たこ天今物語 #6 (寒海幻蔵)
今、たこ天に子ども村民の枠はない。
たこ天村で、子どもはすぐに山賊になれた。英雄になれた。
世間は、年々、大人と子どもの区別をつけなくなってきた。親と子が、みんな友だち。
子どもに友だちは必要だが、親は欠かせない。ケンゾウのように実の親がいなければなおさら、親の役割をする世の大人が助けになった。
何より、親が友だちになって、子が自分で友だちを作るのを邪魔してはいかん。
親が、先生が、良識ある大人が子どもを叱らない。叱ることは、教育上いいことは何もない、というまことしやかな専門家談を挙げ、叱ることをバツとする大新聞もある。
実際、叱られることなく大人になった子どもたちが、好きなことをやっている。トランプさんだけではない。この国でも、選挙のヤンチャが流行っている。
感情の発達不全の問題が、精神医学で浮上して久しい。今やそれが、普通の大人に表れている。適応障害の世界的急増の根っこに、その問題がある。
「怒る」が「叱る」になるのは顕著な例だ。
専門家さえも、そこを見る目を持たない。
大人の成熟を実感する人は、叱ってくれる師を求める。
一番になりたい人は、怒気ではなく覇気を持って叱ってくれる師を望むが、それが得難い。
「叱る」は容易にパワハラになる空気がある。
レッテルを貼って、システムに子育てを任せてしまう社会では、大人も育たなければ、子どもも育たない。
保育園、幼稚園、学校に任せ過ぎ。
それらのシステムの調整、改善をするはずの保健所、児童相談所、教育委員会、精神科クリニックも、システム依存症。人が立ち現れない。
それぞれに機関システムとして子どもの扱いを定め、決して子どもの生の姿に触れず、問題とされる子どもの姿は、中身のない輪郭だけになる。
大人が育たなければ、子どもと大人の役割が度々逆転する。
ヤングケアラーと呼ばれなくとも、子どもは頑張る。生きるためだ。
ケンゾウには馴染みがある。
大人の親なら、貧しくとも、病気であろうとも、親の役割からは降りない。
今や普通に、大人としての親の責任が見えないことが多い。子どもがどう育っているか、親の責任で見ているか。教師の責任で見ているか。
教師といえば、大学教授はどうだ。能力ある大学院生を、指導教授の責任において見ているか。
ネイチャー発表によると、院生の3割がメンタル・ブレイクダウンを起こしているという。異常に過ぎる。
ブレイクダウンする前に、親、教師、師匠の愛情の目は働く。この目がないと、叱れない。友だちの関係性だけなら、「叱る」が「怒る」になるのも頷ける。
今や、伝統技術や先端科学の継承者を見出すことが難しい。そうして難しいことは何でもAI依存に逃げるという、危うい舵が切られつつある。
「人は人によりてのみ」の営みが失われる。
大人が自分の中の子どもを暴れさせるのではなく、子どもの自分が大人の自分を際立たせる関係にしなければならない。
ここに今、たこ天を大人の村民で存分にやろうと定めた狙いがある。
スタッフも、人中で人に揉まれて、専門性の熟達、大人の成熟を追求する。
サイコセラピストは通常、面接室の中だけで専門性を発揮する。決して個人の背中を見せない。それが、背中を見られる村民になる。
だから、たこ天村はセラピストにとって武者修行の場になる。
背中を見られ、揚げ足を取られる危険の多い生活場面で、個人としてもセラピストとしても、いつ何時でも責任が取れる力をつける、修行の場だ。
自分で自分の危機や危険を認識しない者は、他者の危機も子どもの危機も捉えられないまま、親になる。
自分も子どもも守れない適応障害が増えた社会では、人がブレイクダウンする前から、サイコセラピィが必要となる。自殺、過労死、燃え尽き、うつ、急性適応障害、起きてしまえば後の祭りになる実態がある。
事後性の対応では、当事者が救われない。関係者も危険を負う。危機を捉え、その場に臨んで「その時どうする」を共にする、サイコセラピィの仕事が必要とされる。
社会システムは、効率の悪い部分システムがあれば、部署でも社員でも切り捨てる。社員の側も同じく、簡単に転職し、所属システムを捨てる。
これと生体システムは、決定的に違う。
伊達政宗のように片目を失えば、残った片目と全身機能で、失った目の機能をカバーする。さらに、より高い能力を発達させる。目が働かなければ耳を、腕がなくとも足を、そして全体システム連携機能を発達させる。
社会システムは、効率と利益の追求のために構築される。利益が上がる快が失われると、簡単に壊れる。
他方、40万年もの時を繋いで進化した生体システムは、それとは本質的に異なる。簡単に壊れない。
効率を求めると不快が来る、得ると快が来る。快を得ると不快を遠ざける。
自然の中で生き延びるために、この快と不快の力学を仕切る意志を持って統制する。
生と死の間の、快と不快の力学を仕切る意志を進化させ、死の危険が常にある中で生き抜いて来た人類の生体システムは、タフだ。
我らがサイコセラピストの大親分、フロイトは、このことをあえて「死の本能、生の本能、そしてそれを操って自分のベストを追求する自我の発達」と言って説明した。
社会システムの、すぐ死んでもいい、すぐに捨ててもいいシステムとは異なる、生体システムの本質がここにある。
たこ天村は、この生体システムをモデルにして、3日村を作る。
人はみんな、一番になりたい。
自分の資源をベスト運用できるとき、誰もが一番になれる。
みんな一番になりたいし、なれるのだが、今こそなりたいと思うその時、動かない。
「その時」に意志が働き、それを断行すれば、一番になれる。
その時の自分に責任を持ち、時を逃さず、生と死の間で、奢ることなく怖れることなく、自分の資源をベストに使う意志と責任を持って断行する。
そんな村民を経験しないか。気持ちいいぜよ!
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