見出し画像

詩 『曼珠沙華』

作:悠冴紀

赤い大地
血のような
炎のような
曼珠沙華まんじゅしゃげが咲き誇る

鮮やかな赤
毒々しくも繊細で
雨ざらしの野に
凛と伸びる

曼珠沙華が萌える
混沌の記憶の中に
血のような
炎のような
一面の赤 ──


無彩色の季節を越え
今 再び
懐かしいような
初対面のような
野生の赤い曼珠沙華

私の歩む畦道に また
かつてに増して鮮やかに
神秘的な赤い花一輪

画像1

※ 2003年(当時26歳)の作品。

曼珠沙華まんじゅしゃげとは、言わずと知れた彼岸花のことです。その翳のある妖艶ようえんな姿はしかし、思わずウットリと見惚れてしまうような美貌でありながら、毎年ちょうど彼岸の時期に咲くことや、墓地に群生しているイメージが強いせいか、昔から禍々まがまがしいイメージで見られがち。花壇や鉢で大事に育ててもらえる他の花々とは対照的に、雑草扱いで刈られてしまうこともしばしばです。球根部分にアルカロイド系の毒を秘めているため、我が子が花に触れないようにと、親があえて不吉な印象を植え付けて遠ざけたり、「その花は火事になるから家に持ち込んではいけません!」と迷信を吹き込むことすらある始末。

ただ、最近はそういう言い伝えを知る人も減り、彼岸花と同じリコリス属で兄弟姉妹に当たる花々や、ダイヤモンド・リリーという華やかな別名を持つヒガンバナ科ネリネ属の花々(←こちらは無毒)などが、園芸用に世に出回って、ずいぶんイメージが改善されてきたように思います。『死人花』や『幽霊花』や『地獄花』など、各地に残る紅い彼岸花の異名には、人々が抱いてきた不気味な印象の名残が、今も色濃く残っていますけどね (^^;)

画像2

言い伝えはともかく実像はどうなのかというと、まず彼岸花の毒は、茎をちぎって汁に触れると手がかぶれたり、球根を充分に水にさらさずに食べると軽い食中毒になったりする程度で、即座に死を招くほどの猛毒ではありません。また、墓地に多く見られるのは、元はと言えば、その毒性を活かして野生動物の墓荒らしから遺体を守るために、人間が植えつけた結果ですし、畦道によく見られるのも、古くは農作物を動物から守るための知恵だったり……と、何かと「陰の守り役」的な存在だったのです。玉葱に似た球根も、念入りに洗えば害のないよう除去することが可能なので、飢饉ききんの際には、畦道の彼岸花の球根を非常食として食べることもあったのだとか。

── にもかかわらず、長い間人々から不気味がられ、「花にあらず」とばかりに避けられてきた。家の中に入れてもらうことすらないまま、外の世界で雑草に埋もれ、それでも逞しく咲き続けて。

ただ見た目の美しさに惹かれただけでなく、そういう日陰者風の異端な在り方からして、外れ者タイプの私には、馴染みやすくて親近感があったのでしょう。子供の頃から今に至るまで、ずっと一番好きな花です。(← というか、子供の頃は彼岸花以外の花には全然興味がなくて、「私は花より草が好き!」とか言っていた おかしなガキんちょ時代でしたが σ(^▽^;))

画像3

幼少の頃の記憶を振り返るとき、いつも最初に私の脳裏によみがえるのが、近所にあった秘密の場所で、視界いっぱいに咲き誇る真っ赤な彼岸花畑に身を埋めながら、一人で心地よく過ごしていたときの記憶です。そこは蛇や猪が出るから要注意とかで、私以外は誰も立ち入らないような鬱蒼うっそうとした樹海の奥にあったのですが、家の中が人為的な危険に満ちていた当時の私にとっては、誰にも侵害されず独りになれる貴重な安全地帯でした。

暗闇や樹海が、私を人目から隠して自由にしてくれるシェルターなら、人を寄せ付けない野生の危険生物たちは守り神。そしてそんな場所にひっそりと咲くあでやかな彼岸花は、一年に一度、特定の時期にしか会えない心の友、といったところでしょうか。

当時私の暮らしていたところでは、近所の道路から脇に外れて、林立する樹々の間に分け入り、民家が見えなくなるあたりにまで突き進んでいくと、一部、樹木が少なくなって背の低い雑草ばかりになる平地がありました。彼岸の時期になると、そこに鮮やかな紅い花が一斉に咲き乱れ、突如として燃えるような彼岸花畑が出現するのです。ずいぶん旧い記憶なので、おそらく今はもう、その土地にも民家ができるなり何なりして、当時のままの彼岸花畑を見ることはできないだろうけど。

私の出身地は兵庫内陸の田舎なのですが、聞くところによると、私が(半永久的に)去ったあと、住宅や商業施設が次々にできて、すっかり様変わりしたのだそうな。訳あって里帰りというものができない私には、現在住んでいる大阪から通いやすい奈良県内の彼岸花スポットが、あの彼岸花畑に代わるオアシスです。

実は、つい先日(2019年9月25日)にも、彼岸花を目当てに明日香村を訪れていました。この記事に載せている画像も、殆どがその明日香村で撮り溜めてきた写真です。(← 10年以上にわたって明日香村に通い続けてきたので、写真もいっぱい溜まっています📸) 今年は少し彼岸花の開花が遅れているらしく、見頃を迎えているのは村内でも一部の場所に限られていましたけどね (^_^;) 25日の時点で、全体には3〜4分咲き程度かな? 場所によっては、まだまだ蕾の状態でした。

画像4

ちなみに、ずいぶん遠まわしな表現なので分かりづらいとは思いますが、この詩作品は、単に花の美しさを謳っただけのものではなく、実は、一番好きな花である彼岸花を通して、私自身の内側の密かな変化を表現した一作でもあります。「~ 一面の赤」までの前半部分では、かつてこの目で実際に見た 記憶の中の彼岸花を描写しているのに対し、「無彩色の季節を越え~」以降の後半部分では、心内に開花・開眼した新たな自我の化身としての彼岸花が描かれています。

かつての私は、この身にまとわりつく諸々の問題事に手一杯で、闘うことしか頭になかった色気も情もない戦士、といった感じでしたが、本当の意味で誰かを想い、受け入れる器が、ちょうどこの頃からできてきたのを自覚していました。孤独を紛らすためにとりあえず誰かを求めるとか、自分の欠落を埋めるために、ベッタリ甘えて依存し合うとかいう、ある種の弱さ・幼さに根差す関係ではなく、互いに自立した存在として他者を認めつつ、深め合い、受け入れ、熟成していく関係の構築。それができる凛とした落ち着きと覚悟、また相手を思えばこそ抑制をきかせ、絶えず自問しながらライン引きをして、陰から見守るような立ち位置で注ぎ込む想い……。

そんな、幼い日々に愛でていたあの紅い彼岸花が、まるで自分の内側にまで宿り、自生し始めたかのような心の向きを、感じ始めていたのです。今の相方との出会いも、一生ものの新たな友人との出会いも、ちょうどその頃から得たものだったな、と。

以来私は、毎年彼岸の頃になると、どこかの彼岸花スポットを見つけてきては、旧友にでも会いに行くかのような気分で、再びいそいそと彼岸花を観に行くようになりました。報われなくても墓や田畑を守り続け、一年に一度だけ燃えるように開花しては、僅か一週間ばかりでまた引き際よく姿を消していく、しなやかに逞しい彼岸花たちを。

共感しやすい対象だから自分自身を重ね合わせて応援する、というのはよくあるパターンですが、私の場合は、むしろ「あの頃は世話になったね、ありがとう」という謝意を込めて、毎年変わらぬ麗姿を見せてくれる彼等に再会しに行っているのだと思います。付き合いの長い幼なじみのような感覚で。

画像5

ところで、以前投稿した天狼~ハティという詩の解説部分で触れたように、私という人間は、親友とのことを含む複数の手痛い失敗体験のために、誰かを想ったり求めたりする自分の感情自体を、安易に美化することができなくなった身です。(👈自分ではプラスの感情だから問題ないと思い込んでいても、気付けば知らず知らず相手に害を成したり、過信による思考停止などによる行きすぎた行動で、悲惨な末路を招くこともあると経験で思い知った😓)

それに加え(詳しくは書ききれませんが)、「愛」だの「恋」だのという聞こえのいい言葉に言い訳材料を得た途端、相手の迷惑かえりみず狂信的に執着して、やりたい放題に暴走しまくるストーカーやパラノイアに振り回された経験も複数あって、恋愛であれ家族愛であれ隣人愛であれ友愛であれ、まるでそれらが至高の芸術作品であるかのように、ただただ美しく詠いあげる、とかいうことが、致命的にできない人種に成長しました σ(-_-;)

ロマンチストの真逆というか、アンチ耽美派というか……(;^_^A 無理にその手の言葉を綴ろうとしても、必ずどこかで歯止めがかかり、むしろそういった一見甘い魅力のあるプラスの感情、というものが秘めたリスクや盲点に対し、警鐘を打ち鳴らす立場の方が、自分の性分には合っているな……と改めて実感するのがオチなのです (-_-;)

画像6

だから、自分とは異なる存在である登場人物たちをして、初めて描けるようになった自作小説における恋愛描写などでも、それらが最大のテーマ・美談として前面に押し出されることはめったになく、むしろ目の覚めるような展開で水をさすことの方が多いです💧 現実の誰かの身には起きてほしくないからこそ、フィクションという場を借りて、色んな可能性の中でも あえて悲惨な末路をシミュレートする。そうやって「想い想われる感情に溺れるあまり、何の疑問も抱かずに突き進んでいくと、果てにはこんな落とし穴に陥るかもしれませんよ」という類いの警告を為したり、また「愛のゆえ」とか「良かれと思ってのことだから」という、多くの人達が抱きがちな発想で、取り返しのつかない過ちを犯してしまう人物たちの、グロテスクなほど怪物化していく様を描いたり……。

この『曼珠沙華』という詩は、そんなねじくれた私が、他者に向けての「愛」と思わしき想いを、条件つきではあれ どうにか少しばかり自分に許し、なんと花にたとえて謳ったという、唯一にして例外的な一作と言えるでしょう。

…… とは言え、やはり経験上、内心大いに抵抗のあるテーマなため、本当に遠回しで伝わりづらい表現になっていますけどね (^^;) やはり一人称が私自身である詩作品(← 小説とは対照的にノンフィクションな作品群)では、なかなかストレートには書けません💧 この種のテーマに対してだけは、用心深くなりすぎてしまう私です、ハイ (;^_^A

画像7

ちなみに以前(主に十代の頃)の私は、恋愛感情こそ皆無だったものの、親友などの一部の親しい相手のことを、どことなく「自己代理」・「自分の分身」として見ているところがあり、今振り返ると、そのままではどうしても好きになれない自分自身を、身代わりの他者を通して愛せるようになろうとしていたのだと思います。そして今は、そんな己の身勝手さを、猛省しております (;一_一) 何故なら、それはつまり、自己肯定感の欠如やコンプレックスの裏返しで、理想の自分を実現・獲得するための都合のいいツールとして相手を求めていた、ということに他ならないからです。自分にはない長所を持つ対照的な相手と、パズルのピースのようにピタリと組み合わさることで、欠落を補ったつもりになり、相手をソウルメイトであるかのように錯覚して。

自分自身と相手との間にあえて境界線を引かず、心理的に一心同体と言えるほど密接な間柄を築くこと。まるで自分自身に対するような安心感をもって、一切の疑いなしに盲目的に信じきること。そういったことを、あの頃の私は、至上の信頼関係だと勘違いしていたのでしょう。その「特別な絆」とやらに対する強すぎる欲求のために、知らず知らず相手のプライバシーを侵害しまくり、各々別個の人間同士としての尊重を忘れ、目の前の崩壊の兆しや警告のサインをも、ことごとく見落として……。

今振り返れば、そんな関係が破綻するのは必然の末路。目に見えていた結果だったのです。

画像8

作中の、お気に入りの花である彼岸花(曼珠沙華)に見る「血のような赤」と、その群生で真っ赤に染まった大地の、どこかダークで毒々しい表現は、過去のそうした罪や過ち、またその結果招いた大きすぎる喪失による、血の滲むような苦痛と悲嘆が、経験として染みていることの表れです。一見 美しげな真新しい感情の芽生え、真新しい事柄のようでいて、実は泥臭い過去を踏まえてこその今。

友達関係と恋愛関係という違いはあるものの、皮肉にもあの失敗、あの喪失を経験しなければ、私が自分自身の根っこの部分にある問題に 本当の意味で気がつくことはなく、ただ普通に誰かを想うというこの今はなかったのです。それだけは、月日が経ち どんなに自分が変化・成長しようとも、決して忘れてはならないし、忘れたいとも思いません。マゾヒシズム的な罰のためなどではなく、二度とは同じ愚行を繰り返さないよう、今後のためになる戒めとして。そしてまた、自分が何者であるかを忘れないための道しるべとして ──。

画像9

注)シェア・拡散は歓迎します。ただし、引用、転載する場合は、「詩『曼珠沙華』悠冴紀作より」といった具合に明記するか、リンクを貼るなどして、作者が私であることがわかるようにしてください。自分の作品であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たります。

プロフィール代わりの記事はこちら▼

※私の詩作品をご覧いただける無料マガジンはこちら▼ (私自身の変化・成長にともなって、作風も大きく変化してきているので、制作年代ごと三期に分けてまとめています)

📓 詩集A(十代の頃の旧い作品群)
📓 詩集B(二十代の頃の作品群)
📓 詩集C(三十代の頃の最新の作品群)

※ 小説家 悠冴紀の公式ホームページはこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?