Message in a bottle, Love letters for you【エネルギーを表現する】

引き続き、文章表現に気持ちが向かわず「活動」が見えづらい時期が続いているけど、元気に過ごしているよ。と、これは定期的に私のnoteブログを見に来てくださる方へのごあいさつ。
「生きてるだけで幸せ!」という感じが今の私を描写するのにぴったりで、何がなくともじわじわとうれしさが内から湧いてくる。

前々回と前回、
「何もしないを見守る春【あなたの価値】」
「薄らいでいくことと存在のよろこび、コミュニケーションの姿勢の変化」
で書いたことを読んでもらうと、その流れや雰囲気が伝わると思うんだけど。

ただね、表層的な活動としてわかりやすく「今、これをしてます」っていうのは無いわけだから、自分の時間を「役立たせ、貢献する」ために、たとえば以前のようにスカイプや電話の個人セッション(スピリチュアルカウンセリング)をしようか、またはこの状況でも開催できるオンラインの講座をしようか、などとは何度も考えた。物理的には私の決意ひとつでそれができるわけだから。
これまでセッションや講座でお話ししてきた方々が元気でいるだろうか、ということは私の心の中に一定のスペースを持っている。でも、そこにあるのは「心配で案ずる」エネルギーではなく、光輝いているスピリットへの敬意と親しみ。

だから、自分がとてもとても楽しい気持ちで今「ただそうしたい!」と思うのでない限り、セッションや講座をすることはやっぱり違う、私がすることはそれではないとその都度思い直したのだった。時間があって、しかも誰かのお役に立てるかもしれないという「マインドが思い描く動機」だけからはそれはしないんだという決意。

「何もしない」ことを受け入れると、自分がまとったものを身ぐるみはがしていく作用がある。
(何もしない、の意味は、行動しないの意味ではない。未読の方は◆「何もしないを見守る春【あなたの価値】」をどうぞ。)

「何かしなくちゃ」と思う自己につられず、芯から本当に自分を動かすものにのみエネルギーを向ける。

あたかも後ろから火が追い立ててくるみたいにね、私たちを脅してくる幻想はたくさんある。これをしなくちゃ、あれをしておかなきゃ、そうじゃないと恐ろしいことになる……! あなたをせきたてるその声は、ときに「外から」提供されるように思うかもしれないけど、必ずあなたの「内から」鳴り響いている。
苦しみのない人生を生きたいなら、それに対応し続けず、習慣的に怯え続けず、自分の恐怖の正体を直視しなければならない。

――それは「無」だ。
実体が無いとわかったら、あなたは本当の「私」に戻る。平安の中でエネルギーが湧き続けている私に。

苦しみは、あなたの「外」にはない。本当にこれだけの、シンプルなことを私たちは否定するために、たくさんの恐れに自ら実体を与え、幻想を作る。

Love letters for you, 書くことは

「書くこと」に対してペースをゆるめている今、ふと思ったことがあった。
私は振り返ると十五年以上は継続的に、それが専業ではなくても何かしら書くことをしていて、その過程ではいつしか余分なものもまとってきたかもしれない。

たとえば現在も存続させているブログは、はじめ違うブログサービスを利用して立ち上げたものなのだが、当初はペンネームで、個人の背景をあまり明らかにしすぎないつもりで書き始めた。それはその頃、私がどんな人かということよりも伝えたい内容があったからだ。

それが途中から、前述の「個人セッション」の窓口として機能させることを考えたときに、私がどんな人間かという情報も入れた方がいいと思い、なるべくそうするよう努めた。そうした変化自体は問題なかったが、ふだん自分の記事を読み返さない私がサイトの整理作業や過去記事へのリンク作成などで自分のブログを振り返ると、「ああ、この頃は楽しそうだな」と思う時期と、「一生懸命書いているけれど、この頃は無理してるな」とわかる時期がある。

こう言うと「えっ」となる人もいるかもしれないが、読者のこと、自分が想定している「みんな」のことをまず考え、配慮して書いていたつもりの記事は私から見ると面白くない。みんなというのは幻想だからだ。
配慮はあってもいいが、それに内容を侵食させてはいけない。

逆説的だが、自分が書きたいように書いているとき、楽しくてたまらないとき、読む人たちに伝わる「愛」もそこにあふれる。自分が自分でいるとき、愛のエネルギーが最もほとばしり、浸透するからだ。

私は色々な文体それぞれに魅力を感じるが、ブログでは途中、なるべく丁寧な文体を心がけた時期もあった。
敬語は優しく親切な感じを与えやすいが、ときに回りくどく、スカーン! と伝えたいエネルギーがそのせいで伝わらないことがある。
私は歌のように、ラップのように、遊びながら言葉を繰り出していくのがわりと好きなので、丁寧さに一定の注意を払っていた時期はそれが「枷」にもなっていたなと思う。それでもその頃の私にはその流儀がちょうどよかったのだろうが。

「書くこと」という行為は中立で、手段にすぎない。
結局、目的は自分の内にある情報、もっと言えば無形の「エネルギー」を伝達したいのだ。形を実体と見るこの世界では、それが行為となり、伝達の手段となる。でも、形そのものに意味は宿らない。

私にとって書くことは、

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