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短編小説:夜の散歩をしないかね

僕がまだ高校生だった頃。
自転車で彼女の元に向かった夜。

僕は彼女の部屋の前に立ち、明かりの付いている
部屋の窓に向かって小石を投げた。
小石は窓に当たると、思ったよりも大きな音でトタン屋根を転がった。

しばらくすると彼女が窓から顔をのぞかせた。
大きな瞳を細めながら、見上げる僕に微笑んだ。
僕の吐く白い息がくっきりと夜の空に浮かんだ。
僕らは見つめあった。
はかない時間を共有した。
それは本当にはかなかった。
流れ星よりもはかなかった。
空を見上げると星がきらめいていた。

彼女は窓から一瞬居なくなるとマフラーを片手に再び現れた。
水色だった。
それを僕に向かって投げた。
小さな曲線を描いた。
僕はその手編みのマフラーを首に巻いた。

彼女の唇は「ちょっと待って」と言って再び窓から姿を消した。
今度はなかなか現われなかった。
すぐ側で扉の開く音がした。
小さな足音。
彼女は僕の前に姿を現した。

「寒かったでしょ」と彼女は言った。
僕の耳に手を当てた。
彼女の手の温もり。
とても暖かかった。
僕は自転車にまたがったまま、じっとしていた。
彼女は一段高い土間に立っていた。
彼女の腰に手を回しそっと抱き寄せた。
彼女の身体も暖かかった。
薄着なのに暖かかった。
「寒くない?」と僕は聞いた。
彼女は黙ったままだった。
黙ったまま動かなかった。

ふと顔を上げた。
彼女の赤い唇。
その唇にそっと口をつけた。
それは何よりも柔らかく暖かかった。
今までのどんなキスよりも。
彼女はそっと僕から離れ
「誰かが見てるかもしれない」と言った。

「夜の散歩をしないかね」という楽曲を聞くと、
このささやかな夜の出来事を思い出す。
僕達は若く未熟で、それでも大人だった。
大人になりたての大人だった。
身体の成長に戸惑い心の成長が追い付かず、受験と恋に翻弄された。
やるべきこととやりたいことが微妙にずれていたのだ。
(具体的に言うと、彼女の両親に受験生と言う理由で交際を反対され、教師に説教され、会うことを禁じられていたんだ)

今の僕に当時の彼らへかける言葉は何もない。
本当に何もない。
人生に正解は無く手探りで進むしかないのだから。

それでも思うんだ。
あの瞬間は美しかった、と。

当時の彼らは知らないだろうけど。

追伸
「夜の散歩をしないかね」作詞 忌野清志郎


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