虫って私の何なのか【夢の中での訓練と恐れの根源】

虫についての訓練が……ここしばらくの間、夢の中でまで行われていた。
覚えているだけで6回くらいは同シリーズの夢を見ている。
ほかの夢は最近、楽しい夢や祝福ムードの夢が多く、「何かのしめくくりの時期(卒業的な意味合い)に差しかかっているな!」と感じさせる。
しかしだ。虫についての訓練的な夢が……そうした夢の合間に差し挟まれることが日々続いた。それは登場シーンとしては短いものなのだが、「またか」と思うほど必ず挿入されていたのだ(内容は後述する)。
今のところ、ここ2日くらいは見てないから止んだかな、どうかな、という具合である。

まず、「虫についての訓練」とは何かを説明しよう。
私は生物への関心と、彼らとコミュニケートする情熱を持つ人間なのだが、かつては生物全般の中で一部の虫だけを苦手としていた。
いや、虫の中では好感を持っている種が一部で、かえって苦手な種の割合が多いくらいだったかもしれない。つまり、特に物心ついてからだが、多くの虫が苦手になってしまっていた期間を経験しているのだ。
私の言う「虫」とは、昆虫以外にも節足動物などを含む、日常で虫と総称されている生物を指す。

そんな反応もやがて、「自分、ひいては生命、存在全般へのものの見方」が変化していくのに伴って変わっていき、今では虫たちへの積極的な知りたい気持ちと愛情を抱いているのだが、まだそれが「完全変態に至っていない」ことを実感している(表現を、ちょっと虫にかけてみた)。

「一日、一虫(いちにち、いちむし)。虫へのこもった熱い想い」で書いた通り、かつて苦手だった虫の一部に対しては私の心の中で未だ微妙なワンクッションがあることを自覚している。
たとえば、クモがそれに該当する。

クモに対しては元々、恐怖感は抱いていない。手でふれることも可能、でも好きではなかった。
そして今でも、家によく出現するクモの名や生態はおさえながらも、好きな生物に対する自然にほとばしる愛情とワクワク感を持てていない。

つい先日も、よく家に現れる「チャスジハエトリ」と対面して、厳しくそのことを思い知らされた。
かつては私は、このクモをよく外に追い出していた。
家の中にいられるのが嫌だったのだ。でも、追い出したところでクモに迷惑がかかるだけで、たいていは戻ってくる。

この間家の中で出会ったときには、「これまで悪かった。話でもしようよ」という気持ちで床に座り、そのチャスジハエトリさんを脅かさないだけ十分な距離を取ってじっとし、テレパシーで話しかけてみたのだが、するとチャスジハエトリさんはうろたえた。

すごく居心地悪そうに右往左往した後、自分の体色によく似た板のところでじっとして、「いないふり」をした。
と同時に、私も悟ったのである。
私の気持ちがまだ、完全にオープンじゃない。
まだ若干、このクモに対する抵抗感があるのだ。

チャスジハエトリ - Wikipedia

チャスジハエトリも含まれるハエトリグモ全般は、調べれば調べるほど興味深い。
英語ではjumping spiderと呼ばれ、ぴょーんと飛ぶ姿を思い浮かべやすい。
日本では、江戸時代の一時期「座敷鷹」などと呼ばれ、ハエを獲らせる遊びが流行ったようだ(クモがハエを捕まえやすいように、ハエの羽を切ったりもしていたらしいとのこと。ハエにもクモにも迷惑だよ……)。
飼っているクモを入れておくための立派な印籠型ケースもあったとか。

そのほかにも、地方によってはハエトリグモ同士を戦わせる相撲的な遊びもあるそうだ。

ハエトリグモ - Wikipedia

それだけ人間の暮らしに身近な生物なのだとも言えるが、いかんせん私は、クモに対する自分の心の何かが引っかかり、完全にはWelcomeできていないのだった。

虫は、人間の体に比べるととても小さいので、なかなか顔をまじまじと見る機会がない。だからこそ、虫の顔の写真を見るとたちまち好きになれることも多い(私の場合)。

ところが、クモの場合は、顔を見ると……
8つの目(種によって数が異なる)が単眼で、まるで「風の谷のナウシカ」のオームの目のようにも見えるのだが、私とっては「レンズ」という感じでどこか機械的に見えてしまい、入り込みにくいのだ。

それでも、クモを大好きな人が多く存在することを思うと、知覚というのは「自分の思い次第なのだ」と痛感させられる。
私でも、大きくて毛に覆われているタランチュラなどはわりと好きだったりする。実際にお目にかかったことはまだないけれど。

むしろ身近に出会う、すぐそこで暮らしているクモさんに抵抗感を維持しているとは、これはどうにかしたい。
私は、とうとうクモにまつわる神話まで当たってみた。
確か、インディアンの神話でクモが出てきたな、と記憶にあったのだ。

あなたももしかすると、インディアンジュエリーやインディアンのシンボルの中で、クモを見たことがあるかもしれない。
複数の種族の言い伝えの中で、クモは創造神の一部として登場する。日本語に訳された内容を見る限り、「副創造神」という位置づけらしい。

ところが、そこまであの手この手で自分の見方を変えようとしても、まだ、私のクモに対する知覚には根本からの変容を起こせていないのだった。
いずれ、これも「プロセスの一部」として、後で懐かしく振り返ることができる日が来るのだろう。
☆チャスジハエトリとのコミュニケーション、後日記事はこちら☆
「リラックスして♪ 身近な生物とアニマルコミュニケーション」
☆さらに追記。一年後の変化はこちら☆
「クモへの今年の心情と、全生物に実用したい夢」
「ちんまり身辺の生き物ニュース・目覚めたまま遊ぶエネルギー世界」

こうした日常の過ごし方の傾向はあるにせよ、なぜ、夢の中でまで連日訓練するほど私が「虫に集中しているか」が謎だった。
もちろん、その意図をまず自分が定めたこと自体は理解している。
「人間外の世界への誘い(いざない)」に書いた夢の時点から、私の選択は始まっていた。

ただ……もうちょっと悠長に進めてもいいんじゃない?
そんなに急がなくても。連日の集中訓練、しなくても。
そうもスパートをかけて虫を全面的に(どの種も)愛することが、なぜ私の人生に「今」重要なのだろうか?

夢の中で行われる、虫についての訓練

ここで、夢の中でどんな訓練が行われていたのかを記しておこう。

先に書いたように、ほかの多数の夢の合間に、そのシーンは登場する。
よくあるのは、私が草原のような、背の高い草の茂ったところに立っている場面だ。

青々とした葉ばかりでなく枯れ草も多いその場所で、周りを見回すと色々な虫がいる。
ちなみに家の中バージョンもあって、そのときには家の中の一室に色々な虫がなぜかいるのだ。

その夢に現れる虫たちは、私が実際に(起きている間の現実で)対面したとしても、怖いとか嫌だとかは思わないタイプの虫ばかりだ。
いかにも跳躍しそうな脚を持つ虫とか、うにょうにょ動く芋虫のようなものとか、それから長いナナフシのような虫もいた。
ナナフシなんて、実際にいたらちょっと見てみたいよと思うのだが、夢の中での私の反応は違う。

それらの虫に対し、心の中で「いやーーーーっ!」という抵抗感を持って、その場から逃げ出したくなっているのだ。
そんなに嫌か!? と、見ているこっちが驚くくらい。
つまり、夢の中にいる自分と、夢全体を見ている自己の反応は異なる。
夢の中ではどういうわけか、登場する虫たちの持つ雰囲気に、何か実物の虫以上に「じっとりと、恐ろしい感じ」が嵩増しされているのだった。

起きてからいつも、不思議に思う。
あの虫が今、目の前にいてもそう怖くは感じないのに……と。

その上、ある夢の中では、それまでの夢でずっと私に同伴していた女の子(5歳くらいのロングヘアの女の子で、なぜか私になついていた。お父さんお母さんのところに返そうとしても、私から離れない。口が達者で年齢よりずっと大人びた子だった)が、そのように虫に怯える私を淡々と見ていて、「何が怖いの?」とでも言いたげにしていた。
その女の子は、どの虫も怖いと思っておらず、平気なのだった。
(その後シーンが切り替わってからは、その女の子と私はプレゼント交換をして和やかに過ごしていた。虫が登場するシーンはそのように、いつも不意で短い。)

夢の中に現れるものは、何らかの形で「すべて自分」である。
女の子はもとより、登場する虫たちも私の一部の象徴なのだ。

では、夢の中で私が克服しようとして連日接していた「虫たち」とは、一体私の何なのだろう?

虫への反応に象徴されるもの。人々に嫌われがちな虫の種と、自然界の役割からわかること【人間の恐れの根本】

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