魚屋
通勤電車 点と点を結ぶ長いけれど狭い世界で起こった物語 ほとんどがフィクションです。
帰省先で僕は、偶然、同級生だった美沙岐と再会する。 それから濃密な六日間が始まる。
シェアハウスの管理人 月子は不思議な男に買われた。そして初恋にまつわる冒険がはじまる。
図書館は昔から好きな場所だった。 だけど昔から読書が好きだったわけじゃない。 子供の頃はうだる夏の中、よく涼みに行った。 御影石の床に寝そべると、ひんやりして気持ち良かった。 司書のお姉さんに見つかってよく怒られた。 でも僕たちは仲良しだった。 高校生の頃はデートの場所だった。 僕たちは厳しい大人たちの目を盗んで同じ時間と空間を共有した。 それだけで満足だった。 高校を卒業して僕は少しだけ大人になった。 絶望を経験し闇の中を歩いた。 そして光の道標として、または一つ
「魚屋じゃないのね」と言われて、がっかりされることがある。 どうやら本当の魚屋さんは女の子にモテるらしい。 子供の頃の朝早くて重労働なイメージを引きずってしまっていた。 いまどきの魚屋さんはスマートなのだ。 何と言ったって高級な食材を扱っている。 ビジネスで成功している人も居る。 だからモテるのか? ああ。でも僕には無理だ。魚をさばくのが苦手なのだ。 だから大好きだった魚釣りも辞めてしまった。 だけど僕は、長い間ペンネームを「魚屋」と名乗っている。 そこには明確な理由があ
夢を見た。女の子の夢だ。綺麗だった。 感触があった。手触り。肌ざわり。どちらでもない。 でも触れ合った。心のふれあい? ざらりとしているけど心地よい。 女の子の夢をみた。 寝起きは清々しかった。ただ、覚えていないだけだ。 何を話したのか。どんな姿だったのか。 どこへ向かおうとしていたのか。 たぐりよせようとしたけど間に合わなかった。 彼女は遠い目をして離れていった。 存在だけを残して。 長い間生きていても、わからないことはたくさんある。 いや、長く生きているからこそ、わか
下足棟でデートしたことがある。 高校の頃の話だ。 今考えると、全然ロマンティックではなかったんだけど……。 朝課外が始まる前、僕は早起きして下足棟に向かった。 静まり返った誰も居ない下足棟。セーラー服と学生服。 キスもしたことがない付き合い始めたばかりのカップル。 僕達は手紙の受け取りの為に朝早く会う約束をしたんだ。 (まだメールも携帯電話もない時代だった) それはデートとは呼べないのかもしれない。 逢瀬の時間は僅かだった。 手紙を手渡しで受け取るだけの作業。 それでも僕
僕にとって「知っている」と言うのは、本当に理解しているという事だ。 定義と言ってもいいかもしれない。 だから「知っている」と言われたら僕はとことん質問してしまう。 そして「そんな事まで知っているわけないだろ」と、言われる。 重箱の隅でもつつくような質問を執拗に繰り返すと思われてしまう。 悪意を持って。そんなつもりはないのに。 逆も然りだ。僕が「知らない」と言うと「そんな基本的な事も知らないのか」と言われてしまう。 そしてそこで会話が終わる。 僕も訂正しようとはしない。 だっ
連日、一平さんのニュースが流れている。 「違法賭博を行いその借金を他人の口座から送金したらしい」 という事件だ。 彼が日本で普通の仕事をしていたら 「ただのギャンブル依存症」だったんだろうなと思った。 たまたま超有名人の通訳で表舞台に居た。それもかなり目立つ舞台に。 僕が若い頃、友達がギャンブル依存症だった。 でもそんな事はちっとも知らなかった。 彼とは転職先で知り合った同僚で仕事上とても世話になった。 頭が良くて優秀で、社員からの信頼も厚かった。 僕達はチームとなり色んな
僕がまだ高校生だった頃。 自転車で彼女の元に向かった夜。 僕は彼女の部屋の前に立ち、明かりの付いている 部屋の窓に向かって小石を投げた。 小石は窓に当たると、思ったよりも大きな音でトタン屋根を転がった。 しばらくすると彼女が窓から顔をのぞかせた。 大きな瞳を細めながら、見上げる僕に微笑んだ。 僕の吐く白い息がくっきりと夜の空に浮かんだ。 僕らは見つめあった。 はかない時間を共有した。 それは本当にはかなかった。 流れ星よりもはかなかった。 空を見上げると星がきらめいていた
「心は元気なのよ」と彼女は言った。 それは年賀状だったりメールだったり会った時だったりした。 「身体はボロボロだけど、心は元気よ」と。 彼女とは学生の時、研究室で知り合った。 そこには何人かの学生が居たんだけど、二人で同じ研究テーマを扱う事になり、結果一年間一緒に過ごした。 彼女は優等生で僕は劣等生だった。 彼女は朝早く来ていたけど僕はいつも遅刻していた。 そして彼女は処女だった。それはちょっとしたゲームでわかった。 好きな二けたの数字を思い浮かべて、ある一定の法則に従っ
毎年の事だけど、元旦の朝に初日の出を見に行く。 ここ何年かは天候に恵まれて水平線上に太陽の姿を見る事が出来ている。 初めてそれを見たのは子供の頃だった。 暗かった水平線が一直線に赤く染まり、太陽が顔を覗かせ、 光の帯が真っすぐこちらに伸びて波打ち際を赤く染めた時、 何かが僕の中を打った。 それは初めて体験したある種の快感だった。 きっと僕はそれが欲しくて毎年ここへやってくるのだ。 今年も海岸で焚火をしている人が何人か居た。 暗い波打ち際を照らし待っている。 いくつもの目が
「少ししか食べないから食事に誘って」という台詞を聞いた時、女の子からこんな風に誘われて断れる男は居るんだろうか?と思った。 友達以上、恋人未満の男女に、または友達になったばかりでこれから関係を深めたいと思っている男女に、とても有用にも思われた。 そして何よりこの台詞が気に入った。 直球ではなく分かりにくくもなく媚びることなく機知に富んだ言い回し。 まるで魔法だと思った。 若かった僕は早速実践してみた。 当時、会社の同じフロアに別会社の気になる女の子が居たんだ。 廊下ですれ違
何も足さなくて良いからと飲み始めたのがワインだった。 焼酎やウイスキーは水や氷を足す。 ビールは一度空けたら飲み切らなくてはいけない。 日本酒は温めなくてはいけない。冷酒という選択肢はあるけど、冷やすという手間がかかる。 合理的なのである。 最初は3本1000円のものを飲んでいた。 (デフレな良い時代だった。最近見かけなくなったけど) でも決して美味しいものではなかった。澱のようなものが舌にまとわりついて後味が悪かった。バカ舌な僕でも理解できた。 そして一本が500円になり
長い通勤電車生活の中で一度だけ、乗り合わせた女の子とデートをしたことがある。 もう忘れそうなくらい昔の話だ。 彼女は僕が電車の中程で吊り革に捕まっていると、途中の駅から乗車してきた。 きっと始まりはあるんだろうけど、いつからなのかはわからない(寒かったから冬だと思う)。 朝のぼんやりとした頭でいると、明確な線が引きづらいんだ。 でもいつしか意識するようになり、楽しみになった。 それはひとえに彼女の顔が美しかったからではあるけれど、もう一つ、吊り革を握る手が魅力的だったから
この短編小説のようなものは、下記の定点観測から派生した物語でもあります。 さくらは怒っていた。誰でもない、自分に怒っていたのだ。何故あの時、すぐ彼女の質問に応えてあげなかったのか。外国人旅行者である彼女の質問に私は黙ったままでいたのか。 彼女は助けを求めていた。 「空港で彼が待っている。彼はスマホを持っていない。私が彼のスマホを持っている。だから空港に連絡して私が遅れる事を伝えて欲しい」 彼女はつたない英語でそう言った。私にではなく、私の隣にいた駅員に。 だけど彼はそれに
電車が駅のホームに滑り込み停車する寸前、左斜め四十五度に立っていた女の子が仰向けに倒れた。それは突然だったけど、朝早い通勤途中で音楽を聴きながら仕事の事を考えていたので、一瞬何が起こったのか理解するまで時間がかかった。 隣に居た年配の男性が慌てて彼女を抱き起した。彼はいかにも老人で古いタイプの背広を着ていた。まるで活動写真を見ているようだった。次いで中年の女性も心配そうにかがみこんだ。その女性は初めて見る顔ではなく何度か電車で乗り合わせている名前は知らないけど顔は知って