表現の形よりも、元にあるエネルギーが大事。作品の生命

芸術家や作品を生む人、表現する活動に携わる人なら、自分の思う通りの形に仕上げたい、より良いものを提供したいという熱意のために、「どこまで手をかけてよいか」終着点がわからなくなってしまうという経験があるのではないだろうか。
他者から見て違いがわかるかどうかはともかく、自身のこだわりがあって、もっと直したい、もう少しここを工夫したいなど、細かく追求してしまう。結果として時間がかかりすぎてしまったり、ひとつの作品がなかなか仕上がらなくなったりして消耗する人もいるかもしれない。

私の場合、セッション講座といった「ライブ」の活動でそれを感じることはなかった。終了後に振り返って、より良くできるポイントを考えることはあっても、性質としてそれらは過ぎ去っていくもので、形に留めることはできないからだ。
一方で、文章や絵のように作品が形として残るものに対しては、時として「いじりすぎてしまう」「極めようとしすぎてしまう」誘惑と向き合うことになった。特に、自分の裁量で自由に修正できるものがその対象になる。
この記事◆「妥協なく、本当にやりたいことができると信じてる?~書く楽しさの原点に私が戻るまで~」で言及した、ライティングや翻訳といった「依頼された仕事」の中では、字数や条件、締め切りが決まっているため、ほどほどのところで完成形をはっきり定めることができる。
ところが、長年書いてきたブログの文章やこのnoteなど、自分でどのようにでも加筆や推敲ができる作品となると、先述の誘惑がむくむくと湧いてくることもあったのだ。

もちろん、そうならない作品もある。出し切った! というすがすがしい、文章であれば一文字も足したり引いたりしたくないような内容のものも必ずあるのだ。
けれどもそれ以外は、読み返すと「この言葉をこう変えた方がわかりやすいかな」「ここにこの説明を加えないと意味が通りづらいかも」「それなら、これも盛り込もうか」など、何かいじりたくなる誘惑というのは出てくる。

これが紙の本で、印刷したらそれっきりであれば、そう思ったところでなすすべはない。でもあにはからんや、ネット上で公開している作品は自分自身で手を加えることが可能なのだ。

それでもブログを続けてきた成果として、あるときから、書いたものを手放すことがとても上手くなった。アップする際に自分が「これで完成」と決めたら、公開後に読み返すこともほとんどない。やり切ったので、関心が全くなくなるのだ。
noteもそれは同様だったのだが、無料で公開していたブログと違い、これをメインで販売する心意気からか「研鑽したい思い」がぶり返しやすい傾向を感じた。
そして、記事によっては感じる通りに公開後も手を加えることを幾度か実行して、そうする自分の動機も見つめた結果、腑に落ちたことがある。
以下は私が見出した答え――「作品の生命」と、その元にあるエネルギーについてわかったことだ。

私たちひとりひとりは、たとえ物理的作品を残していなくともアーティストである。誰もが、創造者なのだ。
だから、「私はクリエイティブな活動をしてない」と思っている人も、日常生活の中でのコミュニケーションをはじめ、あなたの人生という表現に思いを馳せて読んでね。

言葉に取り組むこととコミュニケーション、元にあるエネルギー

私は言葉を使って表現することを自ら好んでいる一方で、「広大なものを、ごく狭いところに無理に閉じ込めるような窮屈さ」も同時に感じている。
背後にある膨大な思いを最小限に絞ってコンパクトにし、はみ出たところはあきらめて切り捨て、言語という用意された記号に当てはめて、伝達する。
つまり、「フォーカスする箇所を選ぶ」はめになるのだ。どこに重点を置くかや優先順位をやむをえず選択している。

そうではなく、まるごとの思いを共有するには、お互いが共振して「その人になるとはどういうことか」の全体を受け入れる必要がある。同じエネルギーで振動して、同じ心になってみるのだ。
ちなみに、この方法が本当の「テレパシー」である。別々の心を読み合うのではない。ふたつの個々の存在としてでなく、両者が同じ振動になることがテレパシーだ。

現状の地球で、それはまだSFのストーリーか何かのような「特殊能力」で、万人と実現するのは難しい。こうした条件の下では、言葉が便利なツールになる。完璧ではないけれど、思考を「近い言葉」に置き換えてみることで、何とかかんとか自身の心の一片を表現して伝えられるからだ。

そんなわけで、私は「遊び」や「芸術」としては言葉の表現を好むけれど、コミュニケーションの手段は、将来的にテレパシーに戻ると確信している。
霊的存在同士のコミュニケーションはテレパシーで行われる。あなたが自覚しているかどうかはわからないが、眠っている間のの中でもそうだ。
現状は、多くの人々が「霊的存在であることを忘れて、『肉体』を自分だと思い込んでいる」ので、テレパシーは表面上、ないことになっている。

テレパシーで思いをまるごと共有できると、表現するまでもなくその「元」を一緒に体験できるので、歪みも生じない。表現という間接的な手段を挟まず直に思いを体験できるなら、個々で「自分流に翻訳(解釈)」する必要もないのだ。

一方、気づいているだろうか。言葉は、同じ言葉を使っているようで、「各々の解釈」にゆだねられる。
ある人が意図した通りに、別の人がその言葉を受け取るとは限らない。違う世界やストーリー、異なる意味に置き換えられていたりもするのだ。
しかも、こうした差異を「防ごう」とすると沢山の言葉による説明が必要になることがあるし、どんなに工夫しても誤解は起こり得るというもどかしさも感じることになる。

このテーマに長期的に関心を持ち続けた結果、私は文章を書くにあたって「言葉をどういじるか」が本当はあまり重要ではないことに気がついた。
その時ふさわしい言葉、言い回し、文章の流れなどを選ぶことは必要だが、本質的にはそこがポイントではないと心底わかったのだ。

大切なのは「元にあるエネルギー」だ。
それから、そのエネルギーを「邪魔しないこと」である。

エネルギーを通らせているか、邪魔しているか。整っているけど生命のない表現と、粗があっても味のある表現

あなたも、気づいたことはないだろうか。
正しい日本語を使っているか否か、文章が巧みであるかどうか、そんなことを無視しても「心に迫ってくる」言葉があるということを。

文章というジャンルに限らず、その他の芸術作品でもそんな経験があるだろう。たとえば絵。上手い絵なのに心に響かないものもあれば、粗があっても惹きつけられる持ち味があるものもある。

心にしみ込む作品からは、作品を通して表現された作者の「エネルギー」にふれているとわかる。
「形」が、その人自身の放つエネルギーを邪魔していないのだ。
逆に言うと、「形」は整っているのに、ちっとも心に響かないものもある。
紙を食べているみたいに、味がしない。

私の感想として、近年とても増えたウェブライティング、中でもSEOを意識して書かれたサイトや、広告目的などセールスを中心に据えている文章に、よくそれを感じる。おんなじ「型」を背後に感じて、ああまたこのパターンの文章ね、と思ってしまうのだ。
ちなみにそういう文章に添えられた「イメージ画像」なども興醒めである。多くの場合、創造性を感じない。
noteのヘルプでも、記事に画像をつけることを(記事に関連した画像という範囲で)推奨しているが(「タイトルと見出し画像をつける」)、その方が読まれやすいという統計があるとしても、私は今、それを好まない。せめて本人が撮った写真や、作者の思い入れがあって載せた画像なら良いのだが。

「絵がついていれば、子どもは読んでくれるのよー!」とでも言うように、本来はなくてもいい「画」をマニュアル通りに付けることで「読ませようとする」のなら、子ども騙しのように感じる。
そのように画像を必ずつける習慣を持てば、人間の視覚の印象は強い(優位になりやすい)ので、記事内容がそのイメージに多かれ少なかれ「紐づけられる」あるいは「なんとなく彩られる」結果となるだろう。
私自身の好みでは、そんな余計なことをするのはまっぴらごめんだ(挿絵が余計になっている本を想像してみて)。

話を戻すと、どんなに「形」を整えても、作者のエネルギーがそこに通っていなければ、その作品は「生命を持たない」ことと同様なのである。

「創造の元」に必ず存在しているエネルギー。あなたを創造に導いたはずのエネルギー。それが通っていることを自分自身で「阻害しない」ことが大切だ。
冒頭で書いたように、熱意や向上心に見える姿勢からの「こだわりすぎる」傾向も、阻害に当たる。なぜなら、

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