植物と気が合う・地球人生リタイア疑惑

鳥時計(季節ごとに異なる鳥の活動の様子で一年の推移を知ることを、私はこう呼んでいる)は、うちの周辺では今はムクドリだ。
繁殖前の恋のシーズンに入ったらしく様々な鳴き方をしながら飛び交い、あちこちで活発にリャーリャーリャーリャー言っている。シジュウカラもまたそうらしく、同時ににぎやかになってきた。
少し前までは圧倒的にヒヨドリの姿と鳴き声が優勢だったのだが……(自然の話題を含む過去記事は★ネイチャーコミュニケーション(生き物たちとの交流)★マガジンに収録中)。

そして木々はさわさわと、気持ちよさそうにたくさんの葉っぱをつけている。私はこのごろ、自分が相当植物を好きなのではないかということに気づいた。
うすうす、前からそう思っていたが、なにせ私は土いじりをしない。植物のお世話をしていない者が、こんなにも植物を好きであっていいものか。そんな理屈で、ここまでの植物好きであることは心底は認めずにいた。

しかし今、自分に対して「公認」の印を押してもいい気持ちになっている。

たとえば外出先の都心の街で。街路樹があると、気づくと見とれ、歩くコースが不自然に街路樹寄りになっている。猫が木に体をこすりつけながら歩いているのを見たことはないだろうか。私はさすがに体をこすりつけてはいなかったが、まっすぐに歩かず街路樹のある方へとふわり、ふわりとルートが蛇行してしまう。
周りをコンクリに固められた都市の一画の木であっても、木があるところはエネルギーがあたたかい。生きているもののぬくもりがする。
それにつられてふわぁ、と寄っていってしまうのだった。

あるいは別の日、また別の駅に向かう歩道の途中で。
その場所に不似合いなほど大きな木が、大きな葉っぱをあたり一面に広げ、青々と茂って風に揺れていた。見事だった。夜が始まったばかりの薄青い時間帯、見上げると夜空の海に揺れる一枚一枚の、葉っぱの船の大群。
この木の光景と気配とは、私の心に飛び込み一体化し、私は黙って圧倒され、ほかにも色々あったその日の活動全部の中で、この体験が何よりも一番好きであることを認めざるをえなかった。
そのときの心地よさ、心の安らぎといったら、寝る前にわざわざ思い返し、再体験して幸せになったほどだ。

かと思えば、ふと通り過ぎた道端にたくさん生えていたぺんぺん草(ナズナ)。ハート型みたいなかわいい葉っぱをお手々のように広げている様子がきゅんとくる。
そう、ここには書ききれないほど、生活の中で行き合う植物たちが好きでしょうがない。目に飛び込んでくると、感じずにはいられない。彼らのあたたかさと生命力、美しさ、愛しさを。

この身を終えるときには、自分の体は文字通り土に返し、虫さんや微生物たちに分解してもらって植物たちの養分になりたい。ものごころついた頃からこの願いとヴィジョンが私の中にあった。それはどんなにか幸せなことだろうと思った。
果たして現代社会でこれが実際的かというと難しそうで、一介のファンタジーであるのだが、根本的にこの願いと、私が植物を見るとき感じずにいられない「ひとつになる」感覚とは同じものだと思う。

地球人生リタイア疑惑と、植物と気が合うこと

しかし、何も育まず、「ただ見ているだけ」でこのように植物たちに心満たされ、満足し、それ以外の周辺の自然の諸々も心から讃えている私の気持ちとあり方は、なかなか人に理解してもらえない。いや、実際は私のような人はたくさんいるに違いないのだが、自分が身近に接している範囲では同類に出会えていない。

人生を通して自分を観察していて思ったのだが、どうも私は地球に対して「訪問者」や「外来者」であるというぬぐえない感覚が大きすぎる。
これまでも記事に書いてきたように、意識が自分の現実を創っているという観点から言えばこのものの見方は逸れているというか、私の現実はまるごと私の表現であるので、それをまるで自己の外部にはみ出させて置くかのような「どこどこへ一時滞在している」という発想すら、おかしなことになるのだが。

それにも関わらず、やはり地球への「一時滞在感」は著しく、こんなにも地球生物への愛を感じながらも、「よそから訪ねてきた旅行者が、もの珍しく美しい景色を眺めている」かのような感想が心をよぎるのだ。

それでも(それだから、か?)、この人生を通して、地球にフィットする「私の立ち位置」を探してきた。いわば、「参加しよう」としてきた。
大別すれば芸術やスピリチュアリティーは自然にしていても自分に重なってくる分野で、私自身に役立ったこと、学んできた内容を人と共有するために教えることや、書くことを始めとする表現なども「現状の地球舞台の中で」自身に与える配役としてはなかなか合っていたように思う。これまでは。

しかし今。
それすらも、私の下ろす「錨」の役割を果たさなくなってきたのだ。

一般的にも、未来というのは明らかに見えているものじゃない。
予測できていると思っていてもそれは幻想だ。
その意味で、これから先のことが「わからない」というのは普通だ。

でも、最近の私は、そういうなじみのあるわからなさではないものを感じている。たとえていうなら、今までは「どのように進んでいくのか、道が分岐したりするのか、詳細はわからないけど道が続いていることは確か」という種類のわからなさだった。
けれども今は「道自体がもう、無いんじゃないか」という疑惑がある。

これは世界が終わる的な、大衆を巻き込む大規模な出来事を想定して言っているのではない。
私自身のこの先の道が、明らかにこれまでと違う感触で「見えない」のだ。

これについて、私は4つの可能性を考えてみた。

1.自分個人の人生が終わる。身体的なシフト(死)、もしくは別の方法で別の次元に移行するなど。
2.これからの展開に何か、今はまだ知らない方がいいことがあり、ロックをかけている。自分でわからないようにしている。
3.あたかもウォークインであるかのように、突如として別の関心を持ち、まったく別人としての人生を始める。
4.分離を前提とした「エゴ」の自己感覚が終了する。人生は続くが、内的に大きく違ったあり方で生きる。

……ウォークインというやや専門用語的なものも出したが、ご存知でなく気になる方はネットで検索でもかけてみて。ちなみにその現象自体は、私はありえることではあると思うものの、そんなにしょっちゅう起こることでもないのではと思っている。つまり、ウォークインと自称している人の全部がウォークイン現象を経験しているのではなく、本人がそう思い込んでいる場合もあるだろうということだ。

それと、1の可能性に関していえば今のところ身体的な予兆は何もない。つまり、健康である。

早速、この4つの可能性を仲の良い妹にシェアしてみたところ、
「2がいいな」
と妹の希望を指定された。
私自身は4つのどれも、いやではない。
どれであっても受け入れられる気がする。

いずれにしても、この感触は強まる一方で消えてくれない上に、内部にあるのは不安ではなく、喜びなのがまた不思議なのだった。なんの理由もなく、わくわくしている。

一日の終わり、雨戸を閉める時間、庭の植物たちが目に入り、彼らの存在へ「今日もありがとう」と思わず感謝を捧げる。そのときにふと、こういうのって「リタイア」した人の心境なんじゃないのかなと思うことがある。
でも、一般に想像されるところのリタイアメントの条件に当てはまっているわけではない私は、「地球人生からのリタイア」という言葉が浮かんでしまうのだ。

これは良いこと? 悪いこと? などと考える間もなく、これが自分の人生に止められない進行であることだけが私にはわかっていて、内部の静かな、しかしときにダイナミックな動きにじっと耳を澄ませている。
そうしていると、外界としては見えていない、表現されていない「内からのコンタクト」の実在もわかってくるのだ。

人間の時間感覚からすれば、植物たちは、見かけ上の動きがわかりづらい。その活動の全容も、コンタクトが行われているネットワークも、外部からは捉えづらい。また、彼らは動物のような形で動き回ったりはしない。
もしかするとそのあり方が、外側に見えるものの中では特に今、私が格段に植物と気が合う一因なのかもしれないね。

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「地球分岐の扉の通過、自身の魂の進行を知る(夢と象徴の解釈例)」
「鏡のトリックからのリタイア、IndependentとWholeness」


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