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小説:初恋×初恋(その9)


第六章 男女交際(つづき)



「良く晴れた冬の午後だった。毎日予定と言うものを持たなかったけど、その日は特に何もない日だった。僕は大濠公園の側の一本道を西から東へ歩いていた。彼女は東から西へと歩いていた。遠くからでもそれが久望子だと直ぐにわかった。そして今だから言えるのだろうけど、そんな予感がしていたんだ。彼女に再会する予感が、福岡に来てからずっと。

 僕は近づいてくる彼女に声をかけた。不思議なくらい躊躇なく自然に。彼女は僕の方を向き、そして目を合わせた。しばらく間があった。僕を僕だと理解するのに時間がかかったのかもしれない。やがて顔をほころばせた。穏やかな微笑みだった。旧知の間柄みたいに彼女は言葉を返した。それは初めて交わす、血の通った会話だった。高校一年の渡り廊下で交わした息の詰まる様な会話とは全く違っていた。久望子は僕の為に僕の目をみて言葉を紡ぎ出してくれた。話題は尽きなかった。僕達は故郷が同じで共通の知人が居て、何より知らない土地に二人きりだった。公園のベンチに並んでいつまでも話しをした。まるで恋人同士みたいに。他人が見たらそう見えたのかもしれない。肩をならべて。親密な空気が僕らを包んだ。いつまでも続けば良いと思った。でももちろんそれは叶わなかった。彼女は他にするべき事があった。普通の人は予定を持っていてそれに基づいて行動する。当たり前の事だ。もうそろそろ行かないと、と久望子は言った。そしてメモを僕に手渡した。彼女のアパートの電話番号だった。僕は手渡されたメモをポケットに入れた。こんなにちっぽけなものがこんなに愛おしいと感じる心が、まだ僕の中に残っていたんだと思った」

「それは相川さんが幾つの時だったの?」

「二十歳。高校を卒業して二年近く経っていた。」

「その時もまだ、行きずりの彼女と暮らしていたのかしら?」

「もう、アパートを借りて一人で住んで居た」

「久望子さんとはどうなったの?」

「彼女は忙しい毎日を送っていた。電話しても繋がる事は滅多になかった。繋がっても、いつも予定に縛られていた。僕の誘いなど目もくれなかった。かと言って他に男がいるようには見えなかった。彼女は夢を叶える為に生きていたんだ

「それは何だったのかしら?」

「同時通訳。世界中を飛び回る事が彼女の夢だった」

「その当時、相川さんは何をしてたの?」

「僕は久望子と再会した時、アルバイトで生活を繋いでるだけで何の目的もなく暮らしていた。季節は冬だった。四月まであと二ヶ月しかなかった。僕にも彼女と対等になれるだけのはっきりした目標が必要だった。なりたい職業がおぼろげにはあった。写真家か脚本家になりたかった。二十歳になったばかりの冬、紀伊国屋書店に通った。エスカレーターを上がってすぐのところにいつも、税金関係の本が並んでいた。手に取る回数が増えるにつれ、段々と興味が沸いてきた。そして税理士になる学校に行く事にしたんだ。もしエスカレーターを上がってすぐのところの平台に建築の本があったら、僕は今頃、建築の世界にいたのかもしれない。コンピューターの本があったのならプログラマになっていたのかもしれない。でも税金の本があった。だから税理士になった

「でも、写真や脚本にも興味があったんでしょ?」

「ああ。でもなれないと思った。狭き門だし、才能が有るのか無いのか、わからなかった。本を読んでもなり方が今一つわからなかった。たとえなり方がわかっても、なれる保証なんて何一つ無かった」

「でも、税理士の資格を取って立派にやっているじゃない」

「そうだね。まあ、運が良かった。でも、努力を積み重ねれば誰だってなれる。ある一定の学力と根気と気力と要領があれば、大抵の人は合格出来るんだ。もちろん、例外があることはわかる。ずっと合格出来ずに挫折した人が居る事もわかる。でもたとえば脚本家になる努力をしても、それだけでは補えない、越えられない壁がある。それに脚本家を世間はそれほど必要としていない。ある特定の人達が必要としているだけだ。つまり需要が少ない。そして壁を超えるには特別な才能がいる。結局僕は成果の出やすい職業を、ずるい大人の選択をしたんだよ」

「そこだけは大人だったのね。でも私から見たら脚本家よりも税理士の方が魅力的だけど。味方にしたら心強いわ」

「月子、税理士を味方にして心強いのは、ある一定以上の稼ぎのある人だけだ」
相川さんはそう言うと、私を見て笑った。私は悔しくなって意地悪な質問をした。

「その複数つきあっていたという彼女たちとは、久望子さんの登場で全員と別れたのかしら?」相川さんは一瞬固まって、小さなため息ついた。

「僕はそんなに強い人間じゃない。弱くてずるくて薄っぺらな人間なんだ。その頃はもう、歩未の事を忘れる為に複数の女とつきあっているんじゃなかった。僕の中に眠っていた、だらしない部分が目を覚ましたんだ。そして二度と一人にはなりたくなかった。あんな辛い思いをするのはもう耐えられないと思った。僕は色んな女の子を上手く口説く事が出来た。どこにそんな才能が隠れていたんだろうと自分でもびっくりするくらいにすらすらと台詞が出てきた。しかもとびっきり上手い台詞が。何人かが僕から出て行ったけどすぐに何人かが僕の元にやってきた。

でも、久望子の前に行くと僕は何も出来なかった。数少ないチャンスだったのにどうでも良い事を延々と話し、いつも平行線のまま終わった。僕は彼女の事が好きだった。彼女の心が欲しかった。こんな気持ちは高校生の時以来だった。あの心の震えを取り戻したことが嬉しかった。僕は久望子に好きだと言う気持ちをちゃんと伝えたかった。彼女とどうなりたいとかそんな事までは考えられなかった。でも一方で僕は怖かったんだ。親密になりつつある状態が僕の一言で壊れてしまうのではないかと。そして僕はいつも手をこまねき、結局は平行線のまま彼女の東京行きの日を迎えた。彼女は遠い所へ行ってしまった。僕の手の届かない遠い場所へ

そう言い終わると相川さんは、コーヒーを口に運んだ。そして最後の一口を飲み干した。

「それが二十二歳の時だったのね」と私は言った。

「ああ、二十二歳の春だ。僕は専門学校を卒業し、福岡の税理士事務所に就職した。彼女は大学を卒業し東京の総合商社に就職した。彼女は夢の切符を手に入れた。世界を股にかけて仕事をするという夢。僕は現実を選んだ。彼女は最後まで諦めなかった。結局僕たちの間で離れたのは距離ばかりじゃなかった。人生に対するスタンスも大きく離れていったんだ」

相川さんはそう言い終わると、持っていたカップをテーブルに置いた。コツリという音が私達以外誰も居ないレストランに響いた。眼下には変わらず太平洋が太陽の光を反射させていた。陽はまだ高かった。

「こんな事言ったって、何の慰めにもならないと思うけど、今の私よりもその頃の相川さんの方がましよ。今の私には定職も収入もない。好きな人には裏切られ、信頼していた住人にさえ裏切られた。味方は誰も居ない。そして今、昨日まで知らなかった人と行き先のわからない車に乗ってここに居る。そんな私よりも、その頃の相川さんの方が幸せだわ。きっと」

「そうかもしれない」と相川さんは言った。
そして「それでもあの頃の僕は……」と言ったきり、何も言わず海を見続けた。それからしばらく経って「ありがとう」と言い、私の頭を撫でた。

私はまた涙が出そうになるのを我慢した。そして今度は上手く行った。相川さんの顔を見ながら今の私がその頃の相川さんに出会っていたらどうなっていたのだろうと考えたりした。信頼していた彼女に裏切られ、誰かを傷つける事でしか生き続ける事が出来なかった男。一方で初恋の女に絶望的に恋をしている。そして気持ちが上手く伝えられない。そんな男に今の私が出会っていたら、果たして私は相川さんに恋をしていたのだろうか?あの頃の相川さんは、どんな台詞で私を口説き、彼女の一人にしたのだろうか?そもそも、相川さんの恋愛基準って何だろう?女なら誰でも良かったのだろうか。そこには自分の好みは反映されていたのだろうか。

「その頃の相川さんの恋愛基準って何?」と私は聞いた。
相川さんはしばらく考えを巡らせてから「手の綺麗な人かな」と答えた。

私は自分の手を眺めた。白くて細い指は母から譲り受けた。家事をしても荒れない手は祖母から引き継いでいるのかもしれない。左手首から手の甲にかけてある真っ直ぐな深い傷は、幼い頃に父の工場で怪我したものだ。

「私ってどう?」と言って、相川さんに右の掌を差し出した。相川さんは私の手も見ずに「だから昨日声をかけたんだ」と言った。

私に与えられる仕事に関係あるのだろうか。それってどういう意味?と思ったけれど怖くて聞けなかった。私は左の掌を目の高さで眺めた。そしてゆっくりと百八十度回転させた。この傷さえなければ良いのにと思った。

 私達は別府湾を出ると硫黄のにおいのする高速道路を走った。途中、ゴルフ場の側にある金網で作られたトンネルをくぐった。でもゴルフボールは一球も飛んで来なかった。相川さんはずっと黙ったままだ。時折ガムを噛み、一通り味わうと捨てた。タバコは吸わない人なのだと思った。目の前を流れる風景に特別なものは何も無かった。高速道路を降りて大分の市街地に入り、しばらくは賑やかな街並みが続いたけれど、左折して一車線の道路に入ると一気に殺風景となり、山と空と目の前の道しかなく、時折川が現れ、しばらく並走し、いつのまにか何処かへ行ってしまうの繰り返しだった。私は相変わらず何処へ向かっているのか解らないでいた。私の拘束は明日までだ。明後日には自由になれる。そして生活費が手に入る。そのことはとても大きかった。その事が無いと、いくら頼まれても付いて来たりはしない。私達はそういう関係なのだ。風俗嬢と同じ。肉体を酷使せずに済みそうなのは私が有利だが、出口が見えない分私が不利だった。でもここまで来たら途中で放り出すことは出来ない。ここから帰る術さえ知らないのだから。

私は相川さんの横顔を盗み見た。そして今夜、どうするのだろうと思った。時計を見た。午後二時を少し過ぎていた。そして港に着いたのはそれから一時間後の事だった。
相川さんは目の前の島を見て「久望子が生まれ、中学まで過ごした場所だ」と言った。私はその島を見て何か不吉なものを感じた。相川さんはその島と対峙しながら再び話し始めた。


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