生物への愛とエネルギー、蜂さん、自然との調和

生物への愛が極まって、どんどん苦手を克服し、今となっては自然への愛が「前のめり」になっている私だ。

私は元々動物や植物、自然界が好きだったが、昔はそれでも得手・不得手があった。
好きな動物、そうでもない動物、虫の中で大丈夫な虫もいるけれど、全般的には虫は苦手……などなど。区別があったのだ。

ところが振り返ると、そうした区別が薄れるきっかけは、スピリチュアルな感性を自分自身で受け入れ、エネルギーを見たり感じたりしていることを「認める」ようになった頃にあった。
それ以前と以降では、私の知覚する世界の鮮明さが違っている。

かつての何倍も、街路樹のような身近な木の放つエネルギー、あらゆる生物たちのエネルギーなどをはっきりと知覚するようになり、それはへたすると「固体の現実」よりもずっと強烈に感じられるのだった。
たとえだが、紙に描かれた平面の絵と、自分がふれたり感じたりできる色彩鮮やかな立体映像の中にいるのと、くらいの違いがある。

エネルギーの世界は、一部の人には「目に見えない、触れない」と思われている。
でも、私には目に見えるし(心眼で見るものもあれば、肉眼で見ているものもある)、感触でいえば物質同様にはっきりと触れられるものだ。

ただ、こうした「知覚」に慣れていない人は、「ボリュームつまみを最小にしている」ような状態で、しっかり意識を向ければ自分で「大きく」できるということを知らない。そのまま、「自分にはエネルギーを知覚する能力はない」とか「エネルギーの世界自体存在していない」と思い込んでしまうのだ。

私の自然界との無意識的、あるいは半自覚的だったコミュニケーションが、意識的なコミュニケーションに変わってからというもの、あらゆる生物は等しく愛しいものになった。
人間にとってデメリットが多いように見える生物もいるけれど、自然界全体からの観点からはそんな区別はないということが明らかにわかった。
その実感を持ってしまったら、特定の生物への苦手意識を持続させることの方が難しい。

自然や生物への愛の拡大と「飢え」

こうなると、困ったことがひとつある。
私は何度かの引越しをしつつも、東京都内もしくは都心への通勤圏内の県に住んでいたのだが、そのような暮らしの中では断然「身の回りの自然で満足できなくなる」のだ。

つまり、自然や生物に対して「飢える」
だから、鳥たちや虫、植物など現生活の中でも見られる「野生」にいつでも目をこらし、アンテナを張っているような状態だ。

今の私にとっての「会えるアイドル☆」的な存在は鳥だろう。
家の付近で見られるのはカラス、ヒヨドリ、シジュウカラ、メジロ。
スズメとムクドリもいるけれど見ることは少なめ。ウグイスは声だけで全く見えない。
都内に住んでいた頃よく見かけた、かわいいかわいいハクセキレイは、家のそばにはいない。

道を歩けば鳥を探す。鳥を見れば立ち止まる。鳴き声に耳をすます。
この間、今年に入ってからまだ外出の自粛要請など出ていなかった頃、友達が家に遊びにきてくれたのだが、リビングで私の家族も含めて談笑しているとき、窓の外のすぐ近くにヒヨドリが来た。

すると驚いたことに、私は腰を浮かすとヒヨドリの一挙一動を見たくてそわそわし、話の方向を転換させてまでヒヨドリの話をし始めたのである。
留鳥であるが渡りをするヒヨドリもいること、海を渡るときは波すれすれを群れで飛んで外敵から身を守るので、波にさらわれてしまうヒヨドリもいること、日本ではおなじみの鳥だが実は日本と周辺国の一部でしか見ることができず、それ以外の海外の人にとっては珍しい鳥であること、家の庭に来るヒヨドリのつがいのことなど。
(ヒヨドリについてはまた機会を改めて書きたい!)

親しく、優しい友達なのでよかったが、この態度はどうか。
優先順位がすっかり鳥への関心ファーストになっている。

家の庭や家の中に現れる他の生物たちにも、目を光らせている。
夏はヤモリ、春秋にはナガサキアゲハの幼虫「ミドちゃん」、そして最近は蜂だ。
★ミドちゃんについての記事はブログ内のこちら★
「今秋のミドちゃん(ナガサキアゲハの幼虫)」
シリーズ化していたので過去記事へのリンクもある。

そう、昔は昆虫はそんなに得意でなかったのに、とうとう、虫もかわいくてしょうがなくなってしまったのだった。

一気にではなく徐々に苦手な虫への意識が変わっていったのだが、たとえば過去には私は蛾が苦手だった。
ところがある日、家の壁に止まっていた小さめの蛾をよく見ると、繊細な美しさがあり、なんと、顔もとても! かわいらしかったのである。

今楽しみなのは、くまばち

そのように苦手な虫でさえも克服していくと、元々好きな方だった青虫や蜂なんてもう、そのかわいさは倍増。

つい先日も、庭で花の蜜を吸う「くまばち」のかわいさに見とれていた。
寝る前もスマホでくまばちの写真を検索するほど(普段私は、メッセージと電話以外ほぼスマホを使わないので、これはとても珍しいこと)。
きっと今の私に体の変化を計測する系の機械を取り付けたら、「くまばち」という言葉を聞かせる度に、何らかの数値が激変するだろう。

くまばちは体がまるっこく、つやつやと黒い体の首から胸にかけては黄色いふかふかした毛みたいなのがある。
黄色い部分は、うさぎでいうマフマフみたいだ。
(うさぎを飼ってる人の間での用語に詳しくない方に説明すると、マフマフとは、うさぎの首のまわりにあるふかふかの部分だ。メスのうさぎに特徴的だそう。)

羽をブンブン言わせて、まるっこい体をホバリングしている姿も大好きだ。

画像1

(フリー素材のサイトから見つけたクマバチ)
か、かわ……!! かわいい……。後ろ姿というのもまたツボ。

●クマバチ - Wikipedia

このウィキペディアの説明の中に、
『メスは顔全体が黒く、複眼は切れ長。額は広く、顎も大きいため、全体に頭が大きい印象。それに対し、オスは複眼が丸く大き目で、やや狭い額に黄白色の毛が密生し、全体に小顔な印象。』
とあるのだが、この説明を書いた方の用いた表現がいいよね。

メスの複眼が切れ長とか、オスは全体に小顔な印象とか。

どういうことだろうとウィキペディア内の写真を見ると、
キムネクマバチのオスはこうで、

画像2

同じキムネクマバチのメスはこう(お花を持つ手がかわいい……)

画像3

なるほど、メスは目が切れ長! オスはまん丸!
わかりやすい。

蜂については、みつばちのことも含めて今勉強中なのだが、知れば知るほどとても面白くてワクワクしている。自分の世界がまた更新される気持ち。

自然観察と、蜂が思い出させてくれたこと【だーれも切り離せない】

家族の一員で、みんな大好きだった愛うさぎが亡くなって十年が経った。

「形は問題になりえず、心だけが問題になりえる——たとえば、お金」の記事でふれたように、またいつか動物と暮らすことは何度も私の心をよぎるのだけど、動物にとってどれだけ幸せな環境にしてあげられるのかと考えると、迷いが生じる。

私が今見ている鳥たちや虫たちは、どんなにそばにいても「野生」だ。
庭や家に現れるけど、閉じ込められてはいない。
彼らにはまだ、飼われている生物たちより広い「選択」がある。

ととととととーって住宅街のコンクリの道路の上を走る猫。車が来ないうちに大急ぎで道を渡っている。
その姿を見ながら、自分の靴の下の道路の硬さを確かめて、足の裏、痛くないのかなとか、夏はこういう道路は焼けて熱いんじゃないかなとか、猫の足の感覚を知りたい気持ちと、「あまりに人間向きに作られた世界」に思いを馳せる。

どんな隙間からも生えてくる植物を見ていると、私は「植物最強説」を唱えたくなって、人間がいなくなったら植物がわんわん生い茂るのではないかと想像していた。地球は、植物だらけの世界になるのではないかと。

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