終わっていくブログと無名の名文家たち[全文公開販売]

好きでよく読んでいたブログが終わってしまった経験はある? 私は何度もある。私が好きになった書き手たちのブログは、ジャンルはそれぞれ色々なのに一様に終了してしまいがちだ。

有名人じゃない、インフルエンサーでもない、自分がどこからどうその人に辿り着いたのかすら忘れてしまうような、ネット上で出会った書き手たち。
自分にとって心惹かれる何かやきらめきを感じて、いつの間にかお決まりの訪問先になっているブログがある。

書き手の詳細がわかることもあれば、わからないこともある。日常が描かれる場合もあれば、実生活はほとんどヴェールに包まれたままのこともある。
その文章は「上手い」とばかりは言えず、好みが分かれそうな独自のテイストや癖を持っていることもある。

けれども、文には「その人」が表れていて、そこがいい。
ほかの人が真似できない名文になっており、全面に染み渡るその人の色に、またふれたくなるのだ。

ある人の記事を定期的に読むことが続くと、いつのまにかそれは、その時期の自分の人生体験の一部になる。同時代を生きつつ「あの人はどうしているかな」と思い出す対象として、書き手は自分の心の中にいる人になる。

そんな風に接してきた誰かのブログが(あるいはnoteのようなサイトが)終わるとき、きっちりした終了だとか知らせがないことも多々あって、以下の2つのケースが見られる。

1. 徐々に更新が少なくなり、そのまま停止する。
サイトは残っているが、何年経過しても更新されない。
過去記事は読めるものの、更新がないと表示される種類の広告が出ている(無料ブログサービスで多い)。

2. サイト自体が消えてしまう。どうやら書き手が全消去したようなのだが、事情はわからない。過去記事も読めなくなる。

1の場合、書き手が更新できない状況になった可能性もあり、事前に体の不調の記事などあると逝去すら案じてしまうパターンだ。
なにせその人のことをこちらは何も正確には知らないのだから。

2の場合はおそらく「心境変化」「やりたいことに沿わなくなった」などの内面の事情が考えられて、残念ではあるものの「またどこかで何か表現しているかな?」と、時折心をかすめてキーワードで検索してみたりする。

1の場合も、たぶん多くは2で想像したのと同じ心の変化が関係しているのだろう。ときに生活上の事情が加わることがあったとしても、モチベーションの低下、もう書きたいことがない、ほかに優先したいことがある、など。

文筆業でない、場合によっては名もわからないネット上の書き手に「あなたの文章がとても好きでした」と伝える人はどれほどいるのだろう。
サイトが終わってしまって「あー、残念!」と心から思っても、それを当人に伝えられるケースはまれかもしれない。

ただ、ある人の文章にもう接することはなくても、その人の放っていた色彩や味わいは自分の中に残り続ける。
会ったことがなくても、本当はどんな人なのかを知らなくても、その人のもたらしたものが内側で「体験」として残るのは興味深い。

まるで、心うちとけて語り合った相手であるかのようなのだ。

書き手として言うなら、私も自分の内の変化に合わせて一新したくなったり、全部を閉じて身軽になりたくなったりすることはある。

自分のものの見方、感じ方、惹かれるもの、やりたいことなどがあまりにも変わっていくと、別人になったと言えるほどの心の切り替えが生まれる。
もし、常に新しい自分に沿ってあれこれを統一したいとしたら、その都度、過去の記事もすっきり片づけたいと思っても不思議はない。

だから心情の変化でブログを更新しなくなる、遠ざかる、またはきっぱり全消去するという人たちの気持ちが私はわかる方だ。
と同時に、読む側になると、「あなたのその文、とても好きだった人がいるよ!」と、呼びかけたい気持ちもじわりとにじむのだ。

無名の名文家たちは、何も書かなくなっても、今日もどこかでその人固有の輝きを放っていることだろう。
文章という手段を通さなくても、その人の存在そのものが同じ彩りをこの世に加えているはずだ。
束の間一緒に過ごした友を思うように、私はおぼろげにその様子を心に描いてみる。

なお、作品として記事を販売する場合はやや事情が異なる。たとえばnoteでは、作者が消去や退会をしても、購入した作品はあなたの手もとに残るからだ(2023年8月1日現在、単体記事は購入時の全文がメールで届くシステム。マガジンでの購入はこれには該当しない)。
愛用している人はとうに知っていることだろうけど、購入にはそんな役割もあるよ。

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