意図の結果である5W1Hをコントロールしないこと【夢から学ぶ叡智】

やっぱり今、ひとつのタームが終了しようとしているね。
夢から、それを連日感じ取っている。
「やっぱり」と言うのは先週、◆「虫って私の何なのか【夢の中での訓練と恐れの根源】」の記事の冒頭でも、
「ほかの夢は最近、楽しい夢や祝福ムードの夢が多く、『何かのしめくくりの時期(卒業的な意味合い)に差しかかっているな!』と感じさせる。」
と書いていたからだ。

夢を観察していると、物理世界で定められているカレンダーなどの暦と関係なく展開している、独自の内的サイクルがあることがわかる。

あまりにはっきりと「何かの終わりに差しかかり、新しいものが始まろうとしている」実感が高まっており、カレンダー上の日付で言えば7月に入って間もないあたりから顕著になっていた。
私以外にも、それを肌で感じていた人もいるのではないだろうか。

少なくとも私にとってその感覚は具体的出来事によって引き起こされているものではない。内的な、エネルギー的な変化なのだ。
ただ、この「切り替わり」そのものについて言えば長年自分の夢を観察した結果、人間の1年のサイクルは案外「夏区切り」なんじゃないかなと感じるようになっていたので、今年が特別だというわけでもない。

私の「起きている間の人生」では夏にそんな印象を持ったことはなかったのだが、夢の中では度々「夏に1年の総括をして、次のスタートを切る様子」が見て取れた。それはさながら、新学年のスタートという感じでもあった。
概念を「学校」に重ね合わせているらしく、成績表が配られたり、旧教室を去ったり、クラス替えがあったりする。

あなたの内側での活動を、「物質的体験に依存しない」という意味で非物質次元や霊的次元と呼ぶのだが、そこで何が起きているか、どんな活動をしているかは夢で知ることができる。

私はここしばらく「卒業と、新しいタームへの準備」の様子を日々夢で見ていたわけだが、集合的見地からもこれはある程度共有されていると思う。
ただし、私が体験しているのと異なるサイクルの人々がいる可能性も否定はできない。
また、夢の個人的見地から説明すれば、あなたが何かの経験を終えるとき、ひと区切りつけたときなどにも、こうした類の夢を見るであろう。
あなたの人生において特定の要素を持った古い経験が終了し、新しい世界に移り変わる。これもまた、似たような形で夢に現れるということだ。

夢は、象徴で表現されている世界である。とても幅広い経験を「今、物理的現実に適応しているあなたの知覚と理解によって翻訳して」記憶している。

つまり、あなたの「知っていること」「語彙にあるもの」に逐一置き換えているのだ。起床した後、「こんな夢を見ていたな」と振り返ることができる内容は、ある言い方をすれば「別次元での経験を、今認識している狭い発想と鋳型に当てはめて加工した劣化版」なのだ。

あなたが自分の夢を読み解くためには、あなた自身のことを知るしかない。
象徴は、誰もに同じ意味を持つとは限らない。
そしてもっと言えば……この世界(起きている間の現実)も、意識によって「概念を象徴に置き換え、知覚した結果の世界」なのだ。

……話がtoo far な領域に羽ばたきそうなのでこのへんで止めよう。
この記事では、私が先日夢から意識的に持ち帰ってきた内容をお話しする。
それは、
意図の「結果」をコントロールしようとしないこと
についてで、意図の使い方を間違えると、あなたは自分で自分の邪魔をすることになる。
このことを根本から理解して、人生に適用しよう。

夢で経験した叡智を持ち帰るには

先に、夢で学んだことや「知っていること」の持ち帰りについて説明する。別次元からそれらを思い出すこと、呼び出し、recallといってもいいかな。

率直に言って、起きている間の自分とはまるでおバカさんで、夢をはじめとする霊的次元での自分の方が色々なことを知っている。
もちろん両者は「同じひとつの自分」なのだが、この物理的現実をリアルに経験するために、私たちは自分の意識の焦点を調節する。
すると、霊的次元で覚えていたことを取りこぼす。そうした知識や情報が「ない」かのように生きるのだ。

あなたも、夢の次元では「当たり前にわかっていたこと」が、起床した途端に断片の感触だけ残してすべて消えてしまった……という経験をしたことはないだろうか。
意識のモードが切り替わると、こうもきれいに忘れてしまうのか! と驚くくらいそれらは消える。たちまち非現実になる。
そして、心にわずかに残っていた断片ですら「気のせいだったかな」「思い過ごしかな」と考えるほど曖昧になって雲散霧消し、やがてあなたは日常のあれこれに心を奪われてしまう。

そうした記憶や叡智を人生で使いこなせるほどしっかり覚えておくためには、そうするという意図を自ら持つ必要がある。
私は生まれつき夢をよく覚えている人間ではあったが、それでも意図次第でより一層「持ち帰る」ことが可能になり、できることが拡大するのだと伝えたい。

たとえば、明晰夢(夢の中で夢を見ていることに気づき、その自覚を持ったまま活動できる状態)にも意図を持つことが役立つのだが、明晰夢の状態になっていなくとも、夢の途中で「これを覚えておこう」と強く意図設定することは可能なのだ。そう決意するだけでいい。

肝心なのは、起きたらそれを思い出し、「もう一度、自分の中に刻み込む」ことだ。その作業を怠らないようにしよう。

意識内でこれを行うのに慣れていない人は、起きたらすぐ、覚えていることをヴォイスレコーダーに吹き込むとか、メモに書いておくとかして、後から確認できる形で残そう。
その作業自体が負担にならないよう、簡略化した形でOKだ。自分がわかればいいのだ。
やがて、そのようにしなくとも思い出すことができるようになるだろう。

5W1Hへコントロールを向けないこと

ここからは、夢で「これは持ち帰ろう」と私が意図して持ってきた内容だ。

すでに書いたように、「卒業と新しいタームの始まり」を表す夢の合間に、先日はある「気づき」が挿入され、私はそれを覚えていることを決意した。
私たちの人生に有用な叡智だと感じたからだ。
こういうとき私は情報のかたまり、概念を持ち帰っていて、言語で説明するということは圧縮ファイルを解凍するような作業になる。

この記事を書くために、持ち帰ってきた情報を改めて意識内で展開していると、あることに気づいた。
「私、同じ情報を、以前も持ち帰ったことがある。
そしてそのときも、ブログ記事に書いた記憶がある!」

そこで自分のブログ内を探してみたら、2015年8月1日の記事だった。
このときも、夏じゃん。今と近い時期じゃん。
☆該当記事◆「5W1Hは不要、本質はシンプル♪」

余談だが、この頃利用していたブログでは「ポップさ」を念頭に置いて記事を書いていた。色々な人が読みやすいよう、とっつきやすさ、気軽さを出したいと思っていたのだ。
当時のデザインに合わせて行間を広く、改行を多くし、絵文字をよく使い、ある時期からは写真もなるべく入れるよう心がけていたのだが。
(おかげで、その後ブログを記事ごと引越したとき作業が大変だった……)
やがて、そういうことをしたいと全然思えなくなったので、自分のやりたいことに忠実に、今のような文章ぎっしりスタイルに戻ったのだった。
現在の私が挿絵的なイメージ画像を記事に入れない理由も、noteのこちらで説明しているよ。↓
「表現の形よりも、元にあるエネルギーが大事。作品の生命」

私は、用事がなければ自分の過去記事を読み返さないし、記事が完成し公開した後には何を書いたかを忘れてしまうことが多い。
今回その記事を思い出せたのは、まさに「夢から持ち帰った概念を、以前も受け取っていた記憶が浮上した」ためで、中でも「5W1H」がキーワードになっていた。確か、どこかでそれを記事にしたね? と。

でも、内容に関してはそのときよりもより深く、明確な説明をしたい。
5W1Hとは、「When, Where, Who, What, Why」そして「How」のことで、私たちの生活においてはこれらの情報は意義があるとされる。
たとえば、あなたが何かの計画をたてるときに、5W1Hを意識するかもしれない。
いつ、どこで、誰と、何を、どのように行う? そしてそれはなぜ? と。

しかし私が夢で気づいたのは、それらに対し、意識を向けないこと。5W1Hに自分の意図を向けないことの大切さだった。

なぜ、そうなるのかをお話ししよう。
あなたが何か実現したいことを心に抱いているのなら、なおのこと、これを読んでもらいたい。

全的自己と個の幻想

ここから先は

2,145字

¥ 950

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?