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「ペルソナ」の向こう側

会社を辞めると決めてから、「辞めること」自体に疑問やためらいを感じたことは一度もない。というかたぶん、ためらいを感じているうちは辞めない方がいいんだろう。

けれど今思えば少し寂しい部分があって、それは、会社の人と、「会社の人」以外の顔を見せ合えなかったことだなぁと思う。

「会社」とか「学校」とか「部署」とか、そういう括りって、不思議な力を持っている。私だけなのかもしれないけれど、その場・グループ・空気感に合わせた人物像が、勝手に出来上がっていくような感じがする。

それで、私自身も、なんとなく「こう存在するべき」とか「こういうキャラクターであるべき」みたいなものがあるような気がして、選ぶも考えるもなく引っ張られ、そういう自分を作り上げてしまう。

もしかしたら、人の集合体って、そうやってバランスをとっているものなのかな。わからないけれど、なんだか少し寂しい。

お調子者キャラ、なんでもできる人、なんもできない人、下ネタ大好きな人、恋愛体質な子、意外にお酒飲める子、声が小さめな子。

色々あるけれど、そういう「枠」みたいなのに捉えた人物像しか、見れてなかったのかもしれないなぁって。私ももちろん、そういう「枠」や「キャラクター」に縛られて生きていたような気がするし、そうやって見られることを、拒もうとはしなかった。

勝手なイメージで語られ「私、そんな人間じゃないんだけど」と、不快に思ったこともあったけれど、それと同じように、人にも勝手な人物像を押し付けてしまっていたのかもしれないなぁとも思う。要は、深く相手を知ろうとしていなかったということ。

「〜〜部署の〇〇さん」「この部署の前は、〇〇で働いていた」「結婚してて、子供が1人」「最近四谷に引っ越したらしい」「日本酒よりもワインが好き」

そんなような、どーでもいいことしか知らなかったし、知ろうともしていなかったし、知ってもらえてもいなかった。たぶん、そんな感じ。

その人が何を感じ取っていて、どんなバックボーンがあって、どんな家族がいて、それをどんな風に思っていて、どんな時が幸せで、どんな時がしんどいのか。そういうコミュニケーションが、とれていなかったなあ、とか。「仮面」と言ったら言い過ぎだけど、そんなようなものを被った人物像しか、見ていなかったような気がする。ペルソナ、ってやつかな。

そう思い返すと、少し、寂しい。
少ししか喋ったことのない人の中に、もっともっと深く話し合える人や、痛みや幸せを分かち合える人がいたのかもしれないなと思うし、もっと踏み込んだ言い方をすれば、こういう「別れ際」のタイミングになってくると、踏み込みたいと思ってくれる人/踏み込みたいと思う人と、そうでない人がいるものだ、と、否が応でもわかってしまう。

結局、「家庭での顔」とか「職場での顔」とか「ゴルフ仲間での顔」とか「ヨガスタジオでの顔」とか、色々そういうのはあるわけで、それを全部一緒っていうのも難しい話なんだろうけれど。それでもやっぱり、「見せたかったな」「見せて欲しかったな」という気持ちが少しは残ってしまうというのは、「そんなのは本当の私じゃない」と言えなかった自分、「どんなことを考えているの?」と踏み込めなかった自分への、少しの後悔なのかもしれない。

・・・とはいえ、幸いなことに人間関係そのものは自分次第で続けることもできるし、消えて無くなるものではなくて、会社という「ハコ」がなくなったらそれだけ見えてくるものもあるかもしれないなと思う。

やり直す、とまでは言い過ぎだけれど、もう一度、これまで出会った人の新たな一面を大切にしてみてもいいのかもしれないな、と思った。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。