野草にドキドキ・Missing Pieceの回復

最近ね、ますます、物事を逆から考えてみたりするわけ。
自分の中のある部分は、「先に」答えを知っていて、そこに辿り着くようにすべてを手配していると。それはもう、万事細密に、順調にね。
ところが私たちはそれを「ちっちゃな範囲しか見えてない視点」、つまり「個人」と思い込んでいる自己の考えであれこれ分析し、別な意味を付与し、その成就を妨げてしまうんだと。

先月の記事◆「意図の結果である5W1Hをコントロールしないこと【夢から学ぶ叡知】」の中の「Why――動機の深層」のセクションで説明したけれど、自分で「自覚している」動機というのは、「全的視点から見た場合の動機」とイコールではない。

こう認識していると、「なんでかわからないけど」という段階でも、直観に従い、その通りに行動することの意義がわかってくる。
それは実は、最も確実な方法で、効力があるのだということも。

さて、私は前回、植物を話題にした記事を書いたのだが(◆「植物も好きだ(我が家の生物事情、気やエネルギーの話とともに」)、その日のインスピレーションに従って題材を選んだにすぎず、それによって自分が新たな発見に導かれるなどとは思いも寄らなかった。

記事を書いた後に連鎖的に調べたり、考えたりしていたことが「今の私」は何に興味を持っているのかを自覚させ、ここしばらくの私が惹かれる事柄はすべて、同じ一つのものの多側面であることが確認できたのだ。

自分の情熱の方向を具体化した、意外な展開

前回の記事内の「様々な植物の状態と、私が感じたこと」というセクションで、かつて蘭の鉢植えに対して私が経験したフィーリングを述べた。

その具体的な出来事に関しては、今からもう十何年も昔の出来事だったので、記事を書き終えた私は改めて当時の状況を振り返ってみた。
あの鉢は、どんな状態だったのかなぁと。

確か母がその頃勤めていた仕事場に、贈られたか何かで置いてあった洋ランの鉢を複数引き取ることになって、一つを私に持ってきてくれたのだった。

細かい状況の記憶がおぼろげで、今となってはわからないので、せめて同じ洋ランの根についての理解を深めようと調べてみた。

海外の熱帯に旅行したとき、蘭が他の木の幹から生えている様子を見かけたことも思い出した。野生の蘭はどのように生きているのだろう?

調べると、そのときの洋ランは、「着生植物」と「半着生植物」を交配した品種だとわかった。

●着生植物 - Wikipedia

着生植物は、根を他の樹木の上に張る。その樹木から栄養をとっているわけではないので「寄生」とは異なる。
「地生植物」は、地面に根を張る。半着生とは、着生と地生の両方の性質を持つそうだ。

私が海外で見た蘭は、樹上に着生していた蘭だったのだ。
なるほど、こういう植物だったのか……と蘭の情報に関心しながら、多くの観葉植物が熱帯の植物であることにも思いを馳せた。

なぜなら、観葉植物のエネルギーから私が「苦しさ」や「居心地の悪さ」を感じ取るとき、記事では「鉢植え」という観点から根のことを考えてみたのだが、生育条件による他の要因があり得るわけだなぁと認識したからだ。

では、屋外に置かれる様々な鉢植えはどうだろう? そう思い、プランターや鉢で植物を育てることのメリットも一緒に調べてみた。
地植えと違って移動できること(日当たりや温度の調節もしやすい)、育つ大きさを管理できることなどがメリットなんだな……と納得はしたのだが、このあたりでだんだん、私個人のこんな思いに気づき始めた。

私はきっと、自ら園芸やガーデニングをすることはないだろうな。
以前からその感覚はあったけど、今後もきっと自分からやりたいと思うことはないだろう。

(ちなみに、園芸は植物を育てること、ガーデニングは庭全体のデザイン・造園というトータルな意味で用いることが多いらしい。和風に呼ぶか洋風に呼ぶかの違いだけだという解釈もある。)

そのような活動自体は素敵だと思っていたのだが、私自身はそれをしたい人ではないとわかったのだ。

私が前々から不可解に思っていたことがある。
それは、私は植物がとても好きだけど、それを自分の想像できる特定の活動に還元できなかったことだ。
たとえば家庭菜園でも、農業でも、ガーデニングでも、鉢植えや観葉植物を育てることでも……そんなに植物が好きならば、自ら興味を持ち、実行する情熱を持っていてもいいはずだ。

それなのに、私はそうした選択肢のどれもに食指が動かなかった。

余談だが、私が現在も続けているブログを始めて3年が過ぎる頃まで、私は「vanillatree」というブログ名・活動名を用いていた。
2014年9月に今の活動名に変えたのだが、それまでのvanillatreeという名には当然ながら熱帯植物であるバニラの木が関係している。

ブログを始める頃、何か活動名を決めたいと思っていた私は、自分は植物が好きなので植物に関連した名前にしたいなと考えた。
色々検討していたとき、以下のような経緯でvanillatreeにした。
「死者の目線で」(名前を決めたときのエピソードを含むブログ記事)

その中で書いた通り、私たちが親しんでいるバニラの香料を得るには大変な手間がかかることを知った。

バニラの受粉は、自然界においてはハリナシバチによってしか行われないと考えられており、人工授粉に成功するまでバニラの栽培は実現しなかった。
●バニラ - Wikipedia

今となっては、ここでも蜂さんが……! という点に注目してしまう。
☆関連記事☆
「生物への愛とエネルギー、蜂さん、自然との調和」
「蜂が開いてくれた扉、夢は現実のラフスケッチ」
「日本ミツバチが庭に来ていた【アニマルコミュニケーションと虫】」
☆☆☆
ハリナシバチはミツバチ科の小さな蜂で、針を持たないそうだ。

また、バニラの種子は発酵・乾燥を繰り返すことであの香りになるという。
バニラの香りに含まれる成分であるバニリンは、母乳にも含まれ、癒し効果があるとされる。

さらには、◆「Extremely Ahead【取捨選択の実り】」の記事に書いた、私が長年「いつかの」移住を考えていた場所とは、熱帯であった。
個人的に、バニラの木に関連付けられる多様な思いを持っていたのだった。

今回、蘭について調べていて、バニラもラン科ということがわかった(以前も調べたことがあったはずだが、そのことは覚えていなかった)。
それで、こうした過去を思い出した次第だ。

……話を戻して、私は近年どんどん野生生物に関心が向いていて、今の私はかつてのような「いつかまた家で動物と暮らしたい」という思いが薄れており、人間の暮らしを中心とした環境下で動物を飼いたいとはあまり思わなくなっている。
同じように植物も、管理したいとは思えていないことを発見したのだった。

初めて、このことをフルに、全面的に認めると、私の心に思い浮かんだ分野があった。

野草だ。
「雑草」と呼ばれることもある、自生している植物たちだ。

野草への愛を自覚する

私が今、ごく身近で見られる虫たちに愛情と興味を寄せているように、実は私は野草が好きである。
ただ、以前からずっと今と同じくらい野草が好きだったかというと、そうではない。

昔、何とはなしによく写真を撮っていた頃にも、道端の野草をかわいいな、きれいだな、と感じて撮影してはいた。
が、後にそうした写真の中からブログに挿入する写真を選ぶ際、一般に言う「雑草」であることを考えて、多くの場合は選択肢から外していた。
なんとなく、そういう写真を出すよりは、バラや庭園に植えられるような花を用いる方が正統であるような錯覚を起こしていたのだ。樹木もOKだった。

今思うとその発想は偏っているけれど、同時に、その頃の私は野草よりも、それらの植物の方がずっと好きだったのだ。
つまり、私の知覚や好みがすでに変化したということだ。

一応明確にしておくと、野草と総称される中には「山野草」という呼ばれ方のものがあるが、私が関心を持っているのは特に珍しかったり、どこか遠方へ足を伸ばさないと見つけられない野草ではなくて、そのあたりに自生している野草のことである。きっとあなたも一度は見たことがあるような。

ここから先は

1,427字

¥ 850

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?