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詩 『γρύψ(グリュプス)』

作:悠冴紀

ありがとう
さようなら

今おもむろに この大地を離れ
いつかのように羽ばたいていくから
どうか皆 私を手放して

あの懐かしい アッシュブルーの空
何者をも囲わない 私なりの故郷へ
記憶とともに 解き放って
──

誰かを受け入れる腕ばかりが成長し
いつの間にか 翼が退化してしまっていた
私が私自身であることが価値を成す
唯一無二の 創造の翼が
……

理解できなくていい
ただこの選択を
どうか許して

多くを受容する腕が 翼を妨げるのなら
私はどちらかを 選ぶほかない

誰も何も 惜しまないで
誰も何も 嘆かないで

私よりも優れた腕の持ち主
私よりも上手く皆を受け止められる相手は
他にいくらでもいるだろう

この翼 この羽ばたきは
私の代わりを見出せない

薄情だと責めていい
身勝手だと呆れてもいい

ただ誰も決して
引き止めないで

この手の内にある数多の物語のため
私は改めてまた 帰属先なき単独者へと
──

遠くでずっと 見守るから
どうか静かに 見送って

何も心配しなくていい
元より私は この道から来た身

大事な人なら すでにいる
支えになる関係も

孤独でもなければ
不幸でもない

寒くもなければ
寂しくもない

気温の低い上空でも
体温の保ち方は心得ている

少しも迷いのない自分を見て
時々ひどい人間のような気はするよ

それでも私は
留まれない

長く伸びすぎた腕を脇にしまい
翼を再び 大きく開く

どうか私を 呼ばないで
静かに今 立ち去らせて

この地上で私にできることは
もう充分にやってきたと思う

だからそろそろ
空へ帰るよ

自ら生み出す物語のために
この世で唯一の私の居場所
アッシュブルーの空の彼方へ
──


**********

※2014年3月の作品。

グリュプスというのは、古代ギリシャの伝説上の幻想生物で、ライオンの身体に鷲の頭と翼を持つ怪物のことです。英語圏だと、たまにグリフィンとかいう名前の人がいますが、まさにそのもととなった幻獣です。

この作品自体は、それまでどこにも馴染めず職を転々とする傾向のあった私が、珍しく6年も続いた職場を、絶頂期に去ると決めたときの心境を表現したものです。(翼を持つ生き物の中でも、違和感のある他生物の特徴を混ぜ合わせた空想上の怪物をチョイスして、自分と重ね合わせるあたりが、いかにも私らしい表現ですが😅)

副業で通っていたその勤め先は、ブラックとまではいかないが慢性的に人手不足で、休日出勤はすればするほど歓迎されるのに、こちらの都合で予定外の休みを申請したり有給を取ることは絶対のタブー。戦力的に必要としてもらえるのはありがたいんだけど、このままでは本業の妨げになって、両立できなくなってしまう、いや、すでに両立できていない、という状況でした。

それでふと、本来どこにも居付かず、ひとところに長くは身を置かないはずの私が、なんでこんなにも長く同じ場に留まってきたんだろう、と疑問を抱くようになり、気がつきました。

らしくもないことに、私はいつの間にか、周りの求めるものが何なのかを読み取っては、その通りに振る舞うだけの単なる『受容の器』に成り果てていたのです。

かつて(二十代半ば頃まで)は、自分自身であることを許されなかった教育の反動か、こだわりばかりが人一倍強く、誰にも1ミリも譲らない自我のかたまりのような存在で、ゆえにどんな場にも収まりきらない著しい社会不適合者だった私(← 学生時代の通知簿には必ず『協調性がない』と書かれていた😅)は、社会に出た途端、集団秩序最優先の世の中においては、他人の入り込む余地が一切ない自分のそんな凝り固まった個性や主義主張が、使い物にならない傍迷惑な異物でしかないのだと思い知らされ、自分のポンコツぶりに猛烈な劣等感を覚えたものです。

その頃の自分に比べると、今の自分はなんと器用で柔軟に立ち回れるように成長したことか、と自負し始めていたのですが、まさにそこが落とし穴でした。

長い間、出戻る先も後ろ楯もなかった私は、否応なしに外に出て働き続けなければ、もれなく路頭に彷徨い飢え死にするという身の上だったので、その後生活のために、ガチガチの自我を不本意に突き崩し、自分に最も欠けていた『協調性』を死に物狂いで身に付けていきました。自分とは対照的に、礼儀正しく世慣れした周りの人たちの言動を参考にし、どういうときに何を言えばいいのか(← 要するに社交辞令とか)、多くの人々がどういうシチュエーションでどんな感情表情をするのか、普通を装うために注意深く観察して。

(☝️ちなみに、かつての私は笑いのポイントもズレていて、よほどパンチのきいたブラックジョークでないと面白いと思えなかったので、真っ当な人々と交わす緩い会話には全く感情が動かず、ニコリともしない威圧系キャラでした。また生育環境からしても、楽しそうにしていると必ずその喜びや楽しみのもとを奪われ、幼い頃なら屋根裏部屋に監禁されて叩きのめされる、というような状況で成長したために、ある時点から感情と表情のリンクを切り、以来ずっとポーカーフェイスを通してきました。なので、というのが、私には最も難易度の高い課題でした😅 必要に応じてそうなったのに、今更急に真逆の態度を取れと言われても……ね💧

ああ、あと、媚びずにズバッと指摘したり、天気の話題などで導入を作ることなく、結論から先に言ってしまう率直な話し方なども、日本人離れしていて怖い、とか言われていたので、このままでは社会生活を送れない=飯が食えん……と思い、日本人特有のどっち付かずで主体性のないフワッとした曖昧表現というやつを、周囲の言葉遣いをトレースする形で、無理やり身に付けていきました。さながら村田沙耶香さんの「コンビニ人間」の主人公のようで、サイコですね~w いや、それ以上に、浦沢直樹さんの『モンスター』の世界観と被る話かも💦 ← 今でもブラックやん💧)

私の場合は、いずれも、嫌われるのが怖いだの善い人だと思われたいだのという動機ではなく、ひとえに食っていくため、野垂れ死にしないための演技でした。どんなに胸くそが悪くて不本意でも、やるしかなかったのです。本来の自分からは掛け離れた無難な人物像を作り上げ、まともな環境で育てられた真人間っぽい言動を心掛けて。

── 結果、いつからか敵を作らず誰にでも合わせられるようになって、かつての灰汁あくの強~い嫌われ者から、人格者扱いされる存在へとすっかり転身した……つもりでした。

そんな自分がしかし、私自身は内心どうしても好きになれず、次第に生きた心地すらしなくなっていきました。途方に暮れましたよ。実家を離れたことで、やっとのことで自分自身として生きられるはずだったのに、企業や世の中の大勢に求められるところの人物像というのも、結局は、かつて家庭の中で要求されていたことと同様、ただ周りの都合に合わせて役目を果たし、利益をもたらすだけのロボットのような人物像であり、果てしなく他者を受容するだけの空っぽの器となることだったのだから。

その演技にストレスや抵抗を覚えなくなった時点で、気付くべきだったのです。自分がついには魂をも売り渡したこと、生きるのが楽になったように錯覚したのは、単に抗いをやめて麻痺まひに至ったからだと。どうりで本業の執筆業が手付かずになっていたわけです。仕事に忙殺されて書けなかっただけでなく、物を書く上で不可欠な主体となる『自分』が死んでいたんですから💧

周りとうまく付き合っていく社会的な振る舞いというのも、ある程度は必要なことですが、自分にしかできないこと、あるいは自分にはこれしかないと言い切れるほど入れ込んでいることを犠牲にしてまで……となると、やはり明らかにやり過ぎですよね。でもこういうことって、周囲の大勢から肯定され、好意的に扱われている順調なときほど、本人は気付きにくいんですよね。皮肉なものです。

それでもどうにかハッと目を覚ましては、引き留められないよう何かと理由をつけて、あえて独りで枠組みの外側へ飛び出していく。これ以上周りに都合よく気に入られたり頼られたりしすぎて、抜け出せなくなる前に、同僚も仲間も所属先もない本来の自分へと──。

自発的に選択するその手の別離が、私にはかつて何度となくありました。かつては演技にも馴染めなかった集団社会に表向き馴染み、何の違和感も覚えないほど楽になってきたところで、自分を奮い立たせて今一度、独りになる道を選ぶ。その繰り返しでした。

当時の私はおそらく、気質としては唯我独尊タイプで、これでもかというほど明確に自分の好みや、やりたいこと・やりたくないことがわかっているのに、意外にも(?)能力的には、人の望みや考えを汲み取ることが得意だったのだと思います。それこそ人格形成に重要な幼少期に、身近な敵から身を守るため、命懸けで相手の表情を読み、腹の内を探ろうとしていましたから。

さて、コイツら、次は何をしでかすつもりだろう? とか、どういうつもりでこんな支離滅裂なことを言っているのだ? とか、本日の機嫌の良し悪しはいかに? ……等々、著しく情緒不安定な連中の目まぐるしい感情の変化や企みを、いち早く察知しては、何か防御のための手を打たねばならない、と緊張のし通しで、一瞬たりとも休まる暇のない子供時代でした。もう二度とあんな生き方はしたくない、という思いでその後は控えていましたが、やろうと思えば、できすぎるぐらいできてしまう危ういヤツだったのです。相手の思惑や動機を読み解き、必要とあらば心理操作で逆利用するぐらいのことさえも。

困ったことに、それが、うちの身内によく似たモンスターゲストたちを相手取る当時の接客業に、大いに活かされた。おかげでクレーム対応や酔っぱらい排除などを含むサービスコーナー係に回されたり、同意してもいないのに主任や店長候補としての教育を施されたりして、簡単には辞められない面倒臭い立場に追いやられたものです。

とは言え最終的には、すべての他者の期待や求めをお断りして、ばっさり切り捨ててしまうところが、私という人間の薄情なところなんですけどね。この詩を書いた頃にはすでにパートナーがいて、かつてのような余裕のない状況ではなくなっていたというのに、相変わらず背水の陣の意識でやりすぎていた(本来の在り方を見失い、作品づくりができなくなるほど演技に入れ込んでしまった)、という点は、ただただ未熟だったと言わざるを得ない。

── 今となっては、そんな不器用な生き方も、遠い過去の話です。不必要に装うのも、人の考えを読もうとするのもやめた。もうすっかり開き直っていますよ。望み通りになびいてくれないと嫌うヤツは、素直に嫌ってくれ。むしろ変に気に入られたくないし、誰かと繋がりたいとも思わない。抗い続けるのも楽ではないが、自分を裏切るよりは遥かにずっと充実した日々が得られる。

今現在のマイペースな私しか知らない人たちは、お前のような人間にそんな時代があったわけがない、周りに合わせようとしていたなんて絶対に嘘だ! と罵倒してきそうな話ですが、こんな過程あってこその今です。早いうちに毒リンゴを吐き出せて、本当に良かったです😌

心機一転という言葉があるように、視野を狭める慣れすぎた環境から離れて、人生を時折リセットするというのも、賛否両論あるでしょうが私は悪くない行為だと思います。昔の私のように、過剰な演技や他人軸に振り回された結果としての逃避の連続、という場合は、ドロップアウトを繰り返す中で、根本原因とも向き合う機会を持たねばキリがありませんが、積極的に風通しの良い人生を選ぶこと自体を、責められる筋合いはないと思うんです。それも一つの生き方ですし、どんな環境に育ったどんな人間でも、視野の狭まりには用心が必要ですからね😉


注)シェア・拡散は歓迎します。ただし、この作品を一部でも引用・転載する場合は、必ず「詩『γρύψ(グリュプス)』悠冴紀作より」と明記するか、リンクを貼るなどして、作者が私であることがわかるようにしてください。自分の作品であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たります!

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