難易度の幻想について(創造者の自覚、現状報告とともに)

ある閾値を超えてしまって以降、「書いて表現したい」という望みがあまり起こらなくなっている。
芸術表現というのは多かれ少なかれ皆そうと言える部分があるものの、私は結局、個人の楽しみとして書いていたというよりは「イタコ」だったのだなとつくづく感じている。個人の楽しみと、それとは重なってはいたのだが。
この世界という「夢」のリアリティーに属するものではなく、その外からの観点を伝えることに最もよろこびを感じるということだ。
書く活動が今後も続くなら、何らかの新しい要素が私を動かすまで、しばしこんな調子なのかもしれない。

この数か月間のnoteを(正確に、この流れがいつから顕著になったとは言えないのだが、目覚ましくなったのは2020年9月くらいからだろうか)追ってくださっていた方はご存知の通り、自分のこれまで学んできたことがすべて実感を伴って統合され、「この夢(物理的現実)とは何なのか」をマスターしたので、今は夢を実際に完成させることに関心が移っている。

★夢の完成とは何か、書くことのその後の展開など、◆「喪失の観念、死を信じることを手放す【永遠のコミュニケーション】」で説明しています。

ブログの過去記事で説明した◆「目覚め(解除)の段階と、創造のスタートライン」に則って言えば、第三段階目を習得し終わり、「目覚めたまま創造するためのスタートライン」を超えることができたのだった。
すると、実用し経験することの面白さが先に立ち、これまでないほどのよろこびや感動を味わいながらも、それを書いて表したいと思わないのだ。

ひとつは、そのワクワクやよろこびが大きすぎて言葉にできないから。言葉に限定することをしたくない。
もうひとつは、同じ感動やよろこびを味わってもらうためには、言葉による説明ではなく、やっぱり自分で経験してもらうしかないからだ。
この点で、「そこに到達するまで」に必要なことはすべて書き尽くしたし、基盤となる概念は手を替え品を替え、繰り返し書いたり教えたりしてきた。
このnote内では★霊的目覚めと創造★というマガジンにそれらの記事を収録してある。

私が新しく更新していく記事ではもう、そこに至るまでの学びの要素に焦点をあてることはしないつもりだ。言及することはあっても、その内容を中心に書くことはおそらくしない。
それについては前々回◆「次なる幕開け、ダイレクトコミュニケーション」や、前回◆「マスターの道」でふれた通りだ。
だから、もしあなたが「創造者であること」を自覚できないとき、あるいは目覚めたいと願いながらも「夢の中の登場人物になり切ってしまう」状態にあるときは、過去の記事の中から心ひかれるものを読んでほしい。
あなたの直感にしたがって選ぶと、きっと役に立つだろう。

12月13日の日曜日には、今年は一回だけとなった講座を行ったばかりだが、これもまた内容的に、前述した通りの「コンプリート」感を網羅し尽くしたものとなった。
当日いらした受講者の方々には直接お話ししたことだが、以後、同じ内容や「そこに至るまでの過程に焦点をあてる講座」を自ら開催することはないのではと予感している。

そんな中、このnoteに新設したマガジン(マガジンは、読む方が記事を探しやすいよう、おおよそのカテゴリーごとにまとめる目的で用いている)は、★創造のマスターとして生きる★だ。

ここからは「概念を理解した上で、経験すること」の領域なので、読む方は自分で実行し経験するきっかけに利用してもらえるといいなと思っている。実用に重点を置くことは、これまで以上にね。

今回はそのテーマに沿ってひとつ、「難易度の幻想について」お話しする。

難易度の幻想は、気づくと面白いもの

物理法則を信じていれば、様々なものの違いに応じて、「〇〇しやすさ」「難しさ」などがあることが当たり前に思える。
一例を挙げれば、重いものは、軽いものよりも動かしづらく、動かすときにより多くのエネルギーが必要だ、とか。
近くに行くのは簡単だが、遠くに行くのは難しい、とか。

あるいは、あなたの心の中で信じている「物差し」としての観念もある。
それは、物理法則のように他者と共通だとは限らない。
あなたならではの「こだわり」や「すっかりそうだと思い込んでいること」にすぎず、それが過去の経験や学びによって形成されていて今適用しなくてよいのだとしても、信じているあなたには実際に意味を持つ。

ところで、観念はどの程度変えられるものなのだろうか?

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