植物も好きだ(我が家の生物事情、気やエネルギーの話とともに)

気持ちのいいくらい暑い毎日だね。セミさんたちの活動もたけなわ。
セミについての話題をまたもや(前回はこちら)下書きしてあるんだけど、それよりも先に今お話ししたくなったのは、植物のこと。
この記事では、私の植物たちへの思いとともに、植物とからめてエネルギーに親しんでもらうための解説もするよ。

なぜなら、植物の放つエネルギーはとても感知しやすく、目でも見えやすい上に、私たちを元気にしてくれる素晴らしいものだからだ。
(この記事後半のセクションでは、2017年12月に開催した「オーラ視と一年の総まとめ」講座の復習になる内容を載せている。)

スピリチュアルな分野を全部まとめてうさんくさいと思っていたり、物理的に計測できない事象は存在してないと信じている人でも、「エネルギー」という呼び方の代わりに「気」と言えば、受け入れやすいだろうと思う。
普段から、「元気」「陽気」「雰囲気」「気合」「殺気」……などの「気」を用いた日本語表現に親しんでいるはずで、それらの意味を知的に理解しているだけでなく、実際に自分でそれらがどんな感じなのかを経験したこともあると思うからだ。それほど「気」という言葉は身近なのだ。

私たちが「気」と呼んでいるもの、それがエネルギーで、私たち人間もまた他の生物やモノと同じようにエネルギー的な存在である。
エネルギーを、すべてに共通の「素材」のように捉えてもいい。

この点から、「物理的な理屈」に沿って言えば、私たちは自然豊かな環境の中にいる方が、健康でいることが容易だ。
なぜ「物理的な理屈」と断り書きを入れたかというと、環境以上に自らの「心の状態」が健康状態に影響するからだ。
だから単純に環境面についてのみ述べるなら、自然豊かな場所では、植物をはじめとする様々な自然界のエネルギー(気)が充満しているため、人間もそのエネルギーを吸収、同調しやすく、これが「元気」な状態の実現に貢献する。

でも、だからといって家の中に観葉植物の鉢植えを増やそうとか、街路樹を増やそうとか表層的に行動しても、植物のこともエネルギーのことも正しく理解しているとは言えない。

様々な植物の状態と、私が感じたこと

実は私は、鉢植えの植物には、野生の(あるいは庭などの土に植えられた)植物とは異なるエネルギーを感じている。
すべての鉢植えがそうだとは言えないのだが、少し苦しい感じがすることが多く、一人暮らしの頃などは部屋に鉢植えを置くとその気配とフィーリングが「気になってしょうがない」ので、快適ではなかった。
(そのときは家族がたまたまもらってきた蘭の大きな鉢で、私の部屋にも何か植物があった方が快適なのでは、という配慮で一つくれたのだが、事情を話してすぐに実家に引き取ってもらった。今もその蘭は元気だ。)

例を挙げると、ポトスのように生命力旺盛な植物からは、そうした苦しさを感じづらい。
関連情報として、サイパンの植物園で野生のポトスに驚いた経験をブログ内のこの記事に書いたことがある。
☆2011年8月の記事◆「植物って宝」

さらに興味深いことには、切り花だとこの苦しさは感じない。
感謝しながら花の美しさを愛でていられる。
ということは、もしかすると、生きている植物の鉢の中の「根」の苦しさを私は感じ取るのかもしれない。

そういうわけで、地面から生えている植物の方が、私は安らぎを感じやすいのだが、地面から生えているとはいえ、道路沿いに植えられて排気を浴びている街路樹と、田舎の山などで生えている木々との生命力の違いはもちろんある。
また、山の木といえども、生命力の様子が微妙だと感じる木もある。

でも、観葉植物が大好きな人は心配しないでほしい。
私の育ってきた環境も、そしてまた現在も、家の中にはたくさんの観葉植物があり、これは父が生物を大好きで何かしら常に育てている人だからなのだが、私がその様子を観察していても、彼ら観葉植物が特に苦しがっているとは感じない。

不思議なことに、生まれてすぐに家で飼われている動物たちと同じように、家の中で何年もかけて育ち、繁殖もしている植物たちからは、さほど苦しさは伝わってこない。特に、育てている人が愛情を持っている場合には、彼らはとても元気だ。「思い」は環境を凌駕するのだ。

その意味で、父は植物を無意識的に勢いよく繁殖させる人間なようだ。
英語でいう「green thumb(緑の親指、植物を育てるのがうまいこと)」の人。

ここで、私の育った環境に密接に関係している父と、父によって家にもたらされた生物事情のヒストリーを述べておこう。

常に生物を育てている父と、その家庭で育った私

私の育った家では、常に何かしらの生き物が複数種飼われていた。
私が高校を卒業する半年ほど前まで社宅の集合住宅に住んでいて、犬や猫のような種は飼えなかったのだが、色々な植物のほかに水生動物と、ある時期からは小動物がいた。

父が一番力を入れていたのは観賞魚で、私が生まれる前から、そして今でも観賞魚を育て続けている。
それはいいとして、その他にもなぜかカニやエビやザリガニやドジョウや、サンショウウオやオタマジャクシといった両生類や、それにカメもいた。
シーズンによっては、昆虫も少々。ただし他種に比べれば少なめだ。
そうした生物たちがどのような経緯で家に来たのか、子どもだったのでよくわからない。もちろん父と一緒に近所でつかまえた記憶のある生物も含まれている。

私と妹が少し大きくなってからは、リスやハムスターといった哺乳類が加わったが、その時だって、父が率先して買ってきたのだった。
もっと私たちが年頃になってから飼うことになったうさぎは、父の単身赴任先職場になんと「うさぎクラブ」があり、同志がうさぎを飼育していた中で仔うさぎが生まれたので、もらってきたという流れだ。そのクラブでは別の年にも仔うさぎが生まれ、父はまた欲しそうにしていたが、先住うさぎの気持ちを考え、私と母が止めた。
※追記……うさぎをもらってきた頃、父はその職場に遠距離通勤しており、まだ単身赴任はしていなかった。自分でお世話できない状況なのにもらってきたわけではないので、父の名誉のために補足(笑)

もっと変わったエピソードといえば、アロワナだ。
父の職場で、期限を過ぎたコインロッカーの中に取り残されていたアロワナの処分に困っていたところ、父が引き取ることになり、家に連れてきた。
アロワナは大型魚だ。家に来た頃はまださほど大きくなかったけれども。
どんな人が、なぜアロワナをコインロッカーに預け、どのような事情で放置して去ったのかは想像もつかなかった。
だがともかく、アロワナは我が家で暮らしていた。

集合住宅である社宅から引越した後、自分の家を手に入れて父が行ったことは(たぶん念願の)、観賞魚を飼育する面積の拡大だ。
社宅だった頃からベランダは、植物の鉢と観賞魚用の水槽やら(観賞魚を飼育するプラスチック製の入れ物)だらけだったのだが、さらに増えた。

家の中にはたちまち、業務用の冷凍庫※が置かれた。
上部に上開きの蓋がある、けっこうな大きさのある冷凍庫だが、この中に、冷凍赤虫など観賞魚用の餌を保管している。
※追記……実物を調べたら「家庭用」の表記があったので訂正。今も家にあって活躍している。長持ち!)
これがなかった頃には当然、普段使っている冷蔵庫の冷凍庫内に冷凍赤虫が入っていた。
ちょっと氷を出そうとすると、隣にブロック状の冷凍赤虫の袋がある。それが家の日常だったし、私たちが子どもの頃、泊まり勤務が度々あった父は、私や妹に糸ミミズを魚にやるようお願いしていったものだった。
成長する期間の餌やりは非常に大事なのである。

金属のボウルに水が入っていて、その中に、かたまりになっている糸ミミズが生きている。それを指ですくうようにほぐし、必要量を魚に与える。
子どもの頃、私と妹は糸みみずの触り心地を(かたまりになっているので藻のようなのだが)、ほわほわして気持ちがいいと思っていた。魚の気持ちになり、私はおいしそうとすら思っていた。
糸ミミズを「イトメ」とも呼び(調べたら関東での呼び方なのだそう)、私たちには生活の一部としてなじんでいた。
気持ち悪いと考えたことなど一度もなかったが、ミミズが苦手な人はあれも無理なのだろうか。

もしくは、早朝のミジンコ獲り。これは稚魚の餌用だが、父は遠出をして沼まで行って獲ってきていた。
それから、乾燥シュリンプの大きな缶など今も家でよく見かけるものだ。

植物も、いつの間にか増えている。
その鉢植えはいつ買ってきたの? と、家族が気づかない間に、父は植物を増やしているのだ。基本的にはどれもよく繁殖しており、時々人に分けたりしている。

そんな父は退職後、第二の人生の可能性としてだろうか、園芸か何かの資格を取ったのだが、結局その仕事はせずに、比重としては趣味の観賞魚飼育の方に精を出している。今は、家にある植物の数は控えめだ。
それに、父の植物の育て方はいわゆる「ガーデニング」とは全然違う。
見栄えよりも植物の生命力の旺盛さが目立ち、決しておしゃれではない。

ちなみに母はというと、生物が全然好きではない。
海も山もある田舎で育った母は(その点は出身地が違う父も一緒なのだが)、子どもの頃、虫やら両生類やらに囲まれてつらかったらしい。二度とあんな体験はしたくないと今でも言う。

仔うさぎが家に来たときにも母は、はじめは軍手越しにしか触れられなかった。ケージの掃除の時など、一時的に母にうさぎを抱っこしてもらう機会があったのだが、必ず軍手をつけて「早くしてー!」と言いながら困り切っていた。手触りが苦手だったのだそうだ。
それが! 我が愛しのうさぎの途方もないかわいさによってその恐れは短期間でみるみる克服され、なでることも抱っこすることも平気になり、やがては、近所を散歩する犬たちや猫たちに対しても、母はかわいいと感じることができるようになった。

そんな母だが、結婚する前から父は狭いアパートにすでに水槽を置き、観賞魚を飼育していたという。
母は、父の育てている生物に対して「我、関せず」という姿勢を保っていたつもりらしいのだが、やはり餌やりは頼まれていたし、時には、水槽の中にいたドジョウが自ら跳ねて地上に落ちてしまい、近所の仲良くしている奥様に電話して来てもらって水槽に戻してもらう……などのアクシデントも経験していた。それは相当昔の話だが、何か道具があったとしても、ドジョウをすくうことは気持ち悪くてできないのだそうだ(本人談)。
☆後日追記……私が家族と自然との関わりの中で体験している、母の独自の立ち位置については◆「秋の自然と家族【異なる性質の人もあなたを助けてくれている】」で、さらに詳しく語っている。

そんな少々奇妙な? 環境で育った私は、常に生物を育てている人(父)のそばで暮らしていただけの人で、父が持っている経験や知識を得ているわけではない。
自分が世話するようになっていたリスや一部ハムスター(これもまた、私が留学している間に父が……)やうさぎについては自らの経験も伴って詳しいと言えるが、せいぜいその程度だ。

そういう私が、大人になってしばらくして「遅れを取り戻すように」、身の回りの自然に熱心に目を向け、学ぶようになり、今に至る。

さほど植物に詳しいと思えない私が、道で出会った植物についてもっと知りたいとき、学ぶための補助となる「意外な方法」についてここで語ろう。

それは、「相手に聞く」ことだ。
つまり植物と交信するという直接的コミュニケーションだ。その他の生物に対しても、特に直接対面できている機会であれば、まずはこれを行う。
(本当は直接対面できない「遠隔」の状態でも同じことができるのだが、私の心情的に、直接ご対面した相手にそうすることにしている。)

私にとって、他の野生生物に対してよりも、植物との交信は易しい。
これは個人差があるので、一概にこの生物はあの生物よりコミュニケーションが難しい・易しいなどとは言えない。私にとってはそうだということだ。

直接交信。この方法は、楽して物事を知ろうとする「cheat」に感じるだろうか? いや、そんなことにはならない。
結局私はヒントをいくらか受け取るだけで、自分で調べる展開になることが多いのだから。

たぶん、ただ答えをもらっても、それでは学ぶことにならないのだろう。
自分で調べるというプロセスを経ることも、私の学習に役立っているのではないだろうか。

ヒントを語ってくれる「ささやき」

そのささやきは、こんな風にやってくる。

ここから先は

2,429字

¥ 1,150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?