神の道を歩むことへの誤解【自分自身を生きることはあきらめること?】

明けましたよ、新しい期間が。
エネルギー的にもう「新学期」ですよー。
――先月から、「終了と始まりへの準備」の様子を夢で見ていることを報告してきたが、今月に入って間もない、8月2日に見た夢で、私は新しい期間が幕開けしたのを確認した。

夢で観察しているサイクルについては◆「意図の結果である5W1Hをコントロールしないこと【夢から学ぶ叡知】」で説明したように、今夏だけが特別なのだと思っているわけではない。
ただ、今年体験している「終わりとスタート」の感覚は、ドラマチックというか、何か確かな「大規模切り替え」の実感を伴っていることも事実だ。

こうした私の実感や、夢の中で連続的に見ていた進行状況は、先月の記事の全体(☆2020年7月のnote☆)に反映しているし、直近では、
「問題を作りたがる癖を手放し、真の自己の道を歩む」と、
「生命形態と意図、たくさんの目、虫から見つめる知性」の中でそれぞれ夢の様子を描写している。

そこに書かなかった内容で、先月の他の日の夢では以下の象徴的表現も体験していた。
いずれも「ある時期が終わり、次への準備をしている」表現としてわかりやすい。複数の要素を挙げてあるので、あなたの夢を理解する際にも活用してみよう。

夢に現れる象徴と、象徴への反応の変化を見る

(ここから、夢の描写)
私は高校らしき雰囲気のところで、これから始まる学年で着る新しい制服をクラスメイトの女の子たちとにぎやかに選んでいた。カタログを持ってきた業者がいて、生徒たちに見せていたのだった。
また、旅立つ人を見送りがてら援助する(旅先でも不自由なく過ごせるように助けている)夢を見たり、これは私の記憶する限り初めてのことなのだが、自分の乗っている鉄道の「終点」を見たりした。
ご親切に、終点の駅には「終点! おめでとう」という意味の、祝いの標識まで掲げられていたものだ。

ひとつ前の夢の話では「収穫」がテーマだったことをすでに記事にしたが、その翌日の夢にあたる8月2日の夢ではまたもや学校が舞台で、入学もしくは新しい学びのスタートであることが表現されていた。
これ自体は、私の夢における象徴表現のパターンとして目新しくはない。
これまでと違っていたのは、その光景に対する私の「感じ方」だった。

それは地球上でいう大学に見える風景だった。陽光がきらきらしていてまぶしい。よく晴れた輝かしい日だ。
広いキャンパスには大勢の学生がいる。活気がある。
私は夢で何度もこの光景を見ているが、今までは何かしらその中で「迷っている」自分を体験することが多かった。

あれ? 私はここに入学したんだっけ? どっちに向かっているんだっけ?
自分の状況に対して迷っていることもあれば、物理的に建物や教室がわからなくて迷っていることもあった。

ところが、今回は違った。
私には、確かな「私はここを知っている」という気づきがあったのだ。
まるで広いキャンパス全体と周辺の地理を俯瞰できていて、どこをどう通ったら正門で、こっちの踏切を通るとここから大学に入れて、裏道を通るならこちら、教室への近道ができる――などを確信しており、実際に歩きながらその通りであることを確かめた。

そう、そこはすでに私のよく知っている場所だったのだ。

あるシーンでは、始業時間が近くなっていたので私は裏道を通り、目的地へ近道することにした。すると、通り道に、コンクリートのとても急な勾配が立ちはだかった。
塀というよりも、勾配だ。高さはそう高くないが、斜面の角度が急なので、登れるかどうかはわからなかった。

私はそれによじ登り、乗り越えることにした。
私のほかにも、同じように勾配を乗り越えている学生たちがいた。

そのとき、これは私の中の「学生」のイメージの反映だったのだろう、私は気づくと制服の短いスカートをはいていたので、一瞬、よじ登るときにスカートを見下ろした。だが、「スカートだけど、いっか」とちらりと思ったや否や、たちまち斜面を力強くよじ登った。

びっくりするほど、ぐんぐん登れた。そして何の苦もなく反対側に降りることができた。着地した裏庭からは、目的地へすぐだ。

これはその夢の中でもとても印象に残っている部分で、度々見たことのある大学の光景という材料は同じでも、自分の反応や感じていること、体験が全く異なるという「変化」を認識できたものだった。

そして、その後の別の日の夢でも、やはり以前から夢の中で度々見たことのある大型施設を巡っている私が、「この施設の中には、こんなお店もあったんだね、全然知らなかった!」「こんなコーナーもあったんだね」と、友人に語りかけながら感心するという体験をしていた。
色々な素敵なものが、まばゆい色彩を放って明るく輝き、そこら中にあふれていた。
(夢の描写、終わり)

見た日も舞台設定も違うこれらの夢は別々のものに見えるかもしれないが、夢が表しているテーマは一貫して同じであるとわかる。
私は「未知」に見える「既知」を把握し、その通り体験しつつあるのだ。

夢が個人的象徴を用いて何を表現しているかという「本質」を理解できれば、あなたもあなた自身の夢から多くの収穫を得るだろう。

こうして、起きている間の自分と夢での自分と両方を見つめながら、今の私が「今後の要となる」と感じている気づきを、ここからはお話ししよう。
それは先月の間に私が「この錯覚は完全に手放す時だ」と自覚したことでもあった。

神の道を歩むことは、世捨て人になることとイコールではない

宗教的意味合いや、集団または個人の観念が様々に付与される「神」という言葉をあまり私は用いないのだが、今回はあえて神という言葉を使う。
普段私が「真の自己」や「源の私」と呼んでいるものと同じである。

神の道を歩む、というとき、それは決して宗教に関わることでなく、あなたの「本来の道」「真の意味であなたの心にぴったり沿った道」を歩むということである。

エゴの声や衝動に従うのではなく、自分の本当の意思に従うという意味で、神の道を歩むことを「明け渡す(Surrender)」と表現することもある。

しかし、誰が、何に明け渡すと思っているのかに注意したい。
あなたは、明け渡すことが何らかの犠牲を払うことだと思ってはいないか?

エゴというのは、誤解、錯覚に基づいて発生している機能なので、あなたがエゴの声に従うと必ずあなた自身を追い詰め、苦しめることになる。

エゴは一見、あなたの「命を優先し、あなたを救おうとする」考えのように感じられるのだが、実際には「あなたを殺し、否定する」のだ。
これが、人によってはその考えを外側に投影して「他者を殺したい、世界を否定したい」などの考えになることもある。
しかし霊的存在であることをわかっている自己からすれば、そのベクトルがどっち向きに表現されようと、やっていることは同じだ。

どういうわけか人間は、エゴに従うことの方が「利がある」と信じるようになってしまった。
その一方で、神の道を歩むことには「試練や困難が伴う」と錯覚した。
その発展形として、いわゆる出家や隠遁、修行、「世捨て人」になる考えも生まれた(出家や隠遁などの「行為」をしている人たちが必ずしもそのように錯覚しているという意味ではない)。
少なくとも、本当は望んでいる何かを「あきらめる」という消極的な、自己否定的な意図が含まれているならば、あなたは間違っている。

さらには、自分の外部に見える何かを否定したり、同じ見方を保ったままで避けたりすることが、自分を救う道になると考えることも間違いである。
外に見えるものは内の反映であり、それ以上のものではない。
あなたが外から影響を受けるなら、それは「外からという見せかけを使ったあなたの内側の作用」でしかない。
内からしか、物事は変えられない。

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