に出ないか心配した。
でも、そう思った時にはもう遅かった。そんな顔しないで、と久望子は言った。そして彼女は僕に電話番号を渡してくれた。まだ携帯電話なんて無い時代だ。固定電話の番号だった。羽田の近くに引っ越したのよ、と彼女は言った。ハトが巣を作って困るけど職場まで近くて便利な場所だと。僕は彼女の後ろ姿を見送った後、今までには無かった彼女との溝を感じた。それは小さな溝だったのかもしれない。でも、深くて暗い溝だった。

それでも僕は彼女との関係を再開し、丹念に続けた。僕には彼女の電話番号があり、運が良ければ繋がった。僕らは色んな話しをした。深刻ではない、けれど親密な日常の出来事。彼女の話しは耳に心地よかった。そしてリラックス出来た。僕は彼女と繋がる事で、現実の世界から逃れる事が出来た。そして彼女との世界を共有することが出来た。彼女と一緒に人生を歩んでいると錯覚した。あの頃の僕はそれだけで満足だった」

「あの島で産まれたのね。久望子さんは」と私は言った。

「ああ」と相川さんは言った。

「やっぱり行ってみたいな。どんな島なのかこの目で見てみたい」

「昔、倭寇の巣だったらしいよ。中国や韓国に遠征して、色んなものを奪ってきた。もちろん宝物と一緒に女も。だからあの島の人達は美形が多い」

「それって本当の話し?」

「いや、僕がたった今思いついた作り話だ」と言って相川さんは笑った。

「久望子さんって綺麗だったの?」と私は聞いた。

「ああ、綺麗だった。誰もが振り返るくらい綺麗だった」

「手ではなくて」

「もちろん手ではなく脚でもない。高校生の僕にそんな趣味は無かった。そういう場所に目が行くようになったのは大人になってからだ。でも、彼女が本当に美しかったのは、顔じゃないんだ。顔に心を奪われてしまったけど、彼女の魅力はもっと他にあった。それを僕は見つけたんだ。でもそれは長い間彼女に接していないとわからない。言葉では言い表す事は出来ない。それは心です、なんて月並みなものではない。もっと深いものなんだ。出来たら月子にも会わせたいくらいだ。もしも月子が久望子に会ったら、きっと好きになる。そしてもっと側に居たくなる。そんな女性だ。同性から好かれ、同性を大切にする。それが久望子だった」
そう言い終わると相川さんは再び車のエンジンをかけた。
時計を見た。
午後の三時になっていた。
 
それから私達は山を越えトンネルを抜け、相川さんと久望子さんが高校生活を過ごした街を通り、高い煙突を右手に見ながら大きな橋を渡った。
そしてしばらくの間、海岸線を走った。再び太平洋。海岸線から水平線まで島ひとつない。そして怖いくらい青い海。でも海の景色を楽しむ余裕が私には無かった。夜の事で、頭が一杯だったからだ。
今夜、相川さんと二人で何処かに泊まる。私はどんな要求をされるのだろう。もしかして、身体を要求されるのだろうか。もしそうなったとしても私に拒否する権利はない。
そういう約束なのだ。
それ相応の対価をもらう事になっている。
拒否出来る訳がないのだ。
でもそれが目的ならば、私である必要がどこにあるのだろう?
もっと魅力的な、それ相応の人が居るはずだし、そういうシステムが存在するはずだ。
わざわざ車で連れ出し遠くへ行き、何かをさせるのか、するのかわからないけど、いずれにしても私である必要が何処にあるのだろう?
もしかして私は殺されるのだろうか。いや、私なんて殺しても一銭の得にもならない。だとしたら何処かへ売り飛ばすのが目的なのだろうか。
たとえば中東のお金持ちの家に奴隷として。もしも誘拐が目的だとしたらそれは理にかなっている。
私は相川さんに携帯の番号を教えていないし、相川さんの番号も知らない。単なる口約束だけで私は今日、あの待ち合わせ場所に行ったのだ。
私達の接点はあの赤坂のスタバだけだ。
相川さんはあの店の常連だと言っていた。でもそれが嘘だったら、私達を目撃した人はほとんど居ない事になる。
見たとしても印象には残らないだろう。
ガソリンスタンドにも行った。
あの時、相川さんは妙によそよそしい態度だった。
今考えると、見られることを避けていた気がする。
私は相川さんに、スタンドのお兄さんに私達がどういうふうに見られていると思うのかを聞いた。
あの時、相川さんの顔は一瞬、緊張したように見えた。
休憩もほとんど取らなかった。
閑散としたレストランでコーヒーを飲んだだけだ。
私達は誰からも見られていない。見られたとしてもほとんど、印象に残らない。
そして私が失踪しても誰も探さない。
しばらく帰らないと、置手紙を残してきたからだ。
その事を相川さんは知っている。
だから、選ばれたのか。

「どこに向かってるの?」と私は聞いた。
声が上ずってるのが自分でもわかった。
相川さんは目の前のホテルを指し「着いたよ」と言った。
六時を過ぎていた。

それは松林の中で一段とそびえたつリゾートホテルだった。


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