Doer(行為する者)からの脱却

一時的に無だ。今の状態を言葉にするとそんな感じ。
といって虚無ではなく、無気力だとかの意味もなく、空っぽという表現でもない、無なのだ。

これはなんだろう。
想像するに、ちょうど台風の目の中にいる感じで、動きそのものがないとは感じられない。むしろ、ごうごうと激しく動いているものが私の知覚の外にあり、今は一時的に無の体験をしているというのがふさわしい。

物理的現実という側面から現在の私を見ると、やることはやっている、活動していると言えるし、心の中も普通に作動しているとしか言いようがないのだが、この無の感覚は無視できず、その正体を、正確に何が起こっているのかを、今の私には説明できない。

しかもこれは快でも不快でもない。少し前までの変化では明らかに「至福」の感覚を伴っていたのだが。現在の私が実感しているのは、この「個として自分を認識する私」は何も知らないんだなぁということと、かつてのようにそうであることに抵抗して狭い自我の観点でものごとを価値判断するのではなく、内にある知っている自己に任せるという姿勢が相当確立したんだな、ということだ。

つまり、「私という意識のシフト」だと表現することはできるのだが、このあり方にはまだ慣れ切っていない。

精神世界の概念に親しんでいる人に対してはこの変化を、私という焦点を「Doer(行動する者、行為する者)」に置くのではなく、全的自己に置いているという表現で説明できるのだが、しかし体感としてこれが整うことは、自我をリアルと感じていた自己の経験と比較するとあまりにも、規模や土台からして異なっているのだ。

あなたが自分のための精一杯大きな家を望んでいたとして、あなたにとってそれが実現するかはわからない、無理かもしれないと思うほどの願いだったとして、あるとき「何言ってるの、宇宙全部が君のものだよ」と、肩をぽんと叩かれ気づかされたら、どうだろうか。
これは比喩だが、そのくらいの規模の違いがあるのだ。

これ自体は私が前々回◆「Baby, It's Your World.」や、前回◆「やっぱり境界を見ていた【遍在している私】」でふれたことなのだが、そのときの啓示を機に起こった変化を通過した先に、今回表現している新しい感覚がある。
その時の変化の後に残っていたのは先に述べた通り「至福」の感覚で、私はすっかりその喜びをメインに記事を書くのだろうと思っていた。

でも、複数の要因が重なって、今日まで私は記事を作成することができない状況にあった。そうしている間に着々とさらなる変化が進行し、今の状態がある。

こうなるまでに、どんな流れがあったのかという背景から書いていこう。

浄化と新規巻き直し

ブログの方では知らせていた通り、この十日以上の間、私は妹の家を訪ねて連泊したり、パソコンをメンテナンスに出したりして執筆から離れていた。

妹の家に行くこと自体も一年以上前以来のことで、どのくらい泊まるかなどの予定をあらかじめ立ててはいなかったのだが、まとまった日数妹と過ごしたおかげで、今月自分で設定したテーマの「Sweet」は十二分に達成される結果となった(関連記事◆「10月のテーマはSweetで☆知覚と世界」)。
妹は私にとってのSweet Thangと言うことができるからだ。
そのテーマが浮かんだ頃には、訪問することが確定していたわけではなく、妹と関連付けて考えていたということはまったくなかったのだが。

ところで、妹の家に出発する前夜から自宅では「浄化の象徴」と捉えることのできる出来事があり、それは家の物理的な設備に関することだった。
翌朝、家族による思いがけない発見と対処で円満に解決した上、一同「気づいてよかったね!」と言い合うような結果になったのだが、このときから何かが始まっている感じはあった。

そして妹の家にいた間は、私たち二人なりの、時空を忘れた過ごし方をしていて、その体験の独特さからお互いにそれぞれ「この時間を過ごす前の自分のエネルギーに戻れるかな?」と、内が変化してしまったことをすでに実感しながら自分の日常に戻っていったのだ。
私たちはたいていの時間ふざけているか、なにげない話題から妹が質問をし、私が答えるという会話をしているうちに始まる「スピリチュアリティーの観点から深掘りした話」をしているかのどちらかで(これも二人の組み合わせならではの特有のバランスによる)、そうしながら物理的状況においても、やはり象徴的な出来事をいくつか経験していた。

たとえば妹の家で、備品の交換時期をはるかに過ぎていたのに妹自身はそのことに気づいていなかったとある設備の異常に私が気づいて指摘をし、新しく交換したり、あるいは妹が欲しいと思いつつなかなか購入せずにいた物を、私が参加することで本人の望みにジャストな物を選ぶ背中押しをして、ついに購入したり。
予想外の複数の出来事によって妹の暮らしの快適さや利便性がアップするところまで見届けてから、私は帰ることになった。
文字通り、新しい物への交換やニューアイテムの登場という日常的・物質的な視点からもわかりやすい「浄化」や「気がかりだったことが刷新される」要素が認められる滞在となったのだ。

もちろん、そうした妹を見ていた私自身も同期間に何かしらのアップデイトをしていたことは疑いもない。
帰宅後、まだパソコンが手元に届かない日々を過ごすうち、出かける前も、妹宅にいたときも、ずっと変わらずに同じ感覚を保ち続け、記事に書きたいと思っていた内容が驚いたことに自分の心から薄れていった。

そして、今だ。
一時的な、無。

現在の私が伝えたいことは、私がこれまで説明してきたこと、記事や講座で教えてきたことと何ら変わりはないのだが、体感して「ああ、」と思うことと、あるときは体感しあるときはそうではない、という途切れ途切れの余地がある状態から伝えるのとは大きく違う。

平たく言えば、私はここにはいないのだ。
ここというのは、物質世界という「意識が作っている映画の中」のことだ。

そしてそれを表現するのに便利なのが、既出の「Doer」ではないという言葉なのだった。

すべてであることと、Doerではないという体感の説明

「肉体という枠組みをリアルとし、それを自分と思うこと」から外れると、あなたはすべてになる。
これを概念上の説明としてでなく、私の実体験に沿って具体的にここで言語化しよう。
この感覚がわかれば、他者と比較することの意義も根本からなくなるので、その点を知りたい方にも読んでほしい。

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