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短編小説:二人目の男

「心は元気なのよ」と彼女は言った。
それは年賀状だったりメールだったり会った時だったりした。
「身体はボロボロだけど、心は元気よ」と。

彼女とは学生の時、研究室で知り合った。
そこには何人かの学生が居たんだけど、二人で同じ研究テーマを扱う事になり、結果一年間一緒に過ごした。
彼女は優等生で僕は劣等生だった。
彼女は朝早く来ていたけど僕はいつも遅刻していた。
そして彼女は処女だった。それはちょっとしたゲームでわかった。

好きな二けたの数字を思い浮かべて、ある一定の法則に従って計算すると必ず9になるというやつだ。
例えば59だと一の位と十の位を足す。5+9=14だ。そして最初思い浮かべた数字から今の答えを引く。59-14=45となる。そしてその答えが二桁なら、また一に位と十の位を足す。そうすると必ず9になる。

「好きな二けたの数字を思い浮かべて」と僕は言った。
彼女は怪訝な顔をした。
僕は女たらしと評判で、我々の間には壁があったのだ。

「なんで?」と彼女は聞き返した。
「結婚する歳がわかるらしいよ」と僕は言った。
彼女は前のめりになった。
「本当に?」
「たぶん。多少の誤差はあるだろうけど」
彼女は少し時間をかけてうなずいた。
僕は計算の方法を伝えた。暗算が苦手らしく、僕に見えないように紙と鉛筆を使った。そして再び僕を見てうなずいた。

「じゃあ、その答えに初体験の年齢を足して」と僕は言った。
再び怪訝な顔になった。
本当にこんな事で結婚する年齢がわかるの?という目だった。

「これって経験が無い人は自分の年齢を足すわけ?」と彼女は言った。
「いや、経験が無い人は何も足さなくていい」と僕は言った。
しばらく間があった。

「答えは?」と僕は聞いた。
「9」と彼女は答えた。
「9?」僕は聞き返した。
「まだ、経験が無いって事?」僕は重ねて聞いた。
彼女の顔が赤くなった。
「みるみる」という単語がぴったりとあてはまるくらい急激に。
「キスもないってこと?」僕は恐る恐る聞いた。
「だって、つきあったことないもん」と言って彼女は部屋から出ていった。
それから一か月、一言も口をきいてもらえなかった。

僕はその一か月の間、特に何の努力もしなかった。
謝ることも、機嫌を取ることも。
同じ研究室に居て、同じ課題をするわけだから、話をしない訳にはいかない。
僕は必要な事を伝えた。
彼女は頷くか首を振るか、もしくは紙に答えを書いた。
もちろん彼女に対して申し訳ない事をしたとは思っていた。
人前で恥をかかせた。あんな質問をするべきではなかった。
壁を取り払うつもりが深い溝を作った。
でも素直に謝れるほど大人でもなかった。

一か月後、彼女は僕に対して言葉を発するようになった。
筆談では限界があったんだ。
一度そういう流れが出来てしまうと、徐々に言葉の数が増え、最低限ではあるけれど普通に話すようになった。

彼女は誰もが振り返るような美人ではなかったけれど、綺麗な人だった。
何人かが彼女に告白をした事を後で知った。
クラスで一番ではないけど、二番目か三人目に可愛い女の子。
そういう位置づけだった。
ただ彼女に対して性的に女を感じる事は最後まで無かった。
それはきっと僕達の出会いが最悪だったからだと思う。
僕は完全に嫌われ軽蔑されていると思っていたし「彼女を口説く」という発想にたどり着けなかった。
それに「女」という位置づけをするよりも「友達」としての方が自然だった。

僕達は四六時中一緒に居て映画や音楽や小説など色んな話をした。
彼女は古いコメディ映画が好きだった。
トムハンクスの初期の映画。
ビック、マネーピット。どれも彼女から教えてもらった。

代わりに僕は今までの恋愛の話をした。
彼女は興味津々だと思う。
なにしろ一度の恋愛経験がないのだから。
僕は調子に乗って、色んな話をした。
そして最後にいつも「最低ね」と言った。
それでも僕達の友情にひびが入ることはなかった。

彼女の方も「男としては最低だけど、友達としてはまあまあな人ね」と思ってくれている節はあった。
僕達の関係は卒業して就職してからも続いた。
お互い設計事務所の新人という同じ境遇にあり、同じ悩みを抱えていた。
僕達はよく、飲みに行った。
悩みを共有して助け合った。
そして僕はその時つきあっている女の子の話をした。
でも、もう「最低ね」とは言わなかった。
そういう世界もあると理解しようとしていたんだと思う。
そしていつしか僕の最大の理解者となり、僕達は親友になった。
異性でただ一人の親友に。

頻度は減ったものの僕達の友情は続いた。
そして十年くらい経ったある日、彼女から彼氏が出来たと告白された。
その時はさすがに、とても言いにくそうだった。

「年上なのよね」と彼女は言った。
「どのくらい?」
「どのくらいだと思う?」はにかむ彼女を初めて見た。
「一周りくらい?」
「二周りくらい」
「ほー」と僕は言った。
びっくりはしたけど、納得もした。
彼女が心惹かれる男というものをこれまで想像したことが無かったけれど「何か普通ではない要素」が必要だったとは思っていた。
その男は芸術家で彼が運営している陶芸教室に通ううちに付き合い始めたという事だった。
だけどそれ以上深くは聞かなかった。
(初体験はどこでどういう風にして、痛かったとか最初から気持ち良かったとか、そういう、いつも僕が誰かに聞いてるような事だ)

それから一年後、再び彼女に会った。
「別れたのよ」と彼女は言った。
「ロスに行ったの。彼の拠点がそこだったから。なかなか連絡がつかなくて、突然訪ねたの。そしたらね、奥さんが居たのよ。アメリカ人の。大騒ぎになったわ。そしてとんぼ返り。もう何も信じられないわ」
「それはよくある事なんだよ」とは言わなかった。
「突然訪ねて行くのはルール違反だ」とも。
それでも彼女は一応の大人になったみたいだった。
第一歩を踏み出し、終わらせる事が出来たんだ。

次に彼女に会ったのは駅だった。
遠距離恋愛中の女の子に会いに行く新幹線の中で彼女に偶然会ったんだ。
彼女は集団の中に居た。
どうやら宗教的な集団のようだった。
聞いたことのない名前だったけど、よくあるパターンだった。
お札とか本とか仏像を高額で買うやつだ。
彼女はそれにすっかりはまっているようだった。
失恋が尾を引いているのかと思った。
「これを持ってて」と言ってお札をくれた。
そして僕の為にお祈りをしてくれた。
新幹線の中で。

時間があったから、僕が向かう場所で待っている女の子の話をした。
一周り年下で婚約者がいるけど僕と寝ている女の子の話だ。
「良い人生ね」と言って、くすくすと笑った。
「そういうの、以前は理解できなかったけど、それがあなたの生き方なのよね。良いと思う。応援しているわ」そう言って彼女は集団に帰って行った。

それを境に彼女からの連絡の回数が減った。
それでもたまにメールが来た。
そして最後に「心は元気」と付け加えるようになった。

3年後、僕達は会った。
「手術したのよ」と彼女は言った。
そして頭を覆うような帽子をかぶっていた。
「だいぶ元気になったのよ。一時期は大変だったけど」
どんな病気かはだいたい想像がついた。
でも彼女はそれ以上何も言わなかった。
僕も何も聞かなかった。
ただいよいよ帰る段になって彼女は僕の手に手を重ねた。
それは暖かくも冷たくもなかったけど生身の彼女の手だった。
彼女に触れたのはそれが初めてだった。
僕達の歴史の中で、言葉は何万回も交わしたけれど実際に彼女に触れるのは初めてだった。
それがどれくらいの時間だったのかわからない。
彼女は何かを確かめて、納得したみたいにそっと手を引いた。
僕はいつものように彼女を駅まで見送った。
そしてそれが彼女に会う最後になった。

明くる年の年賀状に彼女からのものが無かった。次の年も。そしてその年の春、僕は彼女の両親からの手紙で彼女の死を知った。

あれからもう、随分と時間が過ぎた。
彼女の事を思い出す事はあまりなくなった。
「男女間の友情は成立するか」という題の文章が投稿されていて、彼女の事を思い出していたら囚われてしまったようだ。
ここのところずっと、彼女の事を考えていた。
そして文章にしてみた。

僕達は親友だった。
一度も彼女に性欲を感じた事はなかった。
でも友情は感じていた。
そう、同性の友達よりも彼女の事が信頼できたし、通じ合えていた。
でも、と思う。

あの日の出来事を思い出す。
最後に彼女に会った夜。
僕の手にそっと手を重ね、何も言わずにいた時間。
彼女は僕に何かを求めていた。
何かを求めていたとしたら何だったんだろう?
僕は何も感じずにその場をやりすごした。
大きな病気をしたという彼女に同情しつつ、完治を疑わなかった。
でももしかしたらあの時彼女は「僕」を求めていたのではないだろうか。
そういう可能性が僕を捉えて離さなくなっている。
今さら何も出来ないにしても。
そして僕は、あの時そうとわかったら、彼女の求めを理解する事が出来たとしたら僕はなにを失っても彼女の求めに応じたと思う。
それが正しい判断なのかはわからない。
もしかしたら彼女の寿命を縮める事になるかもしれない。
それでも僕は彼女の人生において、一人しか知らずに命を終えるよりは、まして裏切られたまま終える人生よりも、二人目の男として名を連れね、彼女に何かを残してあげられてのではないか。
それが僕の傲慢な考え方だとしても僕にはそんな事くらいしか、彼女にしてあげられない。
友情の証として。

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