鏡のトリックからのリタイア、IndependentとWholeness

10月に入ったのに夏日なんか体験しちゃって、暑くなる日にはまだ、えっと思うほど暑い。なんだか季節の移り変わりが不思議な感じ。周囲の鳥、虫、植物など生き物の様子や日常生活では変わらず興味をそそられることがあって、時折ちょこちょこと下書きを増やしていたのだが、記事としては一向に仕上げないまま今に至った。このごろは一日一日を味わい噛みしめるように生きており、それに満足していて、書くという行為に向かうほどの余剰成分が生まれないでいた。

「書く」といってもこれは自分のための日記ではなく、誰かが読むことを想定している文章だ。その行為に向かうときというのはやっぱり、アウトプットしたい程度には何か余剰成分が生成されていると言っていいのではないか。
余剰というと語弊があるかもしれないが、創作を生むだけの表現欲やシェアしたいという気持ちの勢いと言い換えればわかってもらいやすいかな。

――閉じているという姿勢ではないが、外へ外へと向かう必要性を感じず、内的に自己充足していくとどうなるのか。
これまでスピリチュアリティーについて多く伝えてきた私が今、新たに語ることとなるとこれが思い浮かぶ。現在進行形の要素も含みつつ、このテーマに沿ってひとつ筆をとってみることにした。

地球人生リタイア疑惑に則り、今を語ると

私は今年2021年の4月末の記事で、「地球人生リタイア疑惑」という表現を使った。これはそのときの自分の心情をそう表したのだが、これまでと同じ舞台の延長上で生き続ける感触がどうにも皆無になっていたからだ。
☆該当記事◆「植物と気が合う・地球人生リタイア疑惑」
記事内ではその心情に基づき、今後の自己についての4つの可能性を考えて記した。以下の通りの内容だ。

『一般的にも、未来というのは明らかに見えているものじゃない。
予測できていると思っていてもそれは幻想だ。
その意味で、これから先のことが「わからない」というのは普通だ。

でも、最近の私は、そういうなじみのあるわからなさではないものを感じている。たとえていうなら、今までは「どのように進んでいくのか、道が分岐したりするのか、詳細はわからないけど道が続いていることは確か」という種類のわからなさだった。
けれども今は「道自体がもう、無いんじゃないか」という疑惑がある。

これは世界が終わる的な、大衆を巻き込む大規模な出来事を想定して言っているのではない。
私自身のこの先の道が、明らかにこれまでと違う感触で「見えない」のだ。

これについて、私は4つの可能性を考えてみた。

1.自分個人の人生が終わる。身体的なシフト(死)、もしくは別の方法で別の次元に移行するなど。
2.これからの展開に何か、今はまだ知らない方がいいことがあり、ロックをかけている。自分でわからないようにしている。
3.あたかもウォークインであるかのように、突如として別の関心を持ち、まったく別人としての人生を始める。
4.分離を前提とした「エゴ」の自己感覚が終了する。人生は続くが、内的に大きく違ったあり方で生きる。

……ウォークインというやや専門用語的なものも出したが、ご存知でなく気になる方はネットで検索でもかけてみて。ちなみにその現象自体は、私はありえることではあると思うものの、そんなにしょっちゅう起こることでもないのではと思っている。つまり、ウォークインと自称している人の全部がウォークイン現象を経験しているのではなく、本人がそう思い込んでいる場合もあるだろうということだ。

それと、1の可能性に関していえば今のところ身体的な予兆は何もない。つまり、健康である。

早速、この4つの可能性を仲の良い妹にシェアしてみたところ、
「2がいいな」
と妹の希望を指定された。
私自身は4つのどれも、いやではない。
どれであっても受け入れられる気がする。』
(4月の記事からの引用ここまで)

……可能性を挙げた4つのうち、5ヶ月以上が経過した現在の私がこりゃなさそうだなと思っているのは、3だ。
「突如として別の関心を持ち、まったく別人としての人生を始める」ことはなさそうなのだ。もしそんなことがあってもそれもよし、という中立な気持ちで日々過ごしてきたが、その気配は露ほどもないことを実感している。

逆にいうと、それ以外の3つはすべてそれぞれ混ぜこぜにして当たっているのだった。別の次元にフォーカスが移っているという肌感覚(1)、人生に、かつてのようには予測が立てられないという明瞭な認識(2)、そして「分離を前提とした『エゴ』の自己感覚が終了する。人生は続くが、内的に大きく違ったあり方で生きる」(4)は、どんぴしゃだ。

今の私はこれを「地球人生リタイア」という言葉では呼ばないが、当時リタイアと呼びたくなったそれらの感覚が引いていかない・もはやそこから退去することがないという確信を得てしまった点では、今の方が当時よりも一層リタイアの趣が不動のものになっており、日々当たり前の「地」なのである。
それは何からのリタイアだったのかといえば、分離ワールド(別々に分かれ孤立した個人があるという観念のもと、描かれる世界)からのリタイアだ。
しかしそれが私の今の「地球人生」なのであって、地球という舞台から退いたのではなく「分離ワールド=地球という設定の劇」から退いたのだった。

すると、見える景色はどのようになっただろうか?
(ここでの「見える景色」とは五感の視覚のことではなく、比喩的な表現である。)

真我と一体であることに付与した誤った期待を外す【幻想の動機はあなたにふさわしくない】

私の体験、見える景色についての愛しさは変わらないか、しみじみと増しているが、スピリチュアリティーに関心がある方がいわゆる目覚めや悟りや、真我と一体であることへの「幻想」を抱かないように、その「結果」への誤った期待を諸々の動機にしないように、以下のことを伝えておこうと思う。
(これを伝えるのは幻想や期待を抱いては「いけない」からではない。もしあなたがそれらを握りしめていると、結局、舞台上のある劇からは降りることを希望して見せつつ、実は同質の別の劇を自ら演じ続けるということへの自覚を促すためだ。)

ここから先は

2,325字

¥ 1,300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?